「祝祷・按手礼」の理解を深めるにあたって

1998/10/21 執筆


  過日は「宣教研究委員会」としての「祝祷」に関する見解をお出しくださったこと、その背後にある多くの労を考えて感謝します。現在「按手礼」に関しての検討を重ねておられると伺いました。それで一筆書き認める気持ちになりました。
多くの事において、様々と意見を異にすると言うことは当然予期され、今後も様々なことを検討・論議を重ねるにつれて、そのことが歴然としてくることと思います。そして群れとして、その多様性を抱えながら一致してゆかなければならないことでしょう。
  さて、先日の「祝祷」に関する宣教委員会としての見解(局長会で承認されたことですが)、私個人としては何か釈然としないものを感じて、この問題を考え続けて来ました。結局のところ「祝祷」、「按手礼」、、、といった個々の事柄に関する考え方と共に、それ以上に、その釈然としないものを意識する最大の理由が、問題の根底にある「信仰者の信仰と実践における聖書の規範性」という点に帰することに気づきましたので、再び(局長会に提出したものに加えて)筆をとることにしました。
  「祝祷」に関していえば、それが日本語では、祝「祷」と言われるように、聖書は明らかに、祝祷を上に立つ者の「神の民のための祈り」として多くの例(創世記48:15〜16、民数記6:23〜-27他)を示しています。また宣教研究委員会の見解として出されたように「神を代表しての祝福の宣言」(創世記14:19、民数記23:7〜10他)という要素も聖書の記録に認められます。それで様々なキリスト教辞典、神学辞典には、その両方、または、そのどちらかの立場での説明がなされています。両方とも聖書に認められる祝祷の意味、または、タイプです。

  今回、敢てこの文書を認める理由は、聖書に二つのタイプが認められるにも拘らず、宣教委員会の決定・見解は、聖書にみる一方の見解を切り捨て他方のみを採用して、それを「祝福の本来あるべき姿」として提示したことにあります。聖書が双方のタイプを祝祷・祝福の例として私たちに示すとき、聖書を実践の規範とすると言うことは、両方のスタイルを聖書に基づいて本来のものとして認めることではないでしょうか。
  宣教委員会が何故今回のような選択をしたかの理由として、それがメソジストを初めとする按手礼を制度化している多くの教会の伝統であるからという説明がなされました。伝統を重んじ、その歴史的な重さを意識することは良いことですが、しかし、気を付けなければならないことは、「伝統」の光において「聖書」を解釈・理解しようとする時、自分の属する教派、神学的な立場のみからの吟味では、その「伝統」を「聖書」の上に立てることになります。神学的には「聖書のみ」が規範であり、「伝統」は聖書に並ぶ教会の権威ではないとしながらも、実践的には、すなわち、個々の問題への対応においては、私たちの「伝統」によって「聖書」を解釈することをしてしまいます。これこそプロテスタント教会が反発・否定したローマ・カトリック教会における「伝統」と「聖書」の関係であって、彼らは、彼らの「伝統」の光において聖書を解釈して、ローマ・カトリックの立場を擁護するのです。
  メソジスト運動の創始者としてウエスレーを尊敬する人々の間では、事の判断に当たって「ウエスレー神学における四辺形」ということを、しばしば口にします。これは、物事の判断基準としてウエスレーが主張した「聖書、伝統、理性、体験」の四つを指すことは言うまでもありません。ただし「四辺形」と表現されているものの、ウエスレーはこの四つを平面的において考えていたのではありません。ウエスレーの考えの中では、四つの中で「聖書」は神の書としての独自な位置を占め、抜き出ています。その唯一無二の聖書を正しく解釈し、理解することにおいて必要となるのが、他の三つなのです。ウエスレーの概念では、四つのものは「四辺形」というより、「聖書」を頂点とする「三角錐」を形成するものと見るべきでしよう。「神のことばである聖書が何と言っているか」がすべてのすべてであって、他の基準はそれを確定するに当たって助けとなるものに過ぎません。それで以下のことを考え、検討する必要があるように思いました。

  「伝統」の 正しい用い方:

