ゴジラ対自衛隊 〜映画の中の自衛隊〜

三無事件


 1961年(昭和36年)12月12日。警視庁公安部による東京、福岡など全国32か所の捜索が行われ、川南工業社長・川南豊作(当時59歳)を中心とした旧軍人、学生らのグループ13人が逮捕された。逮捕者の中には、元陸軍少将の桜井徳太郎、五・一五事件の中心にいた三上卓 元陸軍中尉、「国史会」主催者の小池一臣などの名前もあった。戦後日本で初めての(そして2016年3月現在に至るまで唯一の)破壊活動防止法が適用された、クーデター未遂事件が発覚した瞬間である。ヘルメット388個、防毒マスク100個、作業衣99着、戦闘帽99個、日本刀8振、ライフル銃2丁などが押収された。最終的には34名の逮捕者を出した。発覚した当初は、「国史会」事件とも称された。

 犯人たちは、1960年安保闘争の盛り上がりから近いうちに共産革命が起こると危惧し、川南工業社長の川南豊作を首謀者に暴力による政権転覆を実行に移そうと考えた。その思想は、無税・無失業・無戦争を柱としたもので、三無と呼んでいた。公社公団の民営化により無税を、大規模な公共事業による失業者の吸収により無失業を、ミサイルや宇宙兵器の開発を進め、他国からの侵略を不可能にすることで無戦争と達成する、というものだった。また、老子の「無は有に転ず」の言葉から「さんむ」ではなく「さんゆう」と呼んでいたという。

 川南らの計画ではは250人を動員して、国会を占拠し、閣僚や議員を拘束、場合によっては殺害し、非常事態の宣言を行う。さらに、共産党や組合幹部、有力政治家の暗殺を行うとともに、報道管制を敷き、自衛隊には中立を求める。そして臨時政府を樹立する、というものであったらしい。計画が公安に察知された理由については、協力を求めた自衛官からとか、グループ内に内通者がいたとか、時の大物右翼からとか、いろいろ説はあるものの、明らかにされていないという。64年5月、東京地裁で川南の懲役2年をはじめ8被告が有罪となり、東京高裁、最高裁とも地裁での一審判決を支持した。直接の容疑内容は殺人予備や銃刀法違反であったという。自衛隊がこの事件に直接関与したという事実は確認できず、現役自衛官が逮捕されたという事実もなかったが、グループと関わりがあった30人以上の自衛官が左遷されたとも言われている。

自衛隊事件簿