(2001/08/16 執筆)
「教会とその奉仕者」
はじめに:
「つばさ」誌に、竿代照夫師(C)による聖書からの「教会について」の学びが紹介されています。この学びの今後の展開をなお期待しながら、筆者(B)も「私たちの教会:『教会論』、殊に、その制度面から」と題して一文を纏めてみることにしました。 この一文執筆の切掛けは、同じ「つばさ」誌に記載されたある論説の中に、ひとりの同労者(A)が「上に立つものは、その権威を神から直接授かったと考えるべきではありません。」と言明しているのが目に留まったからでした。 「上に立つもの」とのことばは、論説の執筆者によって、先ず、 ・「群れの監督」、即ち、教団の「総理」が意味されています(この範疇に「局長」など、群れの指導的立場につく人々も含めることができます)。 ・更に、この論説は、その論旨を「一地域教会の監督」、即ち、地域教会「牧師」たちへと普遍し、それぞれの教会での牧師の在り方に言及しています。 それで、この二重の視点から教会を論じ、そのアドミニストレーション(運営・管理)の体制を考察する必要があります。上記の言明を巡って、「つばさ」誌論説の執筆者と筆者との間に、メールによる意見交換、論議が重ねられてきました。そのプロセスを通して、幾つかの点が明らかにされてきました。 後者に関する理解には、見解の相違はあまりありません。「つばさ」誌の筆者も、地域教会の牧師、即ち、「聖書的な意味での監督」は「神の権威(特にみことばを説き、礼典を執行する権威)を直接神から授かって」いることに、既に同意を表明しています。 しかし、論説の執筆者(A)は「教団という組織の中で実行される権限は、神から直接授かった権威とは違う次元の、職の『権限』ではないでしょうか。」と論じています。筆者(B)には、年会時の分科会「地域教会における監督制」(発題者は「つばさ」誌の論説執筆者と同一人物でした)のクラスで「監督の任命を神のものとして受け取る根拠はどこにあるのか」という質問に対して「解答なし」であったことの根底には(分科会の様子に関しては、簡単な報告に基づいていますので、時間的な要因も大きかったのかもしれませんが)、群れの指導者の権限を「職」の権限とみる論旨があるものと思えます。 筆者は、歴史的な意味での監督(群れ全体の指導者)を、聖書的な意味での監督(一地方教会の牧師)の歴史的展開の結果と見ていますので、前者の権限・権威を、後者の神から直接与えられた権限・権威の延長線上に位置付けて理解しています。こうすることによって、「任命が神からのものである」とする根拠、「任命権」など教団の監督の持つ権限・権威が、単に指導的な「職」につく者に教会から委託された権限というだけではなく、神与の権威であることを主張するものです。 さて、メールのやり取りを通して、教会、また、その奉仕者、制度などについて多くのことを考え、書き記しましたので、ここに整理して「私たちの教会:『教会論』、殊に、その制度面から」と題する文章に纏めてみました。
T 「教会の本質」:
まず「つばさ」誌論説中の「下からの監督制」という表現に関して、一言感想を述べておきます。そもそも「万人祭司」の教理を土台として「下からの監督制」という表現を用いたことに問題がありました。 「司教団をもって教会」と考える従来のカトリック教会の教会観をとれば、確かに「上からの監督制」という表現を用いることができます。従来のローマ・カトリック教会の考えでは、「司教団」が「上部」を構成し、「信徒」は「下部」を構成しているという図式が成り立っていたからです。しかし、ヴァチカン第二公会議以来、ローマ・カトリック教会にも変化が生じ、カトリックの神学者の中にも「司教団」ではなく、「信仰者の共同体」をもって「教会・キリストのからだ」とする理解が広がりつつあることを弁えなければなりませんでしょう。ここで「信仰者の共同体」というときの「信仰者(ビリーバーズ)」は、「教職者と信徒(ラエティ)」の両方を含む概念で、教会での奉仕の形態に関係なく「キリストを信じる人々」の意味です。 プロテスタント諸教会では特に、この「信仰者」たちすべてがキリストによって聖なる「祭司」として立てられていて、自らの救いのために、マリヤ、守護聖者、教皇、また、司教・司祭であれ、一切のキリスト以外の仲介者を必要としない、と聖書に基づいて頷いています。この「万人祭司」の教えは、すべての信仰者の対等な権利、聖霊によって「キリストのみ」を介しての父なる神との直接的な交わりなど、を保障することを教えるものです。 この「信仰者の共同体」としての教会の理解、また「万人祭司」の理解を持つ時、「下からの監督制」という理念は成り立ちません。なぜなら、奉仕の形態の相違はあっても、信仰者の間には上下の関係がないからです。教会に認められる唯一の上下関係は「かしらであるキリスト」に対する「からだである教会」という「上下」関係のみで、「からだである教会」の中には、いかなる意味においても「上下」関係は存在しないのです。「下からの監督制」という表現、また、概念は、それ故、退けられなければなりません。それは「キリスト(上)」に対して、「下(教会)からの監督制」ということになってしまします。これでは主イエスに対する教会の反逆を意味します。「つばさ」誌論説の論旨を言い表わすためには「下からの監督制」ではない、例えば「中からの監督制」など、より適切な表現が求められます。神学の分野は表現の厳密さが求められる世界です。
U 「教会の奉仕(ミニストリー)」:
万人祭司の教えは、教会においてそれぞれが聖霊によって与えられた奉仕の相違・多様性の存在を否定するものではありません。牧師・教師は、牧師・教師として、キリストによって教会に与えられ、立てられています。そして、彼らにはそれに伴なう権限・権威が与えられています。信徒には、信徒としてのそれぞれのミニストリーがあり、それに伴なう賜物、権限が与えられています。上下関係ではなく、ひとつからだの肢々としての機能・働きの相違なのです。 現代におけるローマ・カトリック教会の一神学者は、司祭と信徒に関して、以下のように書いています。「一方では、個人としてすべてのキリスト者にはそれぞれ御言葉を宣言し、かつ秘跡にあずかるための全般的な力が与えられているということと、他方では、共同体への公の本来の奉仕職へ、つまり御言葉の宣言、秘跡の執行、共同体のメンバーに対する多様な世話などにー正常な場合は按手あるいは叙階によってー召されている個人が持っている特殊な権威、これら両者は全く別のことである。」
