ゴジラ対自衛隊 〜映画の中の自衛隊〜

能登半島沖不審船事件


 1999年(平成11年)3月23日早朝、海上自衛隊・海上保安庁による北朝鮮の工作船の追走劇は日本中を震撼させ、危機がすぐ横にある現実を平和に慣れ切った日本国民に付きつけることになった。

 予兆はあった。3月18日に日本国内に潜入している工作員の無線局「A-3」に変化が生じた。これは、自衛隊の情報本部、警察庁警備局といった国内の防諜機関や、在日米軍にの、通信傍受の部隊によって察知されていたものと思われる。また19日には北朝鮮の清津にある工作船基地から工作船が出航したという衛星情報が在日米軍司令部経由で情報本部に寄せられた。北朝鮮が「日本にある重要なブツを持ち込む」との情報が韓国の情報機関国家情報院から公安調査庁に寄せられたという話もある。

 事態が急変したのは21日の深夜。、日本海の能登半島東方沖の海上から不審な電波発信が各機関によって傍受された。それを受けて22日15時ごろ、京都府舞鶴市の舞鶴港から第3護衛隊群所属の「はるな(DDH-141)」「みょうこう(DDG-175)」、舞鶴地方隊所属の「あぶくま(DE)」の各護衛艦が緊急出港した。その日の日本海は非常に荒れた海もようとなっていた。

 23日の早朝から、海上自衛隊のP3C対潜哨戒機が日本海で2隻の不審な船舶を発見した。3隻の護衛艦が、不審船の調査に向かう。それは、日本の国旗を掲げ、「第一大西丸」「第二大和丸」と船体には書かれていたが、不自然なほどたくさんのアンテナや、煙突の横から出る不可解な煙など漁船とみるには異様な風体であった。さらに、戦隊に書かれた船名がすでに存在しないものや別の場所で操業中であることが確認され、偽漁船と断定された。「第一大西丸」を「はるな」が、「第二大和丸」を「みょうこう」がそれぞれ追跡する。海上自衛隊は、この時、日本海沿岸に多数の哨戒機を飛ばして海岸線を警戒していたという。また警察も警戒を強めていた。この二隻の不審船は実は陽動で、別の工作船を日本海の海岸に送り込む算段ではないかと考えたのである。

 この時点において、海上警備の主役はあくまでも海上保安庁であり、海上自衛隊はあくまでもその補佐であった。海上保安庁もヘリを飛ばし、不審船を補足。船舶電話を使い日本語・英語・朝鮮語で停船を命じるが不審船はこれを無視し、逃走を続けた。海上保安庁はSST(特殊警備隊)を待機させ、巡視船艇15隻、航空機12機を投入し追跡が繰り広げられた。18時10分、首相官邸別館にある危機管理センターに官邸対策室が設置された。その後も、不審船は速度を増していき、巡視艇の速度では脱落する船舶も出始めたため川崎運輸大臣は威嚇射撃を許可し、新潟の第九管区海上保安本部に通知。それを受けて20時過ぎ、第九管区海上保安本部長が海上保安庁法第20条に基づく威嚇射撃を指示した。巡視船は装備された20mm機関砲や13mm機関砲、64式小銃などを使って警告射撃を加えた。海上保安庁が警告射撃を行うのは実に46年ぶりのことだった。しかし、不審船はさらに速度を増して逃走を続けた。燃料不足となった巡視船はついに追撃を断念。事態の主役は海上自衛隊へと引き継がれた。

 これを受けて、官邸対策室では海上警備行動(自衛隊法82条:防衛大臣(当時は防衛庁長官)は、海上における人命若しくは財産の保護又は治安の維持のため特別の必要がある場合には、内閣総理大臣の承認を得て、自衛隊の部隊に海上において必要な行動をとることを命ずることができる。)発令を求める声が上がったが、これに野中官房長官が強く反対し、海上警備行動の発令は見送る雰囲気となったという。当時、周辺事態法の審議中で、激しい議論が展開されていたのも一因かもしれない。しかし、23時47分。状況は一転する。不審船がなぜか停止したのである。その理由は分からない。あるいは、巡視船が脱落し、護衛艦とも距離が開いたことで、不審船の乗組員が振り切ったと思ったのかもしれない。護衛艦「はるな」と不審船の距離が縮まっていった。その報告を受けた野呂田防衛庁長官は海上警備行動の発令を決断した。

 小渕内閣総理大臣も、全幅の信頼を置いていた野呂田長官の決断であればと、海上警備行動の発令を認めた。持ち回りの閣議が開かれ、24日午前0時50分。海上自衛隊に自衛隊法82条に基づく海上警備行動が発令された。戦後初めてのことである。これを受けて、警告として「はるな」「みょうこう」は25回35発の射撃を実施。P3Cからも150kg爆弾12発が投下された。しかし、なお停船には至らなかった。

「はるな」に搭乗した指揮官は、不安を抱えながらの追走劇であった。万が一――という言葉は不適当だろうが、万が一不審船が停船したら。海上自衛隊は臨検(立ち入り検査)をしなければならない。法律もそれを想定して条文が書かれている。しかし、自衛隊はそれをどこまで想定して訓練を行っていたのか。事実、「はるな」には防弾ベストは配備されていなかったとされる。そして、爆弾を落とされても停船しない不審船に乗っているのは、過酷な訓練を積んできた敵国の軍人であることは、もはや疑うべくもない。間違いなく戦闘になる。その結果――海上自衛官に死者が出ることもあり得た。当時の山本海上幕僚長は、臨検を行うにしても、「夜が明けて明るくなってから、海上保安庁の合流を待ち、武装解除がなされたことを確認してから行う」ことを決めていたという。

 結局、2隻の不審船はその後も停船することなく、午前3時20分と午前6時6分にそれぞれ防空識別圏(ADIZ)を越え、海上自衛隊の護衛艦は追跡を断念した。自衛隊にとって「12.9警告射撃事件」以来2度目となる実弾を用いた対処事案であったが、不審船の確保にも乗員の逮捕もできなかった。25日の早朝、2隻の不審船が北朝鮮の清津に入港したことが確認された為、現在は北朝鮮の工作船だったと考えられている。本件は自衛隊にとっても海上保安庁にとっても多くの教訓を残した。海上保安庁の巡視船が工作船に対して能力不足が明らかになたっため、海上自衛隊との協力体制が強化され、後の巡視船の能力向上が図られることとなった。また、海上自衛隊でも不審船に対処するため、より高速の艦艇が配備されるようになった。また、2001年に海上保安庁法の改正がなされるなど、海上の治安維持に対してより現実に即した銃器使用が認められることになった。そして、この件をきっかけに、海上自衛隊にも特殊部隊「特別警備隊(SBU)」が創設されるなど、不審船に対する対応能力が法律・人員・装備の各面で強化が図られこととなった。

自衛隊事件簿