年会・教役者(1998/03/27)でのレスポンス
■ 神学小論文−そのX:「キリストの使節としての務めに任じられて」
■ 神学小論文−そのY:「教職と信徒」
■ 神学小論文−そのZ:「私たちの教会―教会論:その制度面から」
■ 神学小論文−その[:「再び、教会の権威を巡って」
■ 神学小論文−その\:「監督政体の理解」
年会・教役者(1998/03/27)でのレスポンス
■ 神学小論文−そのX:「キリストの使節としての務めに任じられて」
■ 神学小論文−そのY:「教職と信徒」
■ 神学小論文−そのZ:「私たちの教会―教会論:その制度面から」
■ 神学小論文−その[:「再び、教会の権威を巡って」
■ 神学小論文−その\:「監督政体の理解」
. 聖書の写本:日本聖書協会・前総主事の佐藤氏の提供
聖書に見る規範、メソジスト教会における歴史的な展開、そして、IGMにおける実践と、三つの観点から「監督政体」について、それぞれよく整えられた講演がなされたが、聖書が教理と実践との規範であるということから、聖書に見る監督政体の学びに一番の重点を置くべきであろうし、また、個人的にも興味を覚える。専門的に学んだ訳ではないので、ごく個人的な感想ということで、以下、数点をレスポンスとして申し述べさせて頂く。
1. 旧約聖書に「監督政体」の源流、リーダーシップのパターンを求めるとき、幾つかの点に注意すべきであろう。
a. 旧約聖書におけるリーダーシップは、モーセの生涯とその後継者であるヨシュアの奉仕に最も顕著に見ることができるが、講演者が指摘しておられるように、申命記 18:15 に鑑みて、その実体はキリストの生涯と奉仕において実現を見たので、他のリーダーに、同様な形態でのリーダーシップを期待することは、誤りであると考える。
b. この点に関連して、その他の旧約時代のリーダーシップ、即ち、士師たち、預言者たちに関しても、旧約時代の特定の働きのために、特定の人物に与えられた聖霊の賜物との観点から理解する必要があり、それは新約時代のすべての信仰者に注がれた聖霊ご自身の賜物との理解と比べて学ぶ必要があろう。しっかりした漸進的啓示の理解、聖霊論の基礎をもって理解することが必要である。
c. 王の権限に関しては、教会に直ちに適応できないのは当然であろう。旧約聖書に模範を求めるときには、このように最大限の注意が必要となる。
2. 新約聖書に「監督政体」のパターンを学ぼうとするとき、以下のことを心に掛けることが必要であると考える。
a. 「監督政体」の模範と「監督権」の行使の例とを区別して考えるべきではないかとの点。即ち、後者に関しては、その神的起源を主張できても、「監督政治」を神的起源によるとすると、「長老政治」、「会衆政治」の妥当性を全く排除することになるという点である。特定の政治形態を新約のページに特定することはできないとの理解が、偏らない結論と思う。
b. それで、「監督権」の行使とは対比される、いわゆる民主的といわれる手法の聖書的な根拠の提示が、全体のバランスに鑑みて必要に思う。使徒 6章の「弟子たち全員」による選出、承認といったプロセスの意味合いを併記することも大切と考る。
c. 要するに、新約聖書が唯一の「政体」のみを示さずに、他の可能性を示していることに、監督政体の採用における一つの鍵があるように思う。
d. また、新約聖書にみるリーダーシップの模範は、主イエスのそれ以外は、使徒「たち」、また、監督「たち」・長老「たち」とあるように、複数のリーダーによる指導体制を指さしており、それによって一人物による独裁的な監督政体を防いでいるように思える。使徒ペテロを別格と考え、その後継者が教皇であるとするローマ・カトリック型の監督政体は、聖書の誤った釈義に基づいていて受け入れがたい。
3. メソジスト教会における監督政体に関しては:
a. ウエスレーを始めとする創始者の特殊性の理解と、その権限がどのように継承されるべきか、との点が最大の研究課題であろう。
b. 教会(団)活動が展開し、拡大・成長してきていることの証しは、人数面での増加と共に、人材の育成・訓練の観点からの検討する必要がある。創設期において見るような、創設者単独のリーダーシップ・パターンが、次代、三代にも続くとしたら、それはリーダーシップ育成において成功しなかったことを意味しないではあろうか。人材が育って来ていることは、その成長に伴って働き・重荷を、分担してゆくことを意味している。
c. 創設者の権限の委譲、多くの人材による分担体制への移行は、その意味で健全なものであって、そうしたことへの要求は当然である。メソジストの流れを汲む諸教会・教派にみる教会政治に関する様々な主張、また、試行錯誤(?)は、この要求の様々な表れと理解できる。それが、それぞれの時代がもたらした課題への取り組みと絡み合って、複雑な様相を示しているのである。
4. IGMにおける監督政体に関しては:
a. 講演者が指摘されたように「条例に基づいた監督政体」であることを理解する必要があろう。その意味で、創設者によって打ち出された「メソジスト監督政体」、即ち「合議的な監督政体」を実践するために、より明瞭な理解が共通のものとなるように、条例を改訂してゆく作業は必須であろう。
b. もし、もう一点をつけ加えることが許されれば、IGMにおける監督政体は「人格的な関係に基づく監督政体」と言えよう。条例と言う血の通わないガイド・ラインと共に、暖かい関係、信頼関係に基づいた監督権の行使が期待されている。
結論的に私は、監督政体を:
a 聖書の規範からみて、、、、妥当であり、
b 歴史の実例からみて、、、、有効、(且つ、危険)であり、
c 条例に鑑みて、、、、不可避であり、
d 将来を展望して、、、、条例の整備が必要であり
e 経験的に考えて、、、、人格的関係に依存すると判断し、
f 実践的に見て、、、、ホーリネスの不可欠性を頷く
ものである。
以 上
注記:監督政体に関しては、IGM人としては、古くは、朝比奈寛元総理が教報誌上(○○年○月号?)に発表された纏め、更に、一木訓治師が「教会歴史から考察する監督政体」と題して執筆されたものがる。後者は個人的に学ばれたもので、小冊子になってはいるが公にされたものではない。