ローマ人への手紙6章19、22節に見る聖潔(ハギアスモス)

M・M師の質問に答えて


第一信への返答 : 2000/06/26

日基教団・S教会:M・M 先生:

  主の聖名をさんびします。Fax を拝見しました。以下、早いほうが良いと思い、あまり調べたりしないで、不充分と思いますが、心にあるままに回答を書き記しました。ご参考までにお読みください。

ローマ人への手紙6章19、22節における「聖潔」(ハギアスモス/Gr.)に関して

  「聖潔」と訳されているギリシャ語「ハギアスモス」は(他のギリシャ語、例えば「サルクス/Gr.」などと同様に)、ひとつに限定された意味で用いられているのではないことは、ご存知のことと思います。この語を含めて、多くのギリシャ語には、レキシコンが示すように、いくつかの用法があります。そこで釈義の実際においては、特定の聖書個所におけるその用法を確定する作業をする訳ですが、そのためにある語がどのような意味を持ち得るかを、先ず知らなければなりません。
  「ハギアゾ−」に関して言えば、レキシコンには「聖別する」(to set apart)と「純化する」(to purify)、即ち、祭儀的な用法と道徳的な用法の双方が記されています。その名詞形の「ハギアスモス」は、文脈によって当然「聖別」、または「聖化(純化)」を意味し得ます。更に詳細に吟味するならば、これらの用法を細分して以下のように整理できるようです。

A  ローマ人への手紙 6章19、22節の釈義に先立って:「ハギオス」、「ハギアゾー」、「ハギアスモス」の聖書における多様な用法に  関して(省略した形で)

  1. Tコリント7:14― 配偶者が信仰者となったもう一方の者、また、その夫婦の間に生まれた子どもに関して、彼らは「ハギオス」であると言われています。
     ・  祭儀的にとれば―信仰者である配偶者、そして、親の立場ゆえに、もう一方の伴侶者、そして、子どもは「神のもの」である。即ち、教会の交わりに受け入れられている、ことを意味すると考えられます。
     ・  道徳的にとれば―更に、信仰者である配偶者、そして、親の感化によって、ある程度、悪から守られている。更に、救いの経験に向けて恵みの影響の下にあると理解できます。ウエスレアン神学の用語では、先行的恩寵の感化のもとにあるとされます。
  勿論、すでに救われているとか、道徳的にきよいということを意味するものではありませんでしょう。

  2. Tコリント 1:2―コリントの信仰者たちは、みな「聖なるものとされた(きよめられた)」とされています。
     ・  これは、救いに与った者として「キリストのものである」とのことであり、義認(罪の赦し)に基づく彼らの神に受け入れられた立場に関わることと理解されています。
     ・  また、ウエスレアン神学では、義認と同時的な聖霊による新生のみ業を通して、キリスト者は御霊のいのちに与るようになっていて、上よりのいのちを持つゆえに、罪の行為(sins)に打ち勝つことができるようにされたと理解しています。
     ・即ち、この初時的聖化(聖化の始まり)と呼ばれる御業は、「悪しき習慣」からのきよめ・解放が意味されていると理解しています。過去の悪しき習慣を悔い改め、捨てない限り、真実な意味でキリストを信じているとは言えませんでしょう。

  3. Uテサロニケ 2:13、Tペテロ 1:2―これらの個所における「御霊による聖め(御霊の聖め)」は、包括的な「ハギアスモス」の用法で、キリスト者生涯全体が、聖霊によるきよめの過程であると理解できます。即ち、最初の義認に始まり、究極的な救い・栄化に至るまでのキリスト者生涯のすべてが御霊による「きよめ(聖化)」という概念で表現されています。キリスト者の生涯は、きよめ(「聖化」)の道程(プロセス)に他なりません。

