ゴジラ対自衛隊 〜映画の中の自衛隊〜

三矢研究問題


 1965年(昭和40年)2月10日の衆議院予算委員会で岡田春夫衆議院議員(社会党)の質問により、自衛隊統合幕僚会議が極秘裏に進めていた三矢研究の存在が明らかになった。三矢研究は、正式名称を昭和三十八年度総合防衛図上研究といい、第二次朝鮮戦争を念頭に置いた机上作戦演習(シミュレーション)だった。名前の由来はわかっていないが、昭和三八年の語呂合わせで三矢となったとも言われる。

 統幕事務局長の田中義男陸将をトップに、統合幕僚会議の佐官級16名、研究部として陸海空の幕僚監部から佐官級36名が参加していたとされる。期間は1963年2月1日から6月30日まで。目的は、朝鮮半島で武力衝突が発生した場合、日本へ波及することを想定し、日本防衛のための自衛隊の運用と関連する諸般の措置および手続きを統幕の立場から研究することを目的としていた。そして、その目的の遂行のために憲法停止、国家総動員体制の整備まで含めて“研究”したものであった。

 岡田議員が三矢研究について取り上げると、政府側は虚を突かれた格好となり、佐藤首相も不用意にシビリアンコントロールを逸脱していると答弁し、混乱に拍車をかけた。野党は三矢研究の全資料の提出を求め、責任の所在を追求した。マスコミも批判一色の報道を行った。防衛庁(当時)は「三矢研究は”研究”の性質上結論はなく計画でもない」「国会と自衛隊、政府と自衛隊、防衛庁内局と各幕僚監部の関係を見た際、既にシビリアンコントロールは成立している」と釈明と対応に追われた。

 とはいえ、有事の際に自衛隊がどのように動くべきかを研究するのは、自衛隊の主任務が国防にある以上当然のことでもあるし、いざ有事というときに何の研究もしておらず動けなかったというのでは、それこそ本当に税金泥棒である。しかし、いかなる戦争もするべきではないという意見が八割近かった当時、「有事を想定した研究をすることは、実際に有事を起こすことを計画しているのと同じ」という論がまかり通っていた。

 三矢研究問題によって、日本の有事法議論はタブーとなり、本格的な議論は21世紀を待たなければならなくなった。ようやく2003年6月に武力攻撃事態対処関連三法が成立し、2004年6月に国民保護法等が成立したことで有事の危機対応の基本的な法整備がなされた。ちなみに、このときの小泉純一郎内閣総理大臣は、三矢研究問題が発覚した当時の小泉純也防衛庁長官の長男である。

自衛隊事件簿