「祝祷に関する見解:宣教研究委員会編」を読んで

1998/09/04 執筆


  早速ながら、委員会のご労に感謝しつつ、以下の感想、また、意見をを述べさせて頂きます。按手礼をどのように理解するかが、一つの鍵で、この宣教委員会の見解では、今回はそこに踏み込まずに(一つの見解を持った上で、それは論じないで)ということなので、基礎なしに上層部分のみに手を加えることになっているように感じます。やはり按手礼に関することを十分に論じた上で、「祝祷」問題と取り組まなければ中途半端の感は免れません。
  教会歴史の観点からは、按手礼は(簡単に述べて)教会としてのキリストから託された使命の委任、また、それに伴う権限の委譲に関わる儀式である理解されていますが、聖書に記録されている按手の記事は、按手の行為がより多様な意味を有していたことを示しています。また、使命の委任、権限の委譲という意味における按手礼の理解は、ローマ・カトリック教会のヒエラーキー(職位階級制)の中で発展したものであり、また、宗教改革の時代においても、(ルーター派の教会も、改革派の教会も、英国国教会もすべて)権威を持った国家と一体である、または、その支配の許にある教会という特異な状況において発展してきた概念であることを忘れてはならないでしょう。
  その後の更なる宗教改革運動において、メノナイト、バプテストといったグループの人々が取った見解も加えて吟味する必要があります。幼児洗礼を避けて、信ずる者のみにバプテスマを施すということの実践において、インマヌエル教会は彼らの伝統に従っていることを忘れてはならないでしょう。
  この教会の使命の委任、権限の委譲は「按手礼」という形式に限定されるのか否かが、ひとつの方向づけを与えるよう思います。また、按手礼は、その意味に限定されるか否かも吟味する必要がありましょう。もし、限定されるという立場を取るならば、聖礼典の執行の(また、祝祷を捧げる)権限を受按者に限定する立場に厳密に立つて、他教団のように、礼拝式の執行、礼拝におけるみことばの説教を受按者に限定し、非受按者は、按手礼を受けた教職者の臨席・指導の許にのみ、補佐としてこうした奉事に携わるべきという結論以外の結論に到達することは困難と思います。
  しかし、インマヌエル綜合伝道団(IGM)では、福音の宣証においては、そのような立場を取ってこなかったので今回の課題と取り組むこととなった訳ですが、IGMが他教団のような厳格な態度を取ってこなかった背後に、IGMでは福音を宣証する神的権限を、按手礼に際しての教会の権威による委託・委譲によって、というよりも、伝道職への主の召命によって受けたものと理解してきたからではないでしょうか。この召命の自覚のゆえに、使徒パウロが言うように「私たちはキリストの使節なので」あって「ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちはキリストに代わって」(Uコリント5:20)会衆、また、一般大衆にも、みことばを宣べ伝えるのです。そして、福音の宣証は、後述の教会のマークが示すように、本来、みことばの説教と礼典の執行との双方を包含するものと考えます。何故なら、礼典がことばによらない象徴による福音の宣証の機会でなかったなら、礼典は礼典としての意味を失います。
  この意味から、キリストの使節として「キリストに代わって」福音を宣べ伝えるために召され、そうすることを許された者は、即、「キリストに代わって」聖餐の礼典を執り行い、また、「キリストに代わって」祝祷を捧げる権限を、キリストから受けていると言えます。 地上に存在する聖徒の交わりとしての地域教会は、キリストの教会であることの使徒的しるしとして、神のみことばの説教と聖礼典の執行をその働きの中心に置いています。そして、この二つは切り離すことができません。本来、伝道職に召された者としてみことばの説教を許され認められた者は、祝祷を捧げることは勿論、聖礼典の執行も許されていて然るべきであると考えます。
