ゴジラ対自衛隊 〜映画の中の自衛隊〜

東芝機械ココム違反事件


 共産主義諸国の軍事力・軍事技術の強化につながる西側諸国からの輸出を制限、あるいは禁止し、アメリカのソビエト連邦への軍事的優位を保つための枠組みとして、1950年1月に設立されたのが対共産圏輸出統制委員会――通称COCOM(ココム)であった。アメリカをはじめ北大西洋条約機構(NATO)に加盟している国のほとんどやオーストラリア、そして日本も1952年に加盟した。ソビエト連邦が1991年12月に崩壊し、冷戦構造が終わるとその存在意義が薄れ、1994年3月にその歴史に幕を下ろし、兵器の輸出管理に関る枠組みはワッセナー・アレンジメントに引き継がれた。

 1982年から1983年にかけて東芝機械(現芝浦機械)が伊藤忠商事・和光交易を通じて、ココムに違反する同時9軸制御の大型工作機械と制御のためのNC装置・コンピュータプログラムが、ノルウェーを経由して不正にソビエトに輸出されたと、アメリカから日本政府へ調査の依頼があった。高性能な工作機械の共産圏への輸出は通産大臣の承認が必要であったが、同時2軸と書類を偽って輸出許可を経ていた。この事実をアメリカ合衆国は1986年末に和光交易の関係者からの密告により知り、詳細な情報を得たうえで日本政府に調査を求めていたとされる。

 1987年4月28日に当時の通産省は警視庁に外為法違反で警視庁に告発した。警視庁は会社ぐるみでのココム違反事件と判断し同社への強制捜査に乗り出し、5月に幹部2人を逮捕。通産省も、東芝機械に対して共産圏向けへの輸出1年停止の行政処分を下した。6月には通産大臣がアメリカ国防長官に直接謝罪。東芝機械も社長が辞任するなど事態の鎮静化に努めようとした。

 しかし、この高性能大型工作機によってソビエトの潜水艦のプロペラの静穏性が飛躍的に向上し、安全保障上の脅威の増大を招き、任務に就いているアメリカ兵の身命を危険に晒し、その対応のためにアメリカの軍事的負担を増やす要因を作ったと考えていたアメリカの怒りは収まらなかった。この頃、日米貿易摩擦のただなかにあったこともあり、日本側はただの貿易上の問題ととらえ、安全保障を口実にアメリカが無理難題を吹っかけて来ていると考えていたふしがある。そのためか、日本側の対応は後手後手に回った。翌年には日本への制裁措置を含んだ修正貿易包括法案が議会で可決される事態を招いた。

 アメリカの怒りの矛先は、当時東芝機械の親会社の東芝に向かった。議会では東芝グループを制裁する法案が何度も審理されたり、ホワイトハウスの前で連邦議員による東芝製品の破壊パフォーマンスが行われたりとしたという。そのため、東芝も7月に会長と社長が辞任した。さらに約2年にもわたり議会の制裁を和らげるためのロビー活動に、莫大な資金とロビイストを投入することになった。

 最終的に出荷するものがココムに違反していないかチェックする責任は商社側にも生じるが、伊藤忠商事は当初「高度な技術的な判断を商社側で行うのは無理」と釈明していた。しかし、アメリカからの東芝へのバッシングが激しさを増すと、かかる問題の是正に向けた対応をとる旨のコメントを発表し、中曽根内閣のプレーンでもあった瀬島相談役が特別顧問に退いたり、社長が大口の取引のためのモスクワ行きを控えるなど、アメリカの怒りの矛先が商社側に向くのを避けようと動かざるを得なかった。

 1988年3月に東京地裁は、東芝機械に罰金200万、起訴された東芝機械の幹部2人にそれぞれ懲役10月と懲役1年(両者とも執行猶予3年)の実刑判決を下した。世界の工作機械のトップメーカーであった東芝機械が、莫大な利益を餌にソビエトへの不正輸出に手を染めた事件は、日本のトップメーカーや商社の、リスク管理や安全保障に対する意識や能力の低さを露呈することになった。東芝は再発を防ぐためにコンプライアンス・プログラム(規則順守遂行計画)の策定を行った。通産省も、輸出関連の関係団体を通じて、参加企業は個別に輸出管理法規順守方針を作るよう求めた。

自衛隊事件簿