A この神学者はローマ・カトリックの陣営に属するので、プロテスタント教会の立場に立ってこの文章を読むと、幾つかの訂正すべき点に気づくきます。 1. 第一は、「共同体」によって意味される人々には、奉仕職に召された人々が含まれておらず、「奉仕職へ召された人」と「共同体」という関係となっています。 しかし、聖書を正しく理解するならば、既述のように「共同体」、即ち「教会」は、既述のように「聖徒たち、監督、執事たち」とから成立っており、その中には、「監督、執事たち」などの奉仕職に召された人々も含めるべきです。 それ故、「監督、執事たち」と区別された共同体のメンバーは、正しくは、「聖徒たち」、或いは「信じた(信じている)者」と呼ばれるべきでしょう。 2. 第二に、「按手あるいは叙階によってー召されている個人」としていますが、これも「按手あるいは叙階によって」ではなく「主からの召命によって」とすべきでしょう。 按手は、後に更に論じますが、主イエスからの召しを、教会が正式に確認・承認するものであって、それによってある個人が奉仕職に就くのではありません。内的召命と外的召命を区別して考えるべきと思います。 3. 第三に、「秘跡」といった用語が明らかにカトリック的です。プロテスタントでは「礼典」という表現を用います。 B こうした点において相違があることを認識した上で、この学者が「個人としてのキリスト者が有しているみことばを宣言する力と、召された個人持っている特殊な権威」とを「これらは全く別のことである」としている点に注目したいと思います。 伝道職に召された人々に、主から託された権限は、しばしば「教導権」と表現されます。「教会を、そして、群れを建て上げるための権限・権威」です。
V 「教会の奉仕者としての教職者・伝道者」:
これに対して、宗教改革者M・ルッターは、1520年執筆の「ドイツ貴族へのことば」の中に「教職権は、基本的には全信徒に属するものである」と書いていますが、次のルッターのことばで判るように、ルッターのこの理解にはすべてのキリスト者の持つ力・権限と奉仕職へ召された人々がもつ権威との混同があります。 「このことを更に簡明に表現するなら、もし、敬虔な平信徒のキリスト者の一団が捕虜となり、砂漠に連れて行かれ、司教によって聖別された司祭がその中にいないので彼ら自身の中から一人を選ぶことに決め、、、、そうしてバプテスマを授け、ミサを祝い、赦罪を宣言し、説教をしたりすることをその人に命じたとしたら、その人物はあたかも全司教と全教皇が彼を聖別したのと同じような、真の司祭となるはずである。」、 「、、、なぜなら、だれでもがこれらの職務を行うのがよいというのではないが、バプテスマを受けた者はすべて、司祭、司教として聖別されたものと誇ってよいからである。」 私たちは、そうは考えないのです。一人の人が牧者として立てるのは、教会の主、また、羊の大牧者であるキリストが、その人に声をかけ、その群れの牧者として立つように召命を与えられた時であり、その召しの声が掛からない限り、その人は信徒として、お互いに勧告したり、説教したりはできるでしょうが、それはどこまでも信徒としての立場に留まったままです 具体的な例として、和歌山のベテスダ会の状況を想い起してください。彼らが、伝道者のいない状態で、その内のひとりを自分たちで牧師と選んで、教会としてやってゆくということがありうるでしょうか。彼らはそうしませんで、次の年会で、牧者・伝道者が、任命されるのを待ったのです。 「すべてのキリスト者がみことばを宣証する権を委ねられている」とのことは、共同体の一部の人々に専門的にその業に携わるようにとの主からの召命が与えられる、という事実を排除するものではありません。 宗教改革というような変革の時代には、人の常として一方の極端からもう一方の極端に振れた見解が打ち出されるものです。ローマ・カ トリックの体制に戦いを挑んだルッターが、司教の権威に反発し、信徒・教会の権威を強調したのも理解できないことではありません。 しかし「つばさ」誌の論説の誤りは、聖書に基づいて論じる代わりに、一方に偏ったルッターによる「万人祭司」の見解を土台として論旨を展開したことにあるのではないでしょうか。 教職権は、共同体の一部を構成する教職者に主イエスから委ねられた権限です。そして教職者たちが教会の本質的な一部であるが故に、その権威は「教職者にあって」教会・共同体のものであると言えます。しかし、教会全体・共同体に属しはするものの、信徒に属するのではなく、主イエスによって個人的に召された教職者に属するものなのです。
W 教職者・伝道者の権威:「福音の役者の権威」に関してー「だれが、あなたにその権威を授けたのですか」(この表題の小論を参照してください)
