Dr. Richard Taylor による Dr. Mildred Wynkoop 批判を考える

この問題へのコメントを求められて


2003/05/07

  R・S・テーラーは、「なぜホーリネス運動は死んだのか」の中で、同じナザレン教団に属し、神学者仲間、教え子(?)であるM・B・ワインクープを「ペラギウス主義者である」と非難し、ホーリネス運動の衰退の大きな原因のひとつは、ワインクープの著書「A Theology of Love」にあると断定している。この度、教学局よりこの点についてのコメントを求められ、「A Theology of Love」を改めて読み始めた。残念なことに、この原稿の執筆までに読み終えることができないでいる。そのような状況にあって、筆を取ることは憚られるが、原稿を提出しないままでは編集者に迷惑がかかるので、中間報告という形でこのコメントを書き綴る。断定的な結論ではないことを弁えた上で以下を読んでほしい。

     1.現在感じていることは、ワインクープとテーラーの間にすれ違いがありはしないかとの点である。ワインクープは人間を描写するとき、現実に生きている人間を取り上げ、テーラーは、神学的な人間を心に描いている。
       ・ 「現実的な人間」とは、キリストの贖いのみ業の恩沢を、限定的にではあるが、受けている現に生きている人間のことである。限定的というのは、まだ、救いの恩寵に与ってはいないからである。しかし、いのちを与えられた人間はすべてキリストの恩寵の影響下にある。この類の恩寵をウエスレアン神学では「先行的恩寵」=救いの体験に先立って、すべての人に与えられる恵み=と呼んでいる。ワインクープは、ウエスレーが「自由な意志」(Free Will)ではなく「無代価の恩寵」(Free Grace)を説いたと正しく捉えている。彼女が取り上げるのは、この恩寵の下にある人間なのである。
       ・ このような人間観に対して、テーラーは、神学的な人間像を心に描く。即ち、テーラーは、アダムの堕罪の結果として全的腐敗の下にある人間を取り上げている。全的腐敗の下にあって、キリストの贖いから流れ出た恩寵の感化・影響を少しも受けていない人間は、現実には存在しない。それ故、テーラーが取り上げ、論じているのは「神学的な人間」と言えるのである。
  このように、二人が取り上げ論じている人間像の相違がすれ違いを生じ、テーラーをしてワインクープ批判に向かわせたように思える。

     2.第二に、アダムとエバの最初の罪の行為によって、どのような変化が彼らに、そして、その末裔である人類に生じたかを考える時、ワインクープは、特に関係的な変化を強調する。ここで筆者の疑問は、関係的変化のみでその変化を説明し尽くすことができるかという点にあり、それだけの説明ではアダムの堕罪の結果を説明するには不十分であるように思える点にある。R・テーラーの論旨もこの点に関わることと理解される。
  筆者の理解では、堕罪以降の人類には、少なくとも以下のような三重の変化が生じたと整理することができるように思える。
   a 関係の変化:神が創造者であられ、人が被造物であるという聖書の教えが前提としてある限り、その関係の変化が基本的であることは、当然理解できる。そして、この関係の変化は「依存から反逆へ・愛の交流から断絶へ」の変化であった。この点が、ワインクープの強調点である。
   b 姿勢の変化:関係の変化と共に考えられるのは姿勢の変化で、これは「神中心から自己中心」として見られる。この1と2を考えるに、どちらが先か、すなわち、どちらが原因で、どちらが結果なのか、を決定するのは容易なことではない。関係の変化が姿勢の変化をもたらした、すなわち、神を見失った人は、神に代わる中心を求め、それを被造物に、また、自己に見出したと説明できる。しかし他方、姿勢の変化が先であって、その変化が関係の変化をももたらしたとも言えよう。アダムとエバが自己中心に振る舞ったので、その行動・姿勢が、神との断絶をもたらしたとも言えるのである。
   c 状態の変化:さて第三に、状態の変化を挙げなければならない。そして、この状態の変化は、明らかに、上記aとbの変化に伴う結果としての変化である。アダムとエバの状態は「いのちから死へ」とへ変化した。そして、また、創造主の似像として有していた「聖と義から罪の状態」へと変化したのである。ウエスレーは、神の像を正統的な神学に従って、神の自然的像、道徳的像、支配的像として理解し、それぞれについての堕罪の結果・影響を説明している。この第三の変化をsubstantive(実在的) に理解することをワインクープは批判している訳であるが、関係の変化以上の変化であることは間違いない。堕罪後の変化を関係の変化のみに限定し、「罪のない状態」から「罪ある状態・罪への傾きが現実的に存在する状態」への変化を無視・軽視するとき、確かに、聖潔の理解・教理に変化が生じることとなる。ワインクープが、この第三の変化をどのように扱っているかによって、テーラーの批判が正しいか、的外れかが判明するように考えている。
  ワインクープは「愛は自由にあってのみ存在し得る。、、、愛は人格と人格の間にどのような応答が存するかを表現するものである。、、、愛の対象、すなわち、己れがその中心とするところが神であるとき、それはホーリネスとして表現されるのである。」(p.25)と論じている。しかし、問題は、堕罪以後のアダムとその末裔にあっては、その愛が自由な選択をなし得る状態にはなく、先行的恩寵の下にあってもなお、彼らの心を支配している倒錯した愛は、創造主である神ではなく、神以外の被造物に、また、自己に絶えず傾く性質を帯びていることである。これこそが罪性・生まれつきの罪への傾きの現実的な問題であって、この問題を全的聖化という神のみ業によって解決する必要がある、というのがJ・ウエスレーの主張なのである。アダムにおいては、「a」と「b」が原因となって、「c」の状態が生じたのに対して、アダムの末裔である私たちの場合は、「c」が原因となって「a」と「b」の状態が生じているという視点が、ワインクープにあるであろうか。ないとすれば、矢張りR・テーラーのワインクープ批判は正しいことになるであろう。