  しかし、長い教会歴史の教訓から、福音を宣証する召命を確かに受けたことを、生活・奉仕の場で証しするためのある期間を設けておくことが妥当なことと考えられ、そこに受按にいたるまでの伝道師、或は、教職試補という立場での奉仕期間が設けられている訳です。「教職試補」という表現は、そのことを明瞭に意味しています。按手礼は、それゆえ、教会の使命の委託、それに伴う権限の委譲という意味合いより、召命においてなされたその事実への、教会による認知、正規の受諾という意味になります。
  使徒の働き13章のパウロ、バルナバに対する按手はそのような、伝道職へではないにしても、宣教師としての認知・受諾の意味合いを有していたものと解釈されます。彼らは教会から使命を委託されたのではなく、それは主から委ねられたもので、教会はその事実を認知し、彼らの使命遂行にあたって、その背後に立って支援することを約束するものとしての按手でした。IGMの状況に戻って、伝道師、また、教職試補としての立場での説教は、それ故、プロベーショナル(試験的なもの)と理解すれば、何故、非受按者が礼拝式を任されているかが理解できるでしょう。
  「だれにも軽々しく按手してはいけません」(Tテモテ5:22)とのみことばに従って、按手の意味を重く受け止めることは必要でしょう。しかし、受按者と非受按者に区別を、以下に書き記した地上の教会の秩序という観点から以上に、厳格にすることは、結局、私たちが否定している「使徒継承の教理」を受け入れる以外にはなし得ないことなるように思います。使徒継承の教理を否定するとき、按手を授ける側における、按手を与える神的権威は何処から来たのかとの問題に突き当たります。私たちが、使徒ではないにせよ、伝道者になったのは「人間からでたことではなく、また、人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によった」のであることを主張する時、その神的権威を帯びているという点では、按手を授ける側も、按手を受ける側も凡て主からの召命を受けている者にとって同様と言えます。
  ただ教会の秩序のために、年齢的な若さ、教会のご用における未経験・未熟さ、その他のことに鑑みて、長老たる指導者たちの前に遜り、その前に証しが立っているか否かを吟味されることを可とし、その判断に従う態度を取るのです。ことに条例に規定されている場合、意見を異にすることがあっても、聖書に反しない限りにおいては、地上の教会の秩序を重んじて条例に従う姿勢を取ります。
  局長会において、群れの秩序という面からは「按手を受けていない伝道者も祝祷を捧げることは問題ない」という、それを可とする見解が出された現在、第3ページに示唆されている「区別を反映する方法」は不必要と感じますが如何でしょう。ここに説明されている立場は、表面的には局長会の決定を受け入れるように見えるものの、事実はそれに打ち消す見解を取って、非受按の伝道者による祝祷を禁ずるものになっています。端的に言うと、まね事は許すが、「真の」祝祷はまかりならないという見解です。しかし、敬虔さをもって、キリストに召された者としての意識をもって、説教において「キリストに代わって」懇願することができるなら、祝祷において「キリストに代わって」会衆を祝福することに、何の問題があるでしょうか。経験は奉仕の歳月を重ねることによって積み重ねることができましょう。
  しかし、敬虔は必ずしも奉仕の年月の長さ、按手の有無によって醸し出されるものではなく、個人個人のキリスト、また、御霊なる神、との日々の歩みによるものです。みことばを語ることのできる敬虔さが備わっている者なら、祝福する敬虔さも持ち合わせているものと理解しても良いのではないでしょうか。因みに按手の例として、旧約時代の祭司の例が引用されていますが、一般に、祭司的な伝統は機構や儀式を重んじ、それと平行する予言者的な運動は、神との生きた関係、実質に重きを置いてきました。IGMの従来の在り方は、初代メソジストの例に倣って、この後者の預言者的運動としての理解に重きを置く傾向を有しているように理解しています(ついでに述べますと、旧約聖書のケースでは、王、あるいはレビ人さえも祝福を祈っており、祝福を祈ることは祭司たちに限定された特別な職務ではありません)。