この点に関しては、「つばさ」論説の執筆者も、説明不足であったことを認めて、考えを改めていますので、今更詳細に論じる必要はないのですが、群れの指導者(歴史的な意味での監督)の権威について論じる土台ですので、ここに筆者の論旨を転記します。 「イエスは答えて、こう言われた。『わたしも一言あなたがたに尋ねましょう。、、、』」(マタイ21章23―27)。キリストに投げ掛けられた「だれがあなたにその権威を授けたのですか」という質問は古くて新しい質問です。勿論、この質問を投げ掛けた祭司長・民の長老たちと違って、私たちは主イエスの権威に関しては少しも疑問を抱いていません。主イエスの権威に関しては明確な認識を持っています。最近私たちの間で問題となっているのは福音の役者の権威に関してです。即ち「民の指導者、長老、学者たち」が使徒たちに「あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか」(使徒4:7)と尋問した時の状況と似ています。福音の役者の権威が問われているのです。 さて、主イエス緊迫した空気の中で、質問者に質問を返してファジィに答えられました。使徒たちの方は、ストレートに「イエス・キリストの御名によるのです。」と答えました。今回は主イエスに倣って「だれが牧師・群れの監督にその権威を授けたのですか」という質問に対して、ストレートに答える代わりにいくつかの質問を投げ掛けてみたいと思います。 この文脈で、ヨハネの権威は、主イエスの権威と密接な関係にありました。さて、そこでヨハネは預言者と認められているでしょうか。26節の「ヨハネを預言者として認めている」ということばは、人々の判断・考えであって、それは否定されるべきものなのでしょうか。主イエスは、この場面で、当然、肯定的な見解を抱いておられたのではないでしょうか。また、ルカの福音書1章にあるゼカリヤの賛歌の中では、ヨハネは「いと高き方の預言者と呼ばれよう」(76節)として言及されていますので、ヨハネは明らかに預言者だったのではないでしょうか。それでは、そのヨハネ、旧約の預言者たち、そして更には、新約のみことばの役者の権威は「上から」でしょうか「下から」でしょうか。
さて、ウエスレーは物事を立証するにあたって、四つの基準を設けました。即ち、聖書、理性、経験、そして、伝統です。これらは「ウエスレーの四辺形」と呼ばれていますが、ウエスレーの意識では、四辺形というより「聖書を頂点とする三角錐」と言ったほうが正しいようです。ウエスレーにとっては、そして、私たちにとっても、聖書は無二の基準であって、他のものはその聖書の理解の補助的手段として位置つけるのが正しいのです。それで、先ず、ウエスレーの基準によってこの問題を検証してみましょう。
A.「聖書による検証」: 新約聖書は、監督・牧者たちなどの福音の役者の権威について明記していないでしょうか。幾つかの聖句を思い起こして頂けませんか。 1. 使徒20・28―「聖霊は、、、神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。」 ここに「あなたがた」とは、エペソ教会の長老たちのことです。彼らは、長老、牧者、また、監督でした。ある人々は「使徒の働き」は歴史的文献であるゆえに史実を述べるに過ぎず、後代への規範性、時代を超えた普遍性を有していないと反論するでしょう。この反論は正しいでしょうか。 2. 書簡に見出される聖句に移りましょう。Uコリント13・10―「主が私に授けてくださった権威を用いて、、、」 ここに「私」とは、使徒パウロのことです。彼は主から直接的、また、個人的に「教会を築き上げるための」権威を授けられました。 しかし、或る人々はここにおいても、パウロの使徒職の特殊性を理由に、この聖句は普遍性を有していないとして私たち現代の牧者・群れの監督にこれを適用することを拒むでしょう。一歩譲って、そうだとしても、Uコリント 10:8の「私たち」をどう理解しますでしょうか。 3. エペソ4・11も見てみましょう。「キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。」 使徒以外の教会のミニストリーについている人々を、この聖句は「神によって立てられた」という点においては、使徒と同列においています。この聖句から、主が牧師・群れの監督に直接的に、使徒パウロ同様に、その「権威を授けてくださった。」と結論できないでしょうか。 4. Uコリント5章18―21節 5章の18、19節には「神は、キリストにあって、、、、和解の務めを私たちに与えてくださいました。」、「神は、キリストにあって、、、、、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。」とあって、次の20節、有名な「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。、、、私たちは、キリストの代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」へと続いています。 「和解の務め」、「和解のことば」の委託が、その奉事に伴う権威を伴って、キリストにあって神から与えられているからこそ、伝道者は「キリストの使節」と呼ばれます。 使命のみがキリストから与えられて、その使命遂行に伴う権限・権威は、キリストから直接ではなく、他からというのは奇妙な論理ではないでしょうか。使命の委託と権威の授与は、同時的であり、同一のお方「キリストにある神」からのものです。 もし後者の「みことばの奉仕に伴う権威」の授与を「教会から委託されたもの」としなければならないのなら、前者の「福音の奉仕そのもの」も「教会から託されたもの」としなければなくなりますでしょう。両者は不可分です。これは伝道者にとって生命的といえる伝道職への召命観に関わってきます。
さて、パウロのその点の自覚は、ガラテヤ1章1節に明確に表明されているように、「使徒となったのは、人間からでたことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストとキリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によった」と表明されているものでした。 そして、これが、使徒職とは異なるものの福音に仕えるという点で共通性を有する、伝道職に召された人々の揺るがない自覚・意識ではないでしょうか。 「死者の中からよみがえらせ」られた、という表現の意味合いは、後に注目します。 IGMの按手式の誓約文には「あなた(がた)が聖書の教えと使徒の模範に基づいて、按手により、教職に任ぜられることは、教会のかしらでる主イエス・キリストの召命によると確信していますか。」と問われています。 「主イエスの召命」の事実が、伝道者としての使命の委託、それに伴う伝道者の権威の授与を保証するのです。 教会は、その主イエスからの召命の確実さに関して審査し、その事実を認知することはできても、福音の使命の委託も、それに伴う権威の授与もできません。それは「教会という場」で起こることにしか過ぎないのです。 勿論、それも大切なことのひとつで、軽んじてはなりませんが、、、。もし、このように新約聖書が明らかに、福音の役者の権威は「天から」、即ち、「神から」―主イエスご自身、また、聖霊によると明言しているのですから、たとえ個人的意見であっても、聖書の明言と異なった見解を抱くことは私たちにとって正しいことでしょうか。それは許されることでしょうか。聖書の明言を退けて自分の論理・推論に重きを置くことは、むしろ、危険なことではないでしょうか。
