ゴジラ対自衛隊 〜映画の中の自衛隊〜

第拾雄洋丸に対する実弾射撃


 1974年11月9日の13時40分頃、東京湾の中ノ瀬航路にて日本船籍の「第拾雄洋丸」とリベリア船籍「パシフィック・アレス」の衝突事故が発生。「第拾雄洋丸」には合計57000トンのプロパン、ブタン及びナフサを積載されており、漏えいしたナフサに引火、炎上した。海上保安庁の巡視船や「第十雄洋丸」の水先艇の「おりおん1号」が救助活動に当たるとともに、海上保安庁の消防艇のみならず、、海上消防委員会、東京消防庁、横浜市消防局、川崎市消防局が消防艇を派遣し懸命の消火活動が行われた。しかし「第拾雄洋丸」は当時国内最大のLPG・石油混載タンカーであり、消火は困難を極めた。

 自衛隊の出番がめぐってくるのは事故発生から10日以上経過してからのことである。この間、海保・消防・民間の各機関が連携し、燃え続ける第拾雄洋丸が本土に接近しないように東京湾内の安全地帯への曳航して座礁させ、懸命の消火活動、救命活動が行われた。しかし、いずれは燃え尽きると思われていた搭載されたナフサは燃え尽きる気配を見せず大爆発が懸念されたこと、沿岸の漁業者からの苦情などの事情があり、太平洋上に曳航することが決定し、野島崎東約200キロの地点で搭載物を燃やし尽くす計画が立てられた。損傷したタンクには化学消火液を注入し爆発の危険を最小限に抑えた上でタグボート6台による曳航が開始された。計画はうまく行っているかに思えたが、東京湾を抜けて州ノ崎沖に達したときに再び爆発が起こり、船体が炎上した。これ以上の曳航は危険をと判断し、タグボートから第拾雄洋丸は切り離された。

 黒潮に乗って漂流を始めた第拾雄洋丸はいつ爆発するかわからない危険な代物であり、環境への被害も甚大なものになると予想された。海上保安庁は防衛庁に第拾雄洋丸の処理を要請した。要請を受けた宇野宗佑防衛庁長官は中村悌次自衛艦隊司令官へ命令を下した。11月22日のことである。海上自衛隊は、第拾雄洋丸の図面を入手し、撃沈方法を検討した。相手は頑丈で、かつ浮力の大きい大型タンカーである。艦砲射撃および爆撃によってタンクに穴を空け搭載物を燃やし尽くした後、魚雷によって撃沈するという作戦が立てられた。出動したのは、護衛艦部隊が「DDH-141 はるな」(旗艦:宮田敬助司令官)「DD-164 たかつき」「DD-166 もちづき」「DD-102 ゆきかぜ」、それから潜水艦「SS-569 なるしお」「P-2J対潜哨戒機」であった。魚雷には配備が始まったばかりの72式魚雷ではなくMK37中魚雷が使用されることが決まった。最新兵器の能力をマスコミの前でさらしたくはなかったのかもしれない。

 護衛艦部隊は11月26日に現場に到着。翌27日13時45分に作戦が開始された。13時45分と2時間後に5インチ砲から計72発の艦砲射撃が行われ、搭載物をある程度燃やすことに成功した。翌28日の午前中にP-2Jの編隊から127mmロケット弾12発と対潜爆弾16発を投下した。各9発ずつが命中したとされる。午後から「なるしお」がMK37中魚雷4発を発射。うち2発が命中している。しかし、それでもなお第拾雄洋丸は不沈艦のごとく浮き続けた。しかし、「なるしお」のソナー員は第拾雄洋丸の船体がきしむ音を聞いていたという。夕方から護衛艦隊が再び艦砲射撃を実施。この時に発射された砲弾の数は明かされていない。18時ごろ、事態は急展開を見せる。不沈艦のごとく沈没を拒み続けてきた第拾雄洋丸は爆発の数が増え、船尾が急速に沈んでいった。護衛艦部隊や浮上した「なるしお」の海上自衛隊員たちが見守る中、断末魔のような大爆発が立て続けに起こり、その火柱は300mにも上ったという。18時45分ごろ、船首を上に、屹立するように6,000mの深海へと沈んでいった。

 沈没確認後、「はるな」から無事作戦が終わったことが伝えられた。そして、艦隊からの「悲しみの譜」のラッパ演奏で第拾雄洋丸の最期を看取った後、海上自衛隊は監視の巡視船を残して帰途についた。当時は、この自衛隊の実弾を用いた災害派遣はあまり大きく取り上げられなかったという。この事件を教訓に、ハード・ソフトの両面に大きな変化が加えられた。海上保安庁では大型タンカー火災に備えて消火船の追加建造が行われ、大型タンカーの曳航が可能な「たかつき型」巡視船の建造につながった。また、羽田の特殊救難隊(特救隊:SRT)も、本事件をきっかけに創設されたとされる。

自衛隊事件簿