  ウエスレーに言わせれば、最も大切な愛という観点からは、この問題は比較的小さな問題に入るかも知れません。そうであれば、これ以上論議を重ねることは避けたい思いがします。とにかく宗教改革時代のプロテスタントが、近代国家の誕生というその時代の大波に呑まれたという状況と共に、聖餐に関する事柄で合意が得られなかったために、諸派・諸地域教会に別れざるを得なかったことを、心に留めてこの問題を吟味することが必要と判断しますが、いかがでしょうか。
  メソジスト運動の創始者としてウエスレーを尊敬する人々の間では、事の判断に当たって「ウエスレー神学における4辺形」ということを、しばしば口にします。これは、物事の判断基準としてウエスレーが主張した「聖書、伝統、理性、体験」の4つを指します。ただし、「4辺形」と表現されているものの、ウエスレーはこの4つを平面的において考えていたのではありません。ウエスレーの考えの中では、4つの中で「聖書」は神の書としての独自な位置を占め、抜き出ています。その唯一無二の聖書を正しく解釈し、理解することにおいて必要となるのが、他の3つなのです。ウエスレーの概念では、4つのものは「4辺形」というより、「聖書」を頂点とする「3角錐」を形成するものと見るべきでしよう。「聖書が何と言っているか」がすべてのすべてであって、他の基準はそれを確定するに当たって助けとなるものに過ぎません。
  さて、そのうちの「伝統」を取り上げるとき、人はどのように偉大な人物であっても、人である限り「時代の子」であることを免れないという事実を心に留めておく必要があるでしょう。「伝統」とされる特定の教理・教義、また、教会におけるある考え方・実践は、その特定の時代の枠組みの中で、その時代時代のもたらす課題と真剣に取り組んだ結果、導き出されてきた教えであることを忘れてはなりません。伝統、また、伝統的な教義を吟味するとき、その時代がどのような時代であったかを知ることは、教えを正しく理解し、新しい時代にどのような意味を持っているかを判断するために必須のことといえます。その文化脈を理解するという作業なしに、伝統を伝統として鵜呑みすることはむしろ危険ことです。
  更に、伝統を自らの所属する教団・教派の神学的な立場に限定して考え、教会全体からすれば狭いと言える伝統の光において、聖書を解釈・理解しようとすることは、正しくローマ・カトリック教会が主張している伝統(Traditions)の用い方で、彼らは、このように伝統によって聖書を解釈・理解すべきであると主張しています。この立場を取るとき、伝統の権威を聖書の権威の上に置くことになり、これは正しく宗教改革においてプロテスタント主義が否定した態度・立場です。
  それでは聖書の解釈において伝統の助けを得るにはどのようにすべきでしょうか。この点に関しては以下のように理解できますでしょう。伝統を狭い一教派・教団、または、ひとつの神学的な流れのみで捉えず、キリストのからだである普遍的な教会全体の伝統として様々と異なった立場があるままでそれを捉え、ある特定の問題・見解(Issues)に関して、それぞれ相違ある見解を持つ様々な神学的潮流の異なった立場を、偏見を捨てて公平に、聖書の光において再吟味することから始まるのではないでしょうか。その作業において、特定の教派、神学的流れが取ってきた立場の時代性が問われることになりますが、その時代性をはぎ取った上で、どの立場が最も聖書に描かれている状況と近いかを検討しなければならないのではないでしょうか。

■  神学小論文−そのW:伝道職の権威:「どこから、あなたはその権威を得ましたか」

■  神学小論文−そのX:「キリストの使節としての務めに任じられて」

■  神学小論文−そのY:「教職と信徒」

■  神学小論文−そのZ:「私たちの教会―教会論:その制度面から」

■  神学小論文−その[:「再び、教会の権威を巡って」

■  神学小論文−その\:「監督政体の理解」

■  神学小論文−その]:「監督政体について」

.                                   聖書の写本:日本聖書協会・前総主事の佐藤氏の提供


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