ゴジラ対自衛隊 〜映画の中の自衛隊〜

戦後初めての災害派遣


 日本がGHQ統治下にあった1951年(昭和26年)10月9日に、グアム島の西海上で発生した通称『ルース台風』は13日夜に宮古島と沖縄本島の間を通って東シナ海に入り、14日19時頃鹿児島県串木野市付近に上陸した。台風は速い速度で九州を縦断、山口県・島根県を経て日本海に出て、北陸・東北地方を通って15日夕方には三陸沖に進んだ。非常に強い勢力の台風であり、防風半径も広く、各地で暴風が吹き荒れ、大雨が降りそそいだ。山口県では土砂災害や河川の氾濫が相次ぎ、400名を超える死者・行方不明者が出るほどの被害が発生し、土砂崩れや河川の反乱が相次いだ。

 この被害を前に、当時の田中 山口県知事の要請を受けた自衛隊の前身である警察予備隊 第11連隊は情報収集を開始。第4管区総監部(現在の第4師団司令部)に指示を仰いだ。しかし、第4管区総監部(現在の第4師団司令部)は、前例がないこと(当時の警察予備隊には、災害救助の任務は付加されていなかった。)と許可権があるのは内閣総理大臣にある、という理由から「出行保留」(事実上の出動不許可)の判断を行った。

 この回答に対し、副連隊長が第4管区総監部に出向き――すでに副総監は官舎へ戻っていたため、官舎に押しかけてまで、現地の状況を写真等を交えて説明し、改めて出動許可を求めたが、結論は覆らなかった。それどころか、決まったことを蒸し返すなと叱責される始末であったという。副連隊長は、命令系統を無視することを承知で仕事を終えて総監部を出てきた管区総監(現在でいう師団長)に直訴。これを聞いた管区総監は直ちに東京の総隊総監部へ連絡を入れた。そこから吉田 内閣総理大臣へ出行要請が届き吉田 内閣総理大臣の判断で派遣が決定した。

 許可権を持つ総理の命令が出たことで、出行保留は撤回され、正式に部隊派遣の命令が下された。10月20日から26日にかけて第11連隊の隊員述べ2700人が山口県玖珂郡広瀬町(後の錦町→岩国市)に派遣され、救助活動を行った。

 これが、戦後初の災害派遣事例であった。それから警察予備隊から自衛隊と名を変え、災害派遣は2016年1月現在32000件を超えた。“主任務” を「外国勢力の侵略から日本の国土を守る」とする自衛隊にとって、災害派遣は“従たる”任務であるが、国民が自衛隊を最も身近に、そして頼りに感じるのがこの災害派遣である。

自衛隊事件簿