深遠な理法

()があるから敵があり、我がなければ敵はありません。 

敵とは元来対峙の名であります。陰陽水火のようなものです。およそ形のあるものは必ず相対するものがありますから、我が心に形がなければ対立するものはありません。 

心と形と共に忘れる

従って、争うものがないから敵もなく我もないと言ってよろしいでしょう。

心と形と共に忘れて、静かで無事の時は和して(ひとつ)であります。

敵の形をやぶると言っても我も知らず、知らぬのではなく、そのようなことを考えもせず、思いのままに動くだけです。

又、この心が澄み切って静かで且つ無事であれば、この世界は我が世界となって、良いの、悪いの、好むだの(にく)むだの、執着だの停滞だのがない造化そのものであります。 

みな自分の心から苦とか楽とか、得とか損とかの境界をつくるものです。

天地は広大であると言っても、結局は心の外に求むべきものはありません。 

心だけは

眼の中にわずかな塵や砂がはいっても、目をあけることができない。

もともとそういう塵や砂がないとはっきり見えるのに邪魔物が入るためにそうなるのである。 

これは心のたとえを言うたものであります。

また千万人という敵の中にあってこの身が微塵になろうとも、心だけは自分のものである。 

如何に大敵でも志だけはどうすることもできません。

だから孔子も「匹夫も其の志を奪うべからず」と言っております。 

然し、迷う時は却ってその心が敵の助けとなりましょう。

私の申しあげるのはこれだけです。あとは反省して自分に求めて下さい」。 

自得しかない

これは孔子が最も力説している点であって、結局自分が自分に反る外に途はありません。

師はそのことを伝え、その道理をさとすだけですから、その真実を得るのは自分であります。 

これを自得と言い、以心伝心と言い、教外(きょうげ)別伝(べつでん)と言うのであります。

自得とは自分が自分を掴むこと

教外別伝とは、教えの外に別に伝わるとか、教えに背くというのではなく、師も言葉や形で伝えることが出来ないことを言うのです。 

ただ禅の道だけではありません。聖人の説く心法から芸術の末にいたるまで、自得とは皆心をもって心に伝えるものであって、教外(きょうげ)別伝(べつでん)であります。

教えというものは自分にありながら、自分で見ることのできないものを指して知らしめるだけであって、師がこれを授けるものではありません。 

教えることも、聞くこともいとやすいことですが、ただ自分にあるものを確りと見つけて自分のものにすることが難しい。これを仏教では見性(けんしょう)と言います。 

悟とは妄想の夢からさめることで覚と同じであります。

                     安岡正篤先生の言葉