B.次いで「論理(理性)による検証」に入りましょう 「つばさ」誌2000/1月号「今月のことば」の論説では、ローマ・カトリック教会は「キリストー司教団―信者」という体制であって、それ故「上から」の権威が主張されていると説明されています。それに対して「万人祭司」の真理を主張するプロテスタント諸教会では、監督の権威は「キリストー教会―監督」というラインに従って「下から」の委託と主張されています。そして、その論説には「上に立つ者は、その権威を神から直接に授かったと考えるべきではありません。神は、霊的な権威を先ず『教会』に与えました。教会は、合議的な手続きを経て、その権威を監督に委託しているのです。」と断言されています。 しかし「万人祭司」とは、神と私たちの間に仲介を要しない直接的関係を正当化するものですから、監督の権威に関して「キリストー教会―監督」として、教会の仲介が必要と考えると、ローマ・カトリック教会とは反対の方向の極端に陥って、「万人祭司」の真理に矛盾することになりはしませんか。 そもそも「万人祭司」の教えは、ひとつの「上部」である「かしらなるキリスト」、ひとつの「下部」である「からだなる教会」のみの存在を教えるものであって、その教会の中に「上部・下部」を設けることを否定しているのではありませんか。それはすべての信仰者の立場や奉仕の相違を超えた「霊的平等性」を主張するものではないでしょうか。
C. さて、次に「体験による検証」です 教会は「キリストのからだ」であって、その「首はキリスト」でありませんか。「からだ」は、その肢々のすべてをもってすれば「首(かしら)」に代わることができるのでしょうか。権威は「からだ」から与えられるのではなく「首」から授けられるのであって、キリストは今も聖霊によって教会に「現存する教会の主」ではないでしょうか。勿論、牧師・群れの監督も教会の一部ですから、彼らに与えられた権威は、教会に与えられたとも言えます。しかし「教会」の仲介を通してでしょうか。私たちの伝道職への召命を思い起こす時、それは間接的に私たちに信仰者の共同体である「教会から」与えられたものと、私たちは理解・意識していますでしょうか。使徒パウロと等しく、私たちは「人からではなく、また、人々を通してでもない。それは、主イエス・キリストからだった」と証ししないでしょうか。
D. 最後に「伝統による検証」を試みましょう ジョン・ウエスレーのあの有名な「世界は私の教区である。」という発言の文脈において、ウエスレーは「人に従うよりは、神に従うべきです」として、彼の持つ「上から」の権威を主張し、他人の教区で説教しないようにと命ずる教会の権威をはね除けたのではないでしょうか。 また、チャールス・ウエスレーの有名な賛美歌「神をあがめ、、、」("A Charge to keep I have"―インマヌエル賛美歌628番)で、チャールス・ウエスレーが、"A charge"、"My calling"、"My trust" 、"Account to give" といったことばを用いる時、彼は、教会との関係を心に描いてこうしたことばを用いているのでしょうか。それともこれらは、神、また、主であるキリストとの関係においての、彼の意識の表明でしょうか。 そして、これこそが歴代の教職者・群れの監督たちの心中にあった同じ自覚ではないのでしょうか。 1. 監督教会の教職者は、当然「神から授けられた権威」を主張しています。では、他の政体を取る教派・教会の教職者たちの見解はどうでしょうか。 2. 会衆派牧師、その議長も務めたピーター・T・フォーサイスは、次のように書いています。 「教職は福音のゆえに教会の上に権威を持つ。しかして、いつに福音であって、思想においてでも、行為においてでもない。」、「教会は、説教者に神的権威を与えることはできなかった。しかし、説教者に社会的立場を与えることはできた。また、教会は、、、、彼らの権威を認めることはできた。」 3. ドイツ改革派神学者のオットー・ヴェーバーは、どう言っていますでしょうか。以下の引用文に目を留めてください。 「事実、世俗化した共同体(教会)が自らの世俗化を弁護するために『万人祭司』をどのように引き合いに出したか。、、、我々の教会が助けられるのは、ただ教務職(教職)が共同体に対する独立を獲得し直す時であり、教務職の交わりによって担われる時である。、、、『カトリック的な』軌道に通じると主張したくなるとすれば、それもまた不当なことであろう。断じて否を言うことが必要である。」、「その職(説教職)の尊厳さが備えられているのと全く同じように、その職には権力が与えられている。、、(ただし)彼の権力は全教会を神のことばに従順ならしめるということだけに限られている。」
X. 教会とその運営・制度
(以下、執筆中)
■ 神学小論文−そのX:「キリストの使節としての務めに任じられて」
■ 神学小論文−そのY:「教職と信徒」
■ 神学小論文−その[:「再び、教会の権威を巡って」
■ 神学小論文−その\:「監督政体について」(レスポンス)
■ 神学小論文−その]:「監督政体の理解」
■ 神学小論文3部作:「全ききよめの瞬時性と人間性」