  さて、そのうちの「伝統」を取り上げる時、考えなければいけないことがあります。すなわち、人はどのように偉大な人物であっても、人である限り「時代の子」であることを免れないという事実を心に留めておく必要があるということです。「伝統」とされる特定の教理・教義、また、教会におけるある考え方・実践は、その特定の時代の枠組みの中で、その時代時代のもたらす課題と真剣に取り組んだ結果、導き出されてきた教えであることを忘れてはなりません。伝統、また、伝統的な教義を吟味するとき、その時代がどのような時代であったかを知ることは、教えを正しく理解し、新しい時代にどのような意味を持っているかを判断するために必須のことといえます。その文化脈を理解するという作業なしに、伝統を伝統として鵜呑みすることはむしろ危険ことです。
  更に「伝統」を自らの所属する教団・教派の神学的な立場に限定して考え、その光のみで聖書を解釈・理解しようとすることは、先に述べたように、正しくローマ・カトリック教会が主張している伝統(Traditions)の用い方が包含する危険に陥ることになります。ローマ・カトリックでは「伝統によって聖書を解釈・理解すべきである。」と主張していますが、この立場は、伝統の権威を聖書の権威の上に置くことであり、これは正しく宗教改革においてプロテスタント主義が否定した態度・立場です。プロテスタントは、逆に聖書によって、伝統を吟味・判断する立場をとるものだからです。しかし、現実には伝統の光において、聖書を解釈してしまい、聖書によって自分たちの伝統を吟味することは滅多になされません。
   何年か前の聖化大会の講師、D・トンプソン博士が書いているように「プロテスタントは、カトリックの伝統が福音を埋没させてしまったことを指摘するであろう。しかし、聖書のみによって(Sola Scriptura)のスローガンで始まった宗教改革でさえ、暫くすると教義運動へと矮小化し、教義文面以外の考え方をすべて非正統的として裏ごししてしまったのである。」との指摘は傾聴に値するものです。
  では聖書の解釈において伝統を活用するにはどのようプロセスを取るべきでしょうか。この点に関して私は以下のように理解しています。
  すなわち、伝統を狭い一教派・教団、または、ひとつの神学的な流れのみで捉えず、キリストのからだである普遍的な教会全体の伝統として様々と異なった立場が存在するままでそれを捉えるという考えです。そうするために、ある特定の問題・見解(Issues)に関して、それぞれ相違ある見解を持つ様々な神学的潮流の主張を、偏見を捨てて公平に、聖書の光において再吟味することから始めます。その作業において、特定の教派、神学的流れが取ってきた立場の時代性が問われることになりますが、その時代性をはぎ取った上で、どの立場が最も聖書に描かれている状況と近いかを検討するのです。 それですから、私たちが心に留めなければならない「伝統」とは、自分の属する神学的立場の伝統だけではなく、普遍的なキリストの教会の伝統であるべきです。
  そうでなければ、既に指摘されているように、プロテスタントも結局、カトリックにおける伝統と聖書の関係をもって、自分たちの伝統を常に正しいとして、それによって、聖書の教理・実践を理解することになります。伝統の時代性を考え、聖書と今の時代の状況とに照らし合わせて再考することが、それを避ける唯一の道と考えています。
  ウエスレーは、英国国教会の伝統にのみ限定されないで、東方教会の教会教父を含めて、広く普遍的な教会の伝統に心を向けたことによって、また、理性、体験からの吟味・検討も加えながら、メソジストの群れが直面した新しい事態に対応して、自らの属する英国国教会にはなかった慣習・実践、すなわち、野外説教、祈祷書によらない即席の祈り、信徒説教者の起用、そして、最終的には、英国国教会の監督の立場にはなく長老にしか過ぎなかった彼の立場にあって、メソジストの同労者をアメリカ・メソジスト監督教会のための教職者に任ずるための按手礼の執行と、英国国教会の伝統を次から次へと乗り越え、新しい時代のもたらす新しい事態に対応していきました。勿論、そうするに当たって、聖書の真理からの支持が得られるかを真剣に学び、検討したことは言うまでもありません。
  私たちは何において「メソジスト」なのかを考えなければなりません。組織的にでき上がったメソジスト教会の組織や慣習を継承するのではなく、その中心である全的聖めの宣証と、そのためのメソジストとしての生活形態の継承に重点をおいて、新しい時代の新しい事態に柔軟に対応してゆくことが、正しくウエスレーのスピリットを継承し、その足跡を踏むメソジストであることの意味ではないでしょうか。

■  神学小論文−そのW:伝道職の権威:「どこから、あなたはその権威を得ましたか」

■  神学小論文−そのX:「キリストの使節としての務めに任じられて」

■  神学小論文−そのY:「教職と信徒」

■  神学小論文−そのZ:「私たちの教会―教会論:その制度面から」

■  神学小論文−その[:「再び、教会の権威を巡って」

■  神学小論文−その\:「監督政体の理解」

■  神学小論文−その]:「監督政体について」

■  神学小論文−その]T:「祝祷について」

.                                   聖書の写本:日本聖書協会・前総主事の佐藤氏の提供


Copy right 2004 PZH
All rights reserved. 許可なく転載を禁じます。

■ トップ・ページにもどる