安岡正篤の言葉 鳥取木鶏会10月例会 徳永圀典選

敏とは

 敏という一字をよく注意しましょう。何事によらず問題をいい加減にしない。キビキビ処理することであります。わからぬ文字がある。すぐ辞書を引く。人に聞く。途中で本屋に飛び込む。間抜けない。頭をフルに働かせ、これが敏であります。感情を美しくし、理想・情熱に燃えるようであれば頭は使えば使うほどよくなります。そういう風に我々の心がけで頭脳を働かせることを「事に敏」と申します。そして、物事に真剣に頭を働かせますと、だんだん本当のことがわかります。              朝の論語

独 

 独という文字は絶対を意味する。何ら他に()たざることを独という。自分が徹底して自分に依って生きる、これを独という。人間と言うものは案外自己によらずして他物によって生きておる。たいていの人間は金を頼りにして生きておる。妻子を頼りにして生きておる、世間の聞こえを苦にして生きておる。そこで地位をなくした、首になったと言うともうペチャンコになる、神経衰弱になる。とにかく何かそういう他によって生きておる。これを相対的生活という。             

陽明学十講

 老いは錬れる、思索、完成

 我々は、老いる、ということが必至の問題であるにもかかわらず、とかく老を嫌う。老を嫌う間は人間もまだ未熟だ。歳とともに思想・学問が進み、老いることに深い意義と喜びと誇りを持つようになるのが本当だ。

それにき先ず学ぶことだ。学問は年をとるほどよい。百歳になっての学問は、実に深い味があろうと思う。老いてボケるというのは学問しないからにすぎない。年と共に多くの人生の苦難を経ていよいよ溌剌としてこそ真に老の値打ちがある。     照心語録

 

人間修養次第

 大塩中斎先生の如く純誠で真剣に努力を捧げた人は類を見ない。役人としても国宝的な人であります。中斎先生の学問、業績を仔細に点検してみると、人間はやっぱり学問、修養によって、その人本来をいかに変化し、いかに立派なものに仕立て上げることができるか、いや、出来るものだということをしみじみ考えざるを得ない。人間は努力さえすればなんとかなるどころではない、必ず大したものになる。努力が足りぬからうだうだ死に終わってしまう。大事なことは学問・修養であります。       人間学のすすめ

 

人間を作る

 人間というものは、どういう心がけならどういう結果になり、とういう原因を作ればどういう悪果・美果が生ずるのか?禍福(かふく)終始(しゅうし)と言うことは、少し勉強すればよくわかる。これが学問だというのです。禍に惑うたり、幸せに有頂天になったというようなことをしない。禍福終始を知って惑わぬ。即ち人生というものを確立する。これが学問の本義だ。だから、どうしても学問をしなければ自分もわからぬ、人もわからぬ、人生は、なおわからぬ。学問することは単なる「知識を獲得すること」だと思っては大間違いだ。「人間を作る」ということである。    知命と立命

 

自分

 「自分」というのは大変好い言葉であります。あるものが独自に存在すると同時に、また全体の部分として存在する。その円満(えんまん)無碍(むげ)な一致を表現して自と分とを合わせて「自分」という。我々は自分を知り、自分を尽くせばよいのであります。しかるにそれを知らずして、自分自分と言いながら、実は自己、私をほしいままにしておる。そこにあらゆる矛盾や罪悪が生じる。自分がどういう素質能力を天から与えられておるかわかりません。いくつになつても自分の天命を信じ、自分を尽くしていかねばなりません。 活眼活学

いつもこれから

 イギリスのニューマンという人が常に「人は終わりに近づくことを憂うるなかれ、今だかって始らしい始めを持たざりしことを反省せよ」と力説しておりますが、年をとってみると、なおしみじみと分かる。人間はやはり、終わりに近づいたことを考えたり、憂えたりするよりも、「俺は一体、今まで何をしたか、ようし!  これから始めるのだ」という覚悟を持たなければいけません。

従って今年の成績が悪かったことなど、いまさら悔やむ必要はない。悪かったら悪かったで来年に光明を抱いて、勇敢にやってゆかねばいけない。

                            干支の活学