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(2001/08/16 執筆)
「教会とその奉仕者」
はじめに:
「つばさ」誌に、竿代照夫師(C)による聖書からの「教会について」の学びが紹介されています。この学びの今後の展開をなお期待しながら、筆者(B)も「私たちの教会:『教会論』、殊に、その制度面から」と題して一文を纏めてみることにしました。
この一文執筆の切掛けは、同じ「つばさ」誌に記載されたある論説の中に、ひとりの同労者(A)が「上に立つものは、その権威を神から直接授かったと考えるべきではありません。」と言明しているのが目に留まったからでした。
「上に立つもの」とのことばは、論説の執筆者によって、先ず、
・「群れの監督」、即ち、教団の「総理」が意味されています(この範疇に「局長」など、群れの指導的立場につく人々も含めることができます)。
・更に、この論説は、その論旨を「一地域教会の監督」、即ち、地域教会「牧師」たちへと普遍し、それぞれの教会での牧師の在り方に言及しています。
それで、この二重の視点から教会を論じ、そのアドミニストレーション(運営・管理)の体制を考察する必要があります。上記の言明を巡って、「つばさ」誌論説の執筆者と筆者との間に、メールによる意見交換、論議が重ねられてきました。そのプロセスを通して、幾つかの点が明らかにされてきました。
後者に関する理解には、見解の相違はあまりありません。「つばさ」誌の筆者も、地域教会の牧師、即ち、「聖書的な意味での監督」は「神の権威(特にみことばを説き、礼典を執行する権威)を直接神から授かって」いることに、既に同意を表明しています。
しかし、論説の執筆者(A)は「教団という組織の中で実行される権限は、神から直接授かった権威とは違う次元の、職の『権限』ではないでしょうか。」と論じています。筆者(B)には、年会時の分科会「地域教会における監督制」(発題者は「つばさ」誌の論説執筆者と同一人物でした)のクラスで「監督の任命を神のものとして受け取る根拠はどこにあるのか」という質問に対して「解答なし」であったことの根底には(分科会の様子に関しては、簡単な報告に基づいていますので、時間的な要因も大きかったのかもしれませんが)、群れの指導者の権限を「職」の権限とみる論旨があるものと思えます。
筆者は、歴史的な意味での監督(群れ全体の指導者)を、聖書的な意味での監督(一地方教会の牧師)の歴史的展開の結果と見ていますので、前者の権限・権威を、後者の神から直接与えられた権限・権威の延長線上に位置付けて理解しています。こうすることによって、「任命が神からのものである」とする根拠、「任命権」など教団の監督の持つ権限・権威が、単に指導的な「職」につく者に教会から委託された権限というだけではなく、神与の権威であることを主張するものです。
さて、メールのやり取りを通して、教会、また、その奉仕者、制度などについて多くのことを考え、書き記しましたので、ここに整理して「私たちの教会:『教会論』、殊に、その制度面から」と題する文章に纏めてみました。
T 「教会の本質」:
まず「つばさ」誌論説中の「下からの監督制」という表現に関して、一言感想を述べておきます。そもそも「万人祭司」の教理を土台として「下からの監督制」という表現を用いたことに問題がありました。
「司教団をもって教会」と考える従来のカトリック教会の教会観をとれば、確かに「上からの監督制」という表現を用いることができます。従来のローマ・カトリック教会の考えでは、「司教団」が「上部」を構成し、「信徒」は「下部」を構成しているという図式が成り立っていたからです。しかし、ヴァチカン第二公会議以来、ローマ・カトリック教会にも変化が生じ、カトリックの神学者の中にも「司教団」ではなく、「信仰者の共同体」をもって「教会・キリストのからだ」とする理解が広がりつつあることを弁えなければなりませんでしょう。ここで「信仰者の共同体」というときの「信仰者(ビリーバーズ)」は、「教職者と信徒(ラエティ)」の両方を含む概念で、教会での奉仕の形態に関係なく「キリストを信じる人々」の意味です。
プロテスタント諸教会では特に、この「信仰者」たちすべてがキリストによって聖なる「祭司」として立てられていて、自らの救いのために、マリヤ、守護聖者、教皇、また、司教・司祭であれ、一切のキリスト以外の仲介者を必要としない、と聖書に基づいて頷いています。この「万人祭司」の教えは、すべての信仰者の対等な権利、聖霊によって「キリストのみ」を介しての父なる神との直接的な交わりなど、を保障することを教えるものです。
この「信仰者の共同体」としての教会の理解、また「万人祭司」の理解を持つ時、「下からの監督制」という理念は成り立ちません。なぜなら、奉仕の形態の相違はあっても、信仰者の間には上下の関係がないからです。教会に認められる唯一の上下関係は「かしらであるキリスト」に対する「からだである教会」という「上下」関係のみで、「からだである教会」の中には、いかなる意味においても「上下」関係は存在しないのです。「下からの監督制」という表現、また、概念は、それ故、退けられなければなりません。それは「キリスト(上)」に対して、「下(教会)からの監督制」ということになってしまします。これでは主イエスに対する教会の反逆を意味します。「つばさ」誌論説の論旨を言い表わすためには「下からの監督制」ではない、例えば「中からの監督制」など、より適切な表現が求められます。神学の分野は表現の厳密さが求められる世界です。
U 「教会の奉仕(ミニストリー)」:
万人祭司の教えは、教会においてそれぞれが聖霊によって与えられた奉仕の相違・多様性の存在を否定するものではありません。牧師・教師は、牧師・教師として、キリストによって教会に与えられ、立てられています。そして、彼らにはそれに伴なう権限・権威が与えられています。信徒には、信徒としてのそれぞれのミニストリーがあり、それに伴なう賜物、権限が与えられています。上下関係ではなく、ひとつからだの肢々としての機能・働きの相違なのです。