  4. 以上の「きよめ」の理解に対しては、どのような神学的立場にたっている人物でも反対はせず、それを受け入れてくださるものと思います。
  さて、ウエスレアン神学の特徴は、以上の理解に加えて「全的きよめ(聖化)」と呼ばれる第二の転機的経験が、聖化のプロセスのある時点においてあることを主張するところにあります。その聖書的根拠として、Tテサロニケ 5:23、エペソ人への手紙5:25〜27などが挙げられています。
     ・  Tテサロニケ 5:23 ―「常に喜んでいなさい」など、23節の前後で用いられた現在形―習慣的、継続的行為を表す―を、この23節の「ハギアゾー」においては、不定過去形(アオリスト)に切り替えていることの意義は見逃せないと思います。アオリスト時称に様々な用法があるとしても、それが継続的なことを表すときには用いられないことは明瞭です。繰り返し得ない事柄かどうかは別として、ここで言及されている「徹底的なきよめ(全ききよめ)」はプロセスといえるものではありません。明らかに、ある決定的な神によるみ業です。
     ・  エペソ 5:25〜27 ― この個所における、水の洗いをもって教会を「きよめて」と「聖なるものとする」という二つのアオリストの関係は興味深いものです。前者「きよめて」はアオリスト分詞ですが、その場合「きよめて」は、その次の「聖なるものとする」に時間的に先立つものと理解されます(現在分詞なら同時的)。ASV、NASBなどの英訳では、その意味を汲んで「that He might sanctify her、 having cleansed her by the washing of water with the word、、、」と訳しています。ここに「全的聖化」が第二の転機とされるひとつの聖書的根拠があります。

  5. もう一箇所取り上げて、そこでの「ハギアスモス」の用法に目を留めてみます。へブル 12:14 ―新改訳聖書では「ハギアスモス」を「聖められること」、「聖いこと」(「聖くなければ」)とプロセスと状態の双方を意味するように訳して、翻訳の苦心の成果を示しています。
     ・  しかし、ここには「ハギアスモス」は一度しか使用されていません。二度目は「『それ』なくしては、、、」という関係代名詞です。
     ・  たしかに、ギリシャ語の「ハギアスモス」は、ある英訳では「Sanctification」、「Holiness」の双方に訳されており、その両方の概念を含むものと判断されます。
         「Sanctification(聖化、きよめ)」は、そのプロセス、または、転機に焦点を合わせ、
         「Holiness(聖潔、きよき)」は、そのプロセス、ないし、転機の結果として生じた聖い状態を強調しています。
     ・  このへブル人への手紙 12章では、継続的・常住的に「追い求め」るべきものとして、「すべての人との平和」と「ハギアスモス」が言及されています。「平和」がある状態ですから、「ハギアスモス」もこの個所では、ある状態、即ち「聖潔の状態・きよさ(Holiness)」であると判断して良いと思います。勿論、人には元来「聖さ」は備わっていませんから「聖められる」ことが前提になりますが、、、。しかし、大切なのは、どのようにして潔められるかではなく、その結果としてそこにある「聖さ」です。
         へブル12:110によると、神の聖さ(「ハギオテース」)は固有のもの、本来、神の性質としてそこにあるものですが、人の聖さは、その神の聖さに与ることによって見られる聖さ(「ハギアスモス」)です。ここに語られている聖さは、瞬時的経験として与えられるものではなく、人生の様々な経験、殊に、苦難の中で訓練されることにより私たちのものとなる聖さです(12:5〜11)。

B さて、ローマ人への手紙 6章に戻って、そこで用いられている「ハギアスモス」に関して:

  1. ローマ人への手紙 6章19、22節では、「ハギアスモス」が、<聖い状態>を意味するものとして用いられていると判断するときに、貴師の直面された疑問は解けるように存じます。
     ・  19節―「今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔(の状態)に進みなさい。」―「罪から解放されて神の奴隷とな」っていることが「聖潔の状態」でしょう。
     ・  22節―「しかし今は、、、、、聖潔(の状態)に至る実を得たのです。」―聖潔の状態にも、様々な段階があります。全的聖化の転機も終着点ではなく、その後の無限ともいえる成長の余地を残していると理解されています。
          22節では「永遠のいのち」が、通常理解されているような、信仰者の現在的な所有物としてではなく、「行き着くところ」として言及されていることも心に留めてください。「信じる者は永遠のいのちを持ちます(持っています)」(ヨハネ 6:47)に基ずく理解だけでは、混乱を招きますでしょう。「聖潔」の理解も同様で、既成概念をもってある特定の聖書個所の解釈に臨みますと、矛盾といえることに直面します。
  「どのようにして」この聖潔の状態に至るのかに関しては、この文脈では「あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげ」る(13節)ことが強調されています。いわゆる全的献身です。
  2. このローマ人への手紙6章の思想的な流れは、2回の「絶対にそんなことはありません」(2、15節)という強い否定によって作り出されています。恵みの下にあるキリスト者が、更に多くの恵みを経験するために「罪の中にとどまる」ということ、また「罪を犯そう」と考えることは自己撞着・矛盾である、というのがパウロの論旨ではないでしょうか。そうでない、また、そうしないでよい道があるのです。
  ですから、
  3. 「全き聖化」が意味するところは、貴師が質問の中で書いておられるように「罪からの解放」と理解されます。
     ・  しかし、上述のように、聖書の「聖潔」(ハギアスモス)という語がいつも「全き聖化」を意味しているとは限りませんし、
     ・  また「罪からの解放」というときにも、以下に記すように、信仰者の経験においては、いくつかの段階があると理解されるべきでしょう。
   @ 「罪の咎め」(Guilt)からの解放は、回心の時、即ち、罪が赦されて義と認められた時
   A 「罪の習慣」(Sinful habits) からの解放は、同じく回心の時ですが、それは初時的聖化と結びつけて理解されていますし
   B 「罪の性質」(Sinful Nature)、「罪」(Sin)、「肉」(Carnal nature)からの解放は、(ウエスレアン神学では)全的きよめの転機においてとされ
   C 個人的な「罪の傷跡」(Scars of sinful acts & reactions)からの解放は、私は全ききよめの転機後にある漸進的聖化のプロセスにおいて、と整理しています。
   D 更に、人類的な「罪の影響」(Effects of the Fall)、即ち、人間性に纏わる「弱さ」(General Depravities、Infirmities)からの解放は、からだの甦り、この朽つべき体が栄光のからだに化せられる(栄化の)時、
    などです。
  4. このローマ人への手紙の文脈では「罪から解放されて」(7節)の「罪」が単数ですので、明らかに「全的聖化」の転機における罪(罪性)からの解放が語られていると解釈できるように思います。全的献身と信仰による全き聖化の経験―「古い人がキリストともに十字架につけられ、罪のからだが滅び」る(6節)経験、即ち、キリストとともに「死んでしまった」(7節)経験が―全き「聖潔(の状態)」へと私たちを進ませ、導き入れるのです。それは「いのちにあって」なされる「新しい歩み」(4節)を意味します。
  5. キリストにつくバプテスマは、正にそのことを指さしていた(3、4節)とパウロは論じています。新生は、聖化の始まりであり、また全き聖化の転機的経験とそれに次ぐ漸次的聖化の継続的な歩みがあって、初めてその意味を持つようになるという関係にあります。Uコリント 6:14〜7:1参照のこと。

以  上

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第二信への返答 : 2000/07/03

日基教団・S教会:M・M先生:

  ファックス第2便を拝見しました。用語の整理をして頂くことによって誤解や不必要な説明が必要なくなるようにに思いましたので、以下、いくつかの点を整理して先ず記します。

A 用語、その他の整理:

  1. 第2回の質問(上から8行目):「『全き聖化』は、『転機』の体験と『結果』の状態とに区別されるということなのでしょうか? 体験は得ているが、状態は未だということでしょうか、、、、?」に関して。

   a  メソジスト神学において「『全き』聖化」という表現を用いる時、それは広い意味での「聖化」の全過程の中での、第2の転機としての経験を指します。即ち、心が、罪性(Sinful Nature)・肉(の性質、Carnality, Carnal Nature)、原罪(Original Sin)、道徳的腐敗性(Moral Depravity)など、様々に表現されている罪(「Sin」と単数で表された性質としての罪、ローマ人への手紙6章では人格化されている罪)から潔められる経験です。
   b  一般に広義で用いられている「聖化」が、狭義の「全き聖化」の意味で用いられることは、ウエスレー自身の説教などにも見られます。しかし、「全き聖化」という表現が用いられたときには、転機的な経験を指し、その後の歩みやプロセスを意味することはありません。
   c  その後の歩みやプロセスは、単に「聖化」と表現して区別しています。一層、明確にするためには、「漸進的聖化」と「漸進的」と言う語を付して言い表します。
   d  『転機』の体験、また『結果』としての状態、と双方のどちらとも理解できる語は、ギリシャ語の「ハギアスモス」という語です。この語は前便で述べましたように、その文脈によって、いくつかの用法があり、その個所ごとの厳密な釈義が求められます。