     3.「A Theology of Love」の巻末にある語彙・題目リスト(Alphabetical Index)には、きよめ・聖化の問題をウエスレアンの立場に立って扱う書物の特徴である「Moral Depravity」(道徳的腐敗性)、また「Carnality、Carnal」(肉、肉的な)といった語がリストアップされていない。この事実は興味深いものに思える。ワインクープの思索の中では、こうした概念はあまり重要な位置を占めなかったのであろう。また、ワインクープはある箇所で、この語を"  "付で使用している。こうしたことを踏まえると、ワインクープのアプローチは、テーラーが指摘・批判しているように、なんとなく「ペラギウス主義」の匂いがしない訳でもない。
   いづれにしても「A Theology of Love」は未だ邦訳されておらず、日本におけるホーリネス運動の混乱・衰退が、この著作の影響・感化を大きく受けたゆえであるとは言えない。日本の教会状況は、アメリカのそれのレプリカ(複製)とも言われるので、アメリカにおいてこの著作が大きな影響を与えたとすれば、日本のホーリネス運動も間接的にその影響を受けているとは言えるかも知れない。
  ワインクープの論旨展開では、人類に共通して見られる倒錯した愛=創造主ではなく、被造物を、そして、自己を愛する愛=の原因が十分説明されていないように思える。神への愛を選択することがホーリネスであり、神以外のものへの愛を選択することが罪であるとされているが、罪人は、生まれながら創造主である神以外のものにその愛を選択し、そこにその愛を注いでいる。それゆえ人は罪人なのである。ここにウエスレアンの主張する「全ききよめ」の経験=肉性・生まれつき有している罪への傾きの解決=の必要性が存するとされるのである。
  カルビン神学が唱導する「予定」(Predestination)を痛烈に批判することにおいて、また、ウエスレーを理解するに当たって「愛」をその中心に据え直した点において「A Theology of Love」の貢献は大きい。しかし、その反面、現在までに読んだ範囲では、J・カルビンと共にJ・ウエスレーも説いた「全的腐敗性」の理解が、ワインクープにおいては浅薄であるとも言えないことはない。その解決のために、先行的恩寵だけではなく、救いの恩寵、更には、きよめの恩寵、特に、ウエスレアン神学の特徴である第二の転機としての「全ききよめ」の恩寵が必要であるとの主張を弱めるようなことになってはならない。
  読後感ではなく中間的なものであることを重ねてお詫びして、締切日が近づいているので、今回はこれでペンを置く。

■  神学小論文シリーズ:そのT
■  神学小論文シリーズ:そのU
■  神学小論文シリーズ:そのV

.                                   聖書の写本:日本聖書協会・前総主事の佐藤氏の提供


Copy right 2004 PZH
All rights reserved. 許可なく転載を禁じます。

■ トップ・ページにもどる