現代におけるローマ・カトリック教会の一神学者は、司祭と信徒に関して、以下のように書いています。「一方では、個人としてすべてのキリスト者にはそれぞれ御言葉を宣言し、かつ秘跡にあずかるための全般的な力が与えられているということと、他方では、共同体への公の本来の奉仕職へ、つまり御言葉の宣言、秘跡の執行、共同体のメンバーに対する多様な世話などにー正常な場合は按手あるいは叙階によってー召されている個人が持っている特殊な権威、これら両者は全く別のことである。」
A この神学者はローマ・カトリックの陣営に属するので、プロテスタント教会の立場に立ってこの文章を読むと、幾つかの訂正すべき点に気づくきます。
1. 第一は、「共同体」によって意味される人々には、奉仕職に召された人々が含まれておらず、「奉仕職へ召された人」と「共同体」という関係となっています。
しかし、聖書を正しく理解するならば、既述のように「共同体」、即ち「教会」は、既述のように「聖徒たち、監督、執事たち」とから成立っており、その中には、「監督、執事たち」などの奉仕職に召された人々も含めるべきです。
それ故、「監督、執事たち」と区別された共同体のメンバーは、正しくは、「聖徒たち」、或いは「信じた(信じている)者」と呼ばれるべきでしょう。
2. 第二に、「按手あるいは叙階によってー召されている個人」としていますが、これも「按手あるいは叙階によって」ではなく「主からの召命によって」とすべきでしょう。
按手は、後に更に論じますが、主イエスからの召しを、教会が正式に確認・承認するものであって、それによってある個人が奉仕職に就くのではありません。内的召命と外的召命を区別して考えるべきと思います。
3. 第三に、「秘跡」といった用語が明らかにカトリック的です。プロテスタントでは「礼典」という表現を用います。
B こうした点において相違があることを認識した上で、この学者が「個人としてのキリスト者が有しているみことばを宣言する力と、召された個人持っている特殊な権威」とを「これらは全く別のことである」としている点に注目したいと思います。
伝道職に召された人々に、主から託された権限は、しばしば「教導権」と表現されます。「教会を、そして、群れを建て上げるための権限・権威」です。
V 「教会の奉仕者としての教職者・伝道者」:
これに対して、宗教改革者M・ルッターは、1520年執筆の「ドイツ貴族へのことば」の中に「教職権は、基本的には全信徒に属するものである」と書いていますが、次のルッターのことばで判るように、ルッターのこの理解にはすべてのキリスト者の持つ力・権限と奉仕職へ召された人々がもつ権威との混同があります。
「このことを更に簡明に表現するなら、もし、敬虔な平信徒のキリスト者の一団が捕虜となり、砂漠に連れて行かれ、司教によって聖別された司祭がその中にいないので彼ら自身の中から一人を選ぶことに決め、、、、そうしてバプテスマを授け、ミサを祝い、赦罪を宣言し、説教をしたりすることをその人に命じたとしたら、その人物はあたかも全司教と全教皇が彼を聖別したのと同じような、真の司祭となるはずである。」、
「、、、なぜなら、だれでもがこれらの職務を行うのがよいというのではないが、バプテスマを受けた者はすべて、司祭、司教として聖別されたものと誇ってよいからである。」
私たちは、そうは考えないのです。一人の人が牧者として立てるのは、教会の主、また、羊の大牧者であるキリストが、その人に声をかけ、その群れの牧者として立つように召命を与えられた時であり、その召しの声が掛からない限り、その人は信徒として、お互いに勧告したり、説教したりはできるでしょうが、それはどこまでも信徒としての立場に留まったままです
具体的な例として、和歌山のベテスダ会の状況を想い起してください。彼らが、伝道者のいない状態で、その内のひとりを自分たちで牧師と選んで、教会としてやってゆくということがありうるでしょうか。彼らはそうしませんで、次の年会で、牧者・伝道者が、任命されるのを待ったのです。
「すべてのキリスト者がみことばを宣証する権を委ねられている」とのことは、共同体の一部の人々に専門的にその業に携わるようにとの主からの召命が与えられる、という事実を排除するものではありません。
宗教改革というような変革の時代には、人の常として一方の極端からもう一方の極端に振れた見解が打ち出されるものです。ローマ・カ トリックの体制に戦いを挑んだルッターが、司教の権威に反発し、信徒・教会の権威を強調したのも理解できないことではありません。
しかし「つばさ」誌の論説の誤りは、聖書に基づいて論じる代わりに、一方に偏ったルッターによる「万人祭司」の見解を土台として論旨を展開したことにあるのではないでしょうか。
教職権は、共同体の一部を構成する教職者に主イエスから委ねられた権限です。そして教職者たちが教会の本質的な一部であるが故に、その権威は「教職者にあって」教会・共同体のものであると言えます。しかし、教会全体・共同体に属しはするものの、信徒に属するのではなく、主イエスによって個人的に召された教職者に属するものなのです。
W 教職者・伝道者の権威:「福音の役者の権威」に関してー「だれが、あなたにその権威を授けたのですか」(この表題の小論を参照してください)
この点に関しては、「つばさ」論説の執筆者も、説明不足であったことを認めて、考えを改めていますので、今更詳細に論じる必要はないのですが、群れの指導者(歴史的な意味での監督)の権威について論じる土台ですので、ここに筆者の論旨を転記します。
「イエスは答えて、こう言われた。『わたしも一言あなたがたに尋ねましょう。、、、』」(マタイ21章23―27)。キリストに投げ掛けられた「だれがあなたにその権威を授けたのですか」という質問は古くて新しい質問です。勿論、この質問を投げ掛けた祭司長・民の長老たちと違って、私たちは主イエスの権威に関しては少しも疑問を抱いていません。主イエスの権威に関しては明確な認識を持っています。最近私たちの間で問題となっているのは福音の役者の権威に関してです。即ち「民の指導者、長老、学者たち」が使徒たちに「あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか」(使徒4:7)と尋問した時の状況と似ています。福音の役者の権威が問われているのです。
