「ウエスレー神学における罪と弱さ」を読んで

1999/06/29 執筆


  ウエスレアンの立場に立つ者たちの、それが罪ではないことをもって「弱さ」に対して示している甘い考え・真剣に取り組んでいるとは言えない姿勢に対して、執筆者が過ちを指摘し、警戒を呼び掛けている意図は、痛いほど良く理解できる。ウエスレアン神学に立つ者たちは傾聴しなければならないであろう。
  しかし、一読、二読してその論旨の展開に幾つかの疑問点を感じたので、その点を指摘したい。

     1. 執筆者は、第三の要点でニュートン・フリューのウエスレー批判が当を得ていないことを論証しようとしてはいるものの、その第一の要点・「フリューのウエスレー批判」紹介にあたって、フリューの立場と執筆者自身の立場を分けることにおいて不明瞭・不充分であり、読者には、執筆者がフリューの立場を基本的には受け入れているように思える。

     2. 即ち、非意図的・無意識的・無自覚的な「過ち」(執筆者は、フリューに従い、これも「罪」としている。)に「よって人を傷つければ、罪となる。」(p.2-第三文節)と断言する。また、第三の要点でも「そして、どんなに警戒していても依然として、私たちの知らないところで、それ(弱さに起因する過誤)が罪に転じていることを自戒し、、、」と述べている(p.6-最後の文節)。

     3. しかし、そうであろうか。「過ち」によって無意識的に「人を傷つけ」た時、それが即、「罪となる」とすれば、私たちは、ウエストミンスター信仰告白に述べられているように、人は常に(思いにおいて、)言葉において、そして、行為において、罪を犯さざるを得ない。これは、正しくウエスレアンの立場の真っ向からの否定以外の何物でもあり得ない。「罪」とは本来、対神的な概念であって、「人を傷つける」か否かは、罪の定義における第一義的な点ではない。ウエスレーは「過誤」も、結果的には「人を傷つけ」、また、「神の完全から見れば欠陥」でもあるので、キリストの贖いの血潮を必要とすることを認めたが、なお、罪と弱さのの二者を区別したのである。

     4. そして、その区別の鍵は、それが「意図的、意識的、自覚的」になされたか否かによるとした。ウエスレアン神学によれば、過誤が「私たちの知らないところで、罪に転じ」ることはない。「過誤」は、光に曝されそれに気づき、なおそれを「過ち」と認めず、固執した時点で初めて「罪」となる。即ち、その人の罪責が問われるのである(レビ記4章23、28、5章3、4)。

  「罪」の定義から「意図的・意識的・自覚的」という堤防に少しでもひびを入らせたなら、その途端に「罪」の洪水は、私たちの生活のあらゆる局面に浸透してくる。最早、神によって生まれた者たち、神の子といえども「罪を犯しません。」(第一ヨハネ3:9―新改訳聖書の訳は、欄外註のほうが原語に正確である。)とは言えなくなる。
  これは明らかに聖書の明言と矛盾する。ウエスレーによれば、信仰における赤子でも「罪を犯さないということにおいて完全」なのである。過誤に陥っても、罪を犯さない恵みの世界があるのである。人は非倫理的な弱さのゆえに、過誤に陥らざるを得ないが、罪を犯す必要はない。また、神を愛している限りは、罪を犯さない。否、使徒ヨハネによれば、能力的にではなく、心情的に神のみ前に「罪を犯すことができない」のである。
  無意識的に「人を傷つければ、それが罪となる。」、「自分で知らないうちに、過ちが、罪に転じる。」との言明を受け入れることは、第一ヨハネ他にみる聖書の教えの否定に結果することである。

