傘寿を越え84年坂を越えつつ今、思う 

  生涯反省  臨終定年

徳永圀典

良き人生は、

日々の丹精にある
     (しん)()()」の行いに責任を持つ。いい人生は自業自得。

(わざ)とは行為のこと 善業と悪業 

身業   (身のこなし) 

口業   (ものの言い方) 

意業   (心のはたらき) 

「身業」     身のこなし、自分の身体を、身軽に、仕事や他のために、こまめに動かす。骨惜しみしない。陰日向のない、誠実な生き方。他に親切にするのが「身業」

「口業」  ものの言い方、最も多くの結果を遺すのが口業。 
軽薄な言葉・偽りの言葉==悪業(あくごう)
誠にして実のある言葉====善業(ぜんぎょう) 

口から出る言葉は「招き猫」の働き、言葉は、幸運も不運も引き寄せる招き猫。いい人生は、幸せをよぶ招き猫。

言葉を大切に。

白隠禅師      つつしみを おのが心の根とすれば
          ことばの花はみごと咲くなり

凡てはこれであろうか。

「あすは運動」を        ===ありがとう。
===すみません
===はい 

「ありがとう」(有ること(かた)し)今、ここに、こうして、

生きているのは有ることの難いこと。法句経にある

(やがて死する者の、今、いのちあるは(かた)し)生命の厳

粛「有り難いこと」と受けとめる 

「すみません

多くの数え切れない恩恵を受けている、お返しが出来ていない心の痛みが「すみません」の言葉。心の「敬虔」をすみませんで挨拶する。

「はい」     大声ではいっ。心が一つに集約される。散乱していた自分に出会えたのだ 

三K               希望・工夫・感謝
今日を、もっと、工夫して生きる!
人間の計らいを超えた大きいいのちのはたらきがある。

「心田を耕す」          心を智慧の鋤で耕す。よく耕した田に「信」