ゴジラ対自衛隊 〜映画の中の自衛隊〜

宮永スパイ事件


 1980年(昭和55年)1月18日。警視庁公安部外事第一課は宮永幸久元陸将補と現役の陸上自衛隊の准尉と二等陸尉の二名を逮捕した。宮永元陸将補が現役時代の部下を通じて入手した自衛隊の機密情報を、ソビエト連邦(ソ連)のゴズロフ大佐に渡し、報酬を得ていたという事件であった。宮永元陸将補は、旧陸軍士官学校を卒業し、陸上自衛隊では調査学校の副校長も務めた人物で、特にソ連情報の専門家であった。ソ連側の窓口がゴズロフ大佐(ソ連軍の情報機関であるGRUの所属であったとも言われる)であったことからゴズロフ事件と呼ばれることもある。

 1973年(昭和43年)に定年を目前に控えていた宮永元陸将補は再就職の斡旋を求めてソ連大使館の武官であったリバルキンに接触したことから事件は始まる。翌年5月に退官した宮永元陸将補とリバルキンは接触を重ねるようになり、当初は国際関係――特に中国とソ連との関係について意見を交わすだけだったが、やがて中ソ間での紛争回避を名目に中国の情報提供を求められるようになった。その情報の多くは中国の軍事情報であり最初は公刊情報にコメントをつけて渡す程度だったのが、要求は次第にエスカレートしていき、やがて自衛隊の秘密情報を求められるようになり、宮永元陸将補はこれを承諾し、ソ連のエージェント(協力者)となった。

 宮永元陸将補は中央資料隊に在籍していたころの部下(二等陸尉)を通じ、秘密文書の保管事務を担当していた隊員(准陸尉)に接触。私的研究の名目で秘密情報である「軍事情報月報」などを受け取り、渡すようになった。昭和53年11月にリバルキンからマリヤソフに引き継がれ、昭和54年8月にゴズロフが来日。宮永元陸将補は、ソ連諜報員から諜報用の暗号無線受信についての指導を受け、情報の受け渡しの手法を教わっていた。しかし、ソ連大使館に頻繁に出入りする宮永元陸将補を、警視庁公安部外事第一課が不審に思い捜査が開始された。陸上自衛隊の中央情報隊も捜査を始めていたという。昭和55年1月17日に防衛庁の資料を受け取るところが確認され、翌日、宮永元陸将補と現役自衛官2名が自衛隊法違反などで逮捕され、乱数表や受信機などが押収された。警視庁はゴズロフにも外務省を通じて出頭を求めたが、ソ連はそれを拒否しゴズロフを帰国させた。

 前年12月24日にソ連がアフガニスタンに軍事侵攻を始め、ソ連の脅威に国民が敏感になっている最中に起きた出来事だけに、自衛隊の元高級幹部が関わったスパイ事件はマスコミは大きく報道した。検察は自衛隊法違反の罪で宮永元陸将補ら三人を起訴した。国民の関心を呼んだ裁判だったが、わずか1ヶ月・3回の公判で結審し、宮永元陸将補には懲役1年、他の2名には懲役8ヶ月が言い渡された。事件の責任を取って防衛庁長官、陸上幕僚長が辞任した。防衛庁は秘密情報の管理を改め、昭和60年(1985年)には国家秘密に係るスパイ行為等の防止に関する法律案(スパイ防止法案)が議員立法として国会に提出されたが審議未了で廃案となった。

自衛隊事件簿