さて、主イエス緊迫した空気の中で、質問者に質問を返してファジィに答えられました。使徒たちの方は、ストレートに「イエス・キリストの御名によるのです。」と答えました。今回は主イエスに倣って「だれが牧師・群れの監督にその権威を授けたのですか」という質問に対して、ストレートに答える代わりにいくつかの質問を投げ掛けてみたいと思います。
この文脈で、ヨハネの権威は、主イエスの権威と密接な関係にありました。さて、そこでヨハネは預言者と認められているでしょうか。26節の「ヨハネを預言者として認めている」ということばは、人々の判断・考えであって、それは否定されるべきものなのでしょうか。主イエスは、この場面で、当然、肯定的な見解を抱いておられたのではないでしょうか。また、ルカの福音書1章にあるゼカリヤの賛歌の中では、ヨハネは「いと高き方の預言者と呼ばれよう」(76節)として言及されていますので、ヨハネは明らかに預言者だったのではないでしょうか。それでは、そのヨハネ、旧約の預言者たち、そして更には、新約のみことばの役者の権威は「上から」でしょうか「下から」でしょうか。
さて、ウエスレーは物事を立証するにあたって、四つの基準を設けました。即ち、聖書、理性、経験、そして、伝統です。これらは「ウエスレーの四辺形」と呼ばれていますが、ウエスレーの意識では、四辺形というより「聖書を頂点とする三角錐」と言ったほうが正しいようです。ウエスレーにとっては、そして、私たちにとっても、聖書は無二の基準であって、他のものはその聖書の理解の補助的手段として位置つけるのが正しいのです。それで、先ず、ウエスレーの基準によってこの問題を検証してみましょう。
A.「聖書による検証」: 新約聖書は、監督・牧者たちなどの福音の役者の権威について明記していないでしょうか。幾つかの聖句を思い起こして頂けませんか。
1. 使徒20・28―「聖霊は、、、神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。」
ここに「あなたがた」とは、エペソ教会の長老たちのことです。彼らは、長老、牧者、また、監督でした。ある人々は「使徒の働き」は歴史的文献であるゆえに史実を述べるに過ぎず、後代への規範性、時代を超えた普遍性を有していないと反論するでしょう。この反論は正しいでしょうか。
2. 書簡に見出される聖句に移りましょう。Uコリント13・10―「主が私に授けてくださった権威を用いて、、、」
ここに「私」とは、使徒パウロのことです。彼は主から直接的、また、個人的に「教会を築き上げるための」権威を授けられました。
しかし、或る人々はここにおいても、パウロの使徒職の特殊性を理由に、この聖句は普遍性を有していないとして私たち現代の牧者・群れの監督にこれを適用することを拒むでしょう。一歩譲って、そうだとしても、Uコリント 10:8の「私たち」をどう理解しますでしょうか。
3. エペソ4・11も見てみましょう。「キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。」
使徒以外の教会のミニストリーについている人々を、この聖句は「神によって立てられた」という点においては、使徒と同列においています。この聖句から、主が牧師・群れの監督に直接的に、使徒パウロ同様に、その「権威を授けてくださった。」と結論できないでしょうか。
4. Uコリント5章18―21節
5章の18、19節には「神は、キリストにあって、、、、和解の務めを私たちに与えてくださいました。」、「神は、キリストにあって、、、、、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。」とあって、次の20節、有名な「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。、、、私たちは、キリストの代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」へと続いています。
「和解の務め」、「和解のことば」の委託が、その奉事に伴う権威を伴って、キリストにあって神から与えられているからこそ、伝道者は「キリストの使節」と呼ばれます。
使命のみがキリストから与えられて、その使命遂行に伴う権限・権威は、キリストから直接ではなく、他からというのは奇妙な論理ではないでしょうか。使命の委託と権威の授与は、同時的であり、同一のお方「キリストにある神」からのものです。
もし後者の「みことばの奉仕に伴う権威」の授与を「教会から委託されたもの」としなければならないのなら、前者の「福音の奉仕そのもの」も「教会から託されたもの」としなければなくなりますでしょう。両者は不可分です。これは伝道者にとって生命的といえる伝道職への召命観に関わってきます。
さて、パウロのその点の自覚は、ガラテヤ1章1節に明確に表明されているように、「使徒となったのは、人間からでたことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストとキリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によった」と表明されているものでした。
そして、これが、使徒職とは異なるものの福音に仕えるという点で共通性を有する、伝道職に召された人々の揺るがない自覚・意識ではないでしょうか。
「死者の中からよみがえらせ」られた、という表現の意味合いは、後に注目します。
IGMの按手式の誓約文には「あなた(がた)が聖書の教えと使徒の模範に基づいて、按手により、教職に任ぜられることは、教会のかしらでる主イエス・キリストの召命によると確信していますか。」と問われています。