  2. (上から12行目)「しかし、時点的な体験である『全き聖化』に『段階』などという連続的なものがあるのでしょうか?」に関して。
   a  上記のポイントで、既に解答しましたように、「全き聖化」という表現は「時点的」、「転機的」(のほうが判りやすいように思います)経験を表すときに「のみ」用います。
   b  それに対して「聖化」という表現は、連続・不連続(時点)の両方を含むもの、即ち「段階的」と理解されています。

  3. ウエスレアン神学における「聖化」の理解を示す図(別紙)を、ご参考にしてください。

B ローマ人への手紙6章19,22節に関して。(上から15行目以下)『すでに「全き聖化」の「転機」は体験しているが、その「結果」であるところのきよい状態には至っていない、、、、ということになるのでしょうか?』に関して

  1. 結論を先に記しますと、そのようなことはありませんし、そのようなことを言うつもりもありません。全き聖化の「転機」的体験が確かであれば、その体験を通過した人物は、その「結果」としての聖い状態に達していると考えています。
  2. 19、22節について:「、、、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。」、「しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。」について。
   a  「以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて」いました(19節)。
   b  その結果、「不法に進」んだのです(19節)。
   c  しかし、「今は、その手足を義の奴隷としてささげて、」(19節)
   d  「聖潔に進みなさい。」と勧められています。
   この勧告に信仰をもって従った者は、
   e  「自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげ」なくなり、結果として「罪から解放されて神の奴隷となり」ます。(22節)
   f  それは取りもなおさず、「聖潔に進」んだということです。また「聖潔に至る実を得た」とも言えます。
  ・ここに「聖潔」は、無限に拡大する可能性のある聖い状態です。
  ・それ故、終着点ではなく、22節において明瞭にされているように、この「聖潔」は、拡大・成長の結果としての更に成熟した聖い状態を目指し、そこに至るものでなければならないのです。
  3. さて、この「a〜f」の段階で、どの個所がいわゆる「全き聖化」の転機に相当するのでしょうか。
   a  私個人としては、貴師と同じく上記の「e」、「罪から解放され」た時、それは、また、「神の奴隷とな」った時、こそが「全き聖化の転機」を経験した時と判断しています。更に厳密に言うならば、それは「古い人がキリストとともに十字架につけられ、」「罪のからだが滅」んだ時(6節)と言えましょう。同じ節の「もはや罪の奴隷でなくなるためである、、、、」を参照してください。7節には、明らかに「死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」とあります。この「罪に対して死んだ」時こそが、全き聖化の転機の時点であると判断されます。
   b  「f」は、全き聖化の転機後の「聖き状態」における成長、「聖め」の実践に関わることと考えています。Uコリント7:2、「いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。」―この「聖きを全う」(成就・実践)することが、第2の転機後の「漸進的聖化」と言われるプロセスではないでしょうか。
  4. (質問32行目)「、、、過去〜現在のこととして言われている『罪からの解放』と将来的に言われている「聖潔=全き聖化」とが同一であるということは、どうしても理解できません。」に関して
   a  「罪から解放され」―アオリストですが、過去のこととは限りません。ローマのクリスチャンにとっては、体験的には将来のことと理解すべきでしょう。ローマ12章1節。不定過去形の意味は「継続的ではない、開始、或いは、完結のある一瞬」との意味、ないし、「開始の時点があり、また、完結したものとして、その全容を一括して」表現しての意味です。いずれにしても「全き聖化」の転機に関わります。
   b  「聖潔」−「罪から解放され神の奴隷とな」った時に「現在的経験」となる聖き状態で、これは更なる展開・発展の可能性を秘めてもいます。それで「将来的」(「、、、に至る実」という表現が意味するところ)でもあると理解しています。即ち、信仰者にとって「生涯的」なので「将来的」とも言える部分があるということです。Tペテロ1:2

  以 上

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第3信への返答 : 2000/07/11

日基教団・S教会・M・M先生:

  ご丁重なお礼のお便り、また、そこにあるもうひとつの疑問に関するご質問を拝見しました。以下に簡潔にお答えします。いくつかの点を書いて、その後一週間ほど、会議のため渡米していました。お返事が遅くなって申し訳ありません。

A 信仰者にとって罪に対して死ぬ「時」の問題:

  キリストに結ばれた者が、罪に対して死に、罪から解放されて神の奴隷となる経験、即ち、メソジスト神学(ウエスレアン神学とも言われますが、、、)で「全き聖潔」と称されている第2の転機的経験に関して

