「監督政体の理解」

教役者研修会発題:1984/11/28


  A 教職按手礼のための論文として課せられた課題の一つに、「教団教義及条例第50条(現82条)考」があった。
  「総会においても左(下)のことはできない。」として、
   1. 教団創立の本来の根本原則に違背する教義の新設
   2. 総理の監督権の廃止
   3. 被審判権と上告権の剥奪
の3項目が記されている。

  B 論文を記すにあたって、第1項を「聖書的条項」、第2項を「歴史的条項」、そして、第3項を「良心的条項」として整理したが、ここに第2項を「歴史的」と位置づけ、第1項の「聖書的条項」と区別したところに、私の「監督政体の理解」の要約があるように思う。今、これを述べるにあたって
   1. 聖書に即した監督政体
   2. 教団条例に従った監督政体
   3. 人格的関係に基づいた監督政体
との3点に展開してみたい。

  C そうするに際して、以下の2つの視点が交互することに注意を喚起しておきたい。
   1. IGMに所属する者として、「従う」側にたっての視点と
   2. 一教会を委ねられた場合の、牧師としての監督的立場に立っての視点
である。

  本 論 T 聖書に即した監督政体:

  A 教団条例第50条(現条例では、第82条)の第1項を「聖書的条項」、第2項を「歴史的条項」としたこと。
   1. 第1項の「聖書の十全霊感」、「ウエスレアン的アルミニアンの信仰的立場は、神の啓示により明確に命じられ、教えられているものと理解しての「聖書的条項」なのである。
   2. それ故、それと異なった教義を宣べ伝えることは聖書的信仰からの逸脱であり、健全な信仰の放棄である。
   3. さて、監督政体を「聖書に即しての」と表現する時、それは監督政体が聖書にも見られる、即ち、使徒たちは監督権を行使したことを頷く、との意味であって、
   4. 聖書が監督政体を唯一絶対のものと教えている、とのことを意味するものではない。
   5. J・ウエスエーの理解もこのようであったが、それは聖書に規定(Prescribe)されたものではない故に、ウエスレーは
    a. お互いの間の愛が確かにされるまでは論じないでおくべき事どものひとつ、
    b. 更には、神と全人類への愛(救霊に表される)に比して、小さきことと判断していた。
   6. 私は、必ずしも政体の問題を小さきこととは考えないが、聖書に明確に命令、規定されていないことのインプリケーション(意味合い)を以下のごとく理解している。
    a. 監督政体をとることは、聖書の光において差し支えないし、むしろ、歴史的に考える時(後述)、推奨できるものである。
    b. しかし、それが唯一絶対のものとされていない故に、その運用において、他の政体のもつ利点、長所を十分考慮する必要のあること(c項参照)。

  B 第2項「総理の監督権云々」を「歴史的条項」としたこと。
   1. 初代教会の歴史で、ローマ教会他が、監督政体として組織されていったその時代背景として、
    a. ローマ時代は帝政をしいており、
    b. 教会がそれと平行的な政体をとったことはごく自然なことであったと考え、
   2. 更に、その時代の迫害、また、異端との戦いを鑑みるに、最も強力・有効な教会の組織であったろうと判断される。
    a. もし初代教会が他の政体を取っていたなら、その当初に直面した荒波を乗り切れなかったであろう。
    b. その意味で監督政体は戦闘の教会にとり、正しく運用される時、もっとも有効な政体であると言い得る。
  (3. J・ウエスレーとメソジスト運動については後述。)

  C IGMはこの語が普通理解されている意味合いで「監督政体」をとっていると言えるであろうか。
   1. ジョン・ウエスレーの理解した「監督政体」とは、神学における定義によると「上位聖職者(長老と区別された監督たち)による教会政治」を行う政体とされる。
    a. 教役者の中で、教職試補、伝道者を除く、教職のみを正会員とするIGMの年会の組織がこれに類似しているが、
    b. IGMの年会は最高の議決機関ではない。
   2. IGMの実際は
    a. 教職代議員と信徒代議員からなる総会があり、これが最高の議決機関であるゆえに、
    b. ジョン・ウエスレーの理解した監督政体から見るとき、この機構は、厳密には「監督政体」ではないのではなかろうか−「長老的?」

  本 論 U  教団条例に従っての監督政体:

  A ひとつの教団に所属することの意味合いは
   1. 外的には、条例に従って聖書を理解し、実践してゆくことであり、それ故「教団条例」が聖書に次ぐ権威として受け入れられていることであり、
   2. 内的には、その教団の存続の目的、理由、そして、スピリットに自ら生きつづけることである。

  B IGMで「監督政体」という時、教団条例に規定されている「総理の監督権」に従っての教団、教会運営が意味されているものと理解して間違いないであろう。

  ここに教団条例に則って行使される総理の監督権とは、
   1. 第96条―総会時の局長の選任
   2. 第54条―年会時の教師その他の任命
   3. 第52条―教職及び準教職の任定
   4. その他―(省略)