「主イエスの召命」の事実が、伝道者としての使命の委託、それに伴う伝道者の権威の授与を保証するのです。
教会は、その主イエスからの召命の確実さに関して審査し、その事実を認知することはできても、福音の使命の委託も、それに伴う権威の授与もできません。それは「教会という場」で起こることにしか過ぎないのです。
勿論、それも大切なことのひとつで、軽んじてはなりませんが、、、。もし、このように新約聖書が明らかに、福音の役者の権威は「天から」、即ち、「神から」―主イエスご自身、また、聖霊によると明言しているのですから、たとえ個人的意見であっても、聖書の明言と異なった見解を抱くことは私たちにとって正しいことでしょうか。それは許されることでしょうか。聖書の明言を退けて自分の論理・推論に重きを置くことは、むしろ、危険なことではないでしょうか。
B.次いで「論理(理性)による検証」に入りましょう
「つばさ」誌2000/1月号「今月のことば」の論説では、ローマ・カトリック教会は「キリストー司教団―信者」という体制であって、それ故「上から」の権威が主張されていると説明されています。それに対して「万人祭司」の真理を主張するプロテスタント諸教会では、監督の権威は「キリストー教会―監督」というラインに従って「下から」の委託と主張されています。そして、その論説には「上に立つ者は、その権威を神から直接に授かったと考えるべきではありません。神は、霊的な権威を先ず『教会』に与えました。教会は、合議的な手続きを経て、その権威を監督に委託しているのです。」と断言されています。
しかし「万人祭司」とは、神と私たちの間に仲介を要しない直接的関係を正当化するものですから、監督の権威に関して「キリストー教会―監督」として、教会の仲介が必要と考えると、ローマ・カトリック教会とは反対の方向の極端に陥って、「万人祭司」の真理に矛盾することになりはしませんか。
そもそも「万人祭司」の教えは、ひとつの「上部」である「かしらなるキリスト」、ひとつの「下部」である「からだなる教会」のみの存在を教えるものであって、その教会の中に「上部・下部」を設けることを否定しているのではありませんか。それはすべての信仰者の立場や奉仕の相違を超えた「霊的平等性」を主張するものではないでしょうか。
C. さて、次に「体験による検証」です
教会は「キリストのからだ」であって、その「首はキリスト」でありませんか。「からだ」は、その肢々のすべてをもってすれば「首(かしら)」に代わることができるのでしょうか。権威は「からだ」から与えられるのではなく「首」から授けられるのであって、キリストは今も聖霊によって教会に「現存する教会の主」ではないでしょうか。勿論、牧師・群れの監督も教会の一部ですから、彼らに与えられた権威は、教会に与えられたとも言えます。しかし「教会」の仲介を通してでしょうか。私たちの伝道職への召命を思い起こす時、それは間接的に私たちに信仰者の共同体である「教会から」与えられたものと、私たちは理解・意識していますでしょうか。使徒パウロと等しく、私たちは「人からではなく、また、人々を通してでもない。それは、主イエス・キリストからだった」と証ししないでしょうか。
D. 最後に「伝統による検証」を試みましょう
ジョン・ウエスレーのあの有名な「世界は私の教区である。」という発言の文脈において、ウエスレーは「人に従うよりは、神に従うべきです」として、彼の持つ「上から」の権威を主張し、他人の教区で説教しないようにと命ずる教会の権威をはね除けたのではないでしょうか。
また、チャールス・ウエスレーの有名な賛美歌「神をあがめ、、、」("A Charge to keep I have"―インマヌエル賛美歌628番)で、チャールス・ウエスレーが、"A charge"、"My calling"、"My trust" 、"Account to give" といったことばを用いる時、彼は、教会との関係を心に描いてこうしたことばを用いているのでしょうか。それともこれらは、神、また、主であるキリストとの関係においての、彼の意識の表明でしょうか。
そして、これこそが歴代の教職者・群れの監督たちの心中にあった同じ自覚ではないのでしょうか。
1. 監督教会の教職者は、当然「神から授けられた権威」を主張しています。では、他の政体を取る教派・教会の教職者たちの見解はどうでしょうか。
2. 会衆派牧師、その議長も務めたピーター・T・フォーサイスは、次のように書いています。
「教職は福音のゆえに教会の上に権威を持つ。しかして、いつに福音であって、思想においてでも、行為においてでもない。」、「教会は、説教者に神的権威を与えることはできなかった。しかし、説教者に社会的立場を与えることはできた。また、教会は、、、、彼らの権威を認めることはできた。」
3. ドイツ改革派神学者のオットー・ヴェーバーは、どう言っていますでしょうか。以下の引用文に目を留めてください。
「事実、世俗化した共同体(教会)が自らの世俗化を弁護するために『万人祭司』をどのように引き合いに出したか。、、、我々の教会が助けられるのは、ただ教務職(教職)が共同体に対する独立を獲得し直す時であり、教務職の交わりによって担われる時である。、、、『カトリック的な』軌道に通じると主張したくなるとすれば、それもまた不当なことであろう。断じて否を言うことが必要である。」、「その職(説教職)の尊厳さが備えられているのと全く同じように、その職には権力が与えられている。、、(ただし)彼の権力は全教会を神のことばに従順ならしめるということだけに限られている。」
X. 教会とその運営・制度
(以下、執筆中)
■ 神学小論文−そのX:「キリストの使節としての務めに任じられて」
■ 神学小論文−そのY:「教職と信徒」
■ 神学小論文−その[:「再び、教会の権威を巡って」
■ 神学小論文−その\:「監督政体について」(レスポンス)
■ 神学小論文−その]:「監督政体の理解」
■ 神学小論文3部作:「全ききよめの瞬時性と人間性」