  1. 神のみこころにおける、私たちの死の「時」
   a  「時」という制約のもとにあるのは、果かない存在である人間のみで、永遠に居ます神にとっては、あらゆる出来事は、常に「今」です。2000年前の十字架の出来事も、過去の出来事と考えるのは人であって、神にとっては、それは永遠の現在における出来事です。そこに、2000年という歳月を隔てた私たちがそれを受け入れる時、その恩沢に与ることができるひとつの理由があります。過去の出来事でも、神の御前には決して古びないからです。
   b  私たちの罪に対する死も、神のみ前では、神の小羊であるキリストが、神のみこころの中で、人の歴史に先立って永遠(の昔)にほうむられた時に「既に起こった」出来事です。黙示禄 13:8別訳(新改訳聖書欄外註「世の初めからほふられた、、、」参照。
  2. キリストの備えにおける、私たちの死の「時」
   a  確かに、パウロが論じているように、私たちの罪に対する死は、キリストがあの十字架で死を味わわれた時です。その意味で、死は過去のこととされています。
   b  しかし、それはキリストにおける「備えとして」理解しなければならないでしょう。一個の人としての私の存在が開始していない時の出来事ですから、、、、、。
  3. 私たちの信仰者としての立場としての、私たちの死の「時」
   a  それは、パウロがこれも論じているように、私たちの洗礼の時です。この礼典に与ることによって、私たち信じる者は、キリストの死に結ばれ、その死に与ったのです。
   b  しかし、それは私たちキリストにあるとされた者たちの「立場」に関わることで、まだ個々の体験とはなっていません。
   c  それを体験とし、そこに生きるように薦めているのが、このローマ人への手紙6章の論旨です。その意味で「体験としての」罪に対しての死は、ローマ人クリスチャンにとっては、将来的と言えます。
  4. 私たちキリスト者の体験としての、私たちの死の「時」
   a  十字架上でのキリストの死が、私自身の罪に対しての死てに他ならなかったと悟り、自分のすべてを神に捧げ、その奴隷となる時、聖霊の働きによって、その献身と信仰に基づいて、そのキリスト者の立場としての罪に対する死は、その体験的事実となります。
   b  これが「全き聖潔」の転機において心中に生じることと考えられます。罪に対して死に、罪から解放されて神のしもべになったのです。
  5. 私たちキリスト者の実際生活における、私たちの死
   a  上記の転機を通過し、経験した者は、「活きた供え物」として自分を神に捧げることが期待され、薦められています。即ち、日常生活においてそのからだの肢々を捧げて生きることを期待されているのです。
   b  これは全き聖潔の転機後の歩み、漸進的聖化のプロセスに関わることです。

B ローマ人への手紙 6章:

  1. この章の勧告は、上記説明の No. 3(立場)から、No.4(体験)に移行する問題に関わることで、信仰者としての「立場」をいかにして「体験化」するとの問題が論じられています。
  2. それ故、貴師が指摘されるように、「立場として」死の時は、キリストに結びついた時、更に言えば、キリストの十字架の時ですから、過去となります。しかし、その事実に基づいてこれから生きることが薦められ、求められているのですから、ローマのクリスチャンにとっては、それは体験的には将来的となります。ローマ 6:11。
  3. また、現代のクリスチャンにとっても同様、キリストにあって(立場)の過去のことも、それぞれの個人的体験という点では将来的です。立場と体験を混同することは避けなければならないでしょう。
  ジョン・ウエスレーが、あのアルダースゲートでの経験に導かれるに際して、大きな感化を蒙ったモラビアンの人々と後に袂を別つようになったのは、正にこの点におけるモラビアンの誤謬に気づいたからでした。モラビアンの人々は、全き聖潔の時を回心と同時(回心同時説)と主張しましたが、この誤りは立場と体験を混同したからに他なりません。キリストにあって起こったことは、全き献身と信仰というステップを踏む時のみ、その信仰者の体験となり、更に日常生活における実践となるのではないでしょうか。

以 上

  イムマヌエル聖宣神学院
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  2000/07/24

■  神学小論文シリーズ:そのT
■  神学小論文シリーズ:そのU
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.                                   聖書の写本:日本聖書協会・前総主事の佐藤氏の提供


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