  C 「監督政体」とのことによりIGM人の通念として理解されていることとして、「指導者に従うこと」がある。

   1. このことは、群れの秩序を維持するために必要なことであり、当然のことである。
   2. 但し、ある所で「指導者が間違っていても従うという絶対的服従が監督政体によって意味されている」との発言があったが、
    a. 「間違っていても」とは、何をもって間違いと判断するのかを考える時、奇妙なことになる。なぜなら、お互いの間では、正誤の判断基準は聖書にあるからである。
    b. 「間違っていても、、、」ではなく、「見解・考え方が違っていても、、、」であれば、指導者の見解に従うことは当然と言えよう。
    c. お互いの理解を深めてゆく努力を怠ってはならないと思う。特に教会と言う場においては、この努力は大切である。

  本 論 V 人格的関係の基づいた監督政体:

  A. 国家初め、世俗社会においては、権力・権限は、「法」によって行使される。

  B. 教会においては、

   1. 世俗社会に見る「法」に相当するものがないわけではなく、この点は「U 教団条例に則った監督政体」において言及したところである。
   2.ここでは、もう一つの面の人格的関係を考えたい。すなわち、指導者と従う者との間に「信頼―尊敬」という人格的関係があって初めて、監督政体が正しく機能する、とのことである。

  C. 「IGMは監督政体である」と声を大きくして言わなければならない情況があるとすれば、教会にせよ、他の場合にせよ、この点に問題があるとは考えられないであろうか。
   1. 至高の権威としての神への服従は、正しく、神への畏敬の念から、強制されたものとしてではなく、潔められた心より、自然と流れ出てくるものである。
   2. J・ウエスレーとメソジスト教徒との関係は、これに類似したものであり、J・ウエスレーは、特定の政体ゆえに人々を従わしめたのではなく、人々が彼に従ったのは、彼の霊的・個人的・人格的感化力のなさしむるところであった。
   3. 神のしもべとして、教会にあって、人々に服従を要求する時、我々が神のしもべに相応しい尊敬と敬愛とを人々から勝ち取っていることがすべての鍵である。
   4. これなしに「監督政体云々」を口にすることは、反って問題を招来することであって、我々が真に自らホーリネスに生きることが必須である。
   5. 「監督政体を取らないのは、真に指導的な人物が居ないからなのであって、それ故に、合議政体に変わっているのは、便宜的、傍系、派生的なことで、それが必ずしも進歩せる政体だとは思われない。」とは、朝比奈総理のおことばである。
   6. ここで人格的な触れ合いの大切さを十分考慮しなければならない。群が大きくなってゆくことの課題がここに存する(附・参照)

  D. 新約聖書にみる「従いなさい」と訳されている3つのギリシャ語は、
   1. 親子関係他―聴き従う、言うことを聞
   2. 夫婦関係―下につく、譲る
   3. キリストと弟子関係―足跡を踏んでゆく
  であって、キリストが弟子に「我に従へ」(文語訳)と語られたのは、第三の意味で「わたしの足跡を踏んでついてきなさい」の意味であった。

  結 論

  監督政体は、
   ・ 聖書に見られるゆえに ―心から受け入れ、
   ・ 歴史的に評価して ―最も有効な政体と考え、
   ・ 教団条例に鑑みて ―必須なものと判断し、
   ・ 通念的に言って ―指導者への服従と理解し、
   ・ 経験的に ―人格的関係に基づくと考え、
   ・ 実践的に ―ホーリネスの不可欠であることを頷くものである。

  附:メソジスト運動における監督政体は、ある学者によると

   ・ 高位聖職者的でなく―長老的
   ・ 僧職階級的でなく―福音的
   ・ 教区的でなー巡回的

  であるとされている。

  注記-1:この小論が発表された後、IGМの監督政体は「メソジスト的監督政体」であるとの見解が打ち出された。その後、メソジストの中にも、現北米ウエスレアン教会にように、必ずしも監督政体を取らない教会・教派があることから、「メソジスト的」との語は、「合議的」に置き換えられて、現在では「合議的監督政体」という表現がIGM内では定着しつつある。

  注記-2:「監督政体」には、ジョン・ウエスレーの理解したような、長老・執事と区別された「監督」、即ち、「上位聖職者」による教会政治だけではなく、教報誌上に記載された朝比奈寛元総理の小論にあるように、片や、公式に発せられた教皇の発言を無謬とするローマ・カソリック型の絶対的な監督政体から、教職者を、イングランド国教会が理解するように「監督・長老・執事」と階級的には考えないで、信徒と区別された教職者による教会政治をもって「監督政体」と考える立場の学者もいる。

■  神学小論文−そのW:伝道職の権威:「どこから、あなたはその権威を得ましたか」

■  神学小論文−そのX:「キリストの使節としての務めに任じられて」

■  神学小論文−そのY:「教職と信徒」

■  神学小論文−そのZ:「私たちの教会―教会論:その制度面から」

■  神学小論文−その[:「再び、教会の権威を巡って」

■  神学小論文−その]:「監督政体について」(年会講演会でのレスポンス)


.                                   聖書の写本:日本聖書協会・前総主事の佐藤氏の提供


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