ゴジラ対自衛隊 〜映画の中の自衛隊〜

浜松基地航空祭でのT-2ブルーインパルス墜落事故


 ブルーインパルスの使用する機体がF-86から国産練習機のT-2に変わってから1年ほどしか時間が経っていない1982年(昭和57年)11月14日に開催された『浜松基地(静岡県浜松市)航空祭』でその悲劇は起こった。

 13時過ぎに離陸し、展示飛行を行っていた6機のブルーインパルスが「下向き空中開花」の曲技を行った際、事故は起こった。「下向き空中開花」とは、6機のT-2がデルタ(三角)隊形で上昇し、頂点を越えた後、真下を向いたとき、編隊長の命令を合図にスモークをたきながら6方向に散開(ブレイク)する曲技である。しかし、編隊長の命令が遅れ、4番機の上昇が間に合わずに、地上へと激突した。

 4番機は基地の北側約500mの駐車場に磊落し、爆発・炎上。機体はバラバラになって広範囲に飛散した。4番機の搭乗者の遺体も原形をとどめないほどに粉々になっていたとされる。これがブルーインパルスのパイロットとして3人目の殉職者となった。地上での被害も甚大で、重軽傷は13名。住宅や工場など、全焼家屋1戸を含めて29棟の住宅、工場が被害を受けた。っまた、駐車中の車やホンダの新車置き場にあった車など、500台近くが被害をこうむったとされる。しかし、墜落地点は本来の飛行ルートから離れた場所に墜落しており、もしも本来の飛行ルートのままで墜落していたならば住宅地や東名高速道路に突っ込んでいた可能性もあり、パイロットが少しでも被害を減らそうと操縦した可能性も指摘されている。

 その日はよく晴れた日だった。浜松基地航空祭には7万人の観客が訪れていたという。その大観衆の前で事故は起き、居並ぶ報道陣のカメラによってその一部始終が記録され、テレビ各局は速報を流すとともに、衝撃の映像はその日のトップニュースとして繰り返し流された。マスコミは曲技飛行を批判的に報じ、航空幕僚幹部はスクランブル機を除く全機の飛行停止を決めた。ブルーインパルスはここに発足以来最大の危機を迎えた。

 84年6月1日、静岡地検は編隊長を起訴猶予、死亡した4番機のパイロットを不起訴とした。航空自衛隊は充分な安全対策を検討したうえで、1983年10月30日の朝霞駐屯地での自衛隊観閲式で展示飛行を披露した。この時は、アクロバット飛行は行わず、編隊飛行のみであった。静岡地検の判断が出たのちの1984年7月29日から、「下向き空中開花」は廃止し、飛行高度は引き上げられた上で、アクロバット飛行が再開された。

 事故調査の報告書では、編隊長の「ブレイク」の命令が遅れたことが事故の直接の原因であると結論付けられた。さらに、事故を起こした4番機のパイロットについても、その責任が言及されていた。命令が遅れたと感じた場合は、ブレイクせずに編隊長について行くべきだったと結論付けられたのである。実は、これ以前から「下向き空中開花」の際に編隊長からの「ブレイク」の命令が遅れるケースが度々発生していた。そのため、「編隊長からの指示が遅れたと判断した場合、そのまま編隊長機に追従するように」という申し合わせがなされており、それを明文化した「思想統一事項」の書面が作成され、隊員はそれに署名していた。しかし、事故死した4番機のパイロットは「編隊長の命令である以上は従う」として最後まで拒否していたという。事故の直前、このパイロットが墜落を回避できると判断したのか、それとも自分の信念に従ったのか、今となっては分からないことである。

自衛隊事件簿