     5. 「意図的・意識的・自覚的な罪と、非意図的・無意識的・無自覚的な罪(?)を、明確に区別することはできない。」というとき、フリューは、経験の世界と神学の分野を区別しそこなっている。生活の分野では、この論文が指摘しているように、「罪」と「過ち」を十分に判別するのに大きな困難が存在することを認める。双方とも、神の完全からの欠けであり、神の栄光を汚し、また、人を傷つけることにおいて同列だからである。
  しかし、真理を整理して提示する神学の世界においては、その整理を体験を重んじはするが、それに依存しないで、神のことばの啓示に基づいてそれを行う。三位一体の教理も、理論的・経験的には困難がいつまでも付き纏う。しかし、我々がその教理を受け入れるのは、困難がないからではなく、神の啓示を体系化するとき、そう表現せざるを得ない真理がそこに見出されるからに他ならない。また体験の分野で、「意図的・非意図的」の二者の区別が困難なのは、人の心が偽るものであって、しばしば人は自分自身の真の動機や、願望を見過つことがある。人は、みことばによって研ぎ澄まされた良心、みことばに従った注意深い歩み、更にその上に、光をもたらし、また、心と生涯を潔める聖霊の恵みを必要としている。

     6. 精神科医のスコット・ペック「人生において何が自分の責任で、何がそうではないかを見分けるために、カウンセリングが大変重要なものであるという論を展開している。」とある(p.3―第6文節)。「過剰な責任意識、また、責任意識の欠如」の問題は、その本人の意識・自覚に関わっている。それゆえ、その自覚を促すカウンセリングの働きが重要とされるのである。意識が目覚めていない時、自覚が生まれてこない間は、その人物の責任意識は、問題を持ったものの域を脱し得ない。カウンセリングを通して、自覚に変化が生じる時、その人の態度にも初めて変化を期待しうる。ここにおいても、意識・自覚が果たす役割は大きい。
  フリューはパリサイ主義の悪の本質を「無意識の偽善」としているとされるが(p.1−第三文節)、このパリサイ人の問題点は、「自分を義人だと自任し、他の人を見下している」(ルカ18:9)ことにあり、その罪は「無意識の偽善」というよりも、意識的・自覚的な自己義」である。あのエデンにおけるアダムの罪は、無意識的ものではなく、明らかに神のみことばへの意識的な不服従にあった。それが、無意識的であったなら、人類の堕罪という重大な結果引がき起こされることはなかったであろう。意識のあるところに「のみ」、責任が問われるのである。「罪」を定義する時、人類歴史において、初めて罪が認められた原点に立ち戻って定義されるのが、最も妥当なことであろう。

     7. 「罪」と「弱さ」、「過誤」を峻別することをしても、この論文が指摘するように、「弱さ」、「過誤」のゆえに、神の期待に十分に添えず、みこころを痛め、神の栄光を汚し、また、人を無意識的・非意図的であっても傷つけているのであれば、我々は常にキリストの憐れみを乞い、その贖いにより頼む必要がある。それ故、主の祈りを祈る。こうして論評を記し、批判的意見を述べること自体、論文の執筆者の心を痛める行為であるかもしれないことを心苦しく思う。しかし、お互いの理解を一層深めるためにはやむを得ないことであろう。キリストの血潮を仰ぎつつ、また、論文の執筆者の赦しを乞いつつ、あえて、この論評・批判を書き記すものである。この論文のみではなく、すべての論文に関して気づいた諸点を書き記したい(読む側の不理解も重々あることを意識しながら、これから読まれる読者を考えて、、、、)。

     8 М・F師の結論としては、ウエスレーの罪と弱さの区別を妥当としているものの、区分するのに、意図的・無意識的との判断基準が妥当であるとの論証が不充分であると考える。ウエスレーが、<弱さ>を只、認識し、警戒し、真剣にそれと取り組んでいたとのことを述べるのみでは、未整理の感が残る。

■  神学小論文−T 「聖化論」

■  神学小論文−そのW:伝道職の権威:「どこから、あなたはその権威を得ましたか」

■  神学小論文−そのX:「キリストの使節としての務めに任じられて」

■  神学小論文−そのY:「教職と信徒」

■  神学小論文−そのZ:「私たちの教会―教会論:その制度面から」

■  神学小論文−その[:「再び、教会の権威を巡って」

■  神学小論文−その\:「監督政体の理解」

■  神学小論文−その]:「監督政体について」

.                                   聖書の写本:日本聖書協会・前総主事の佐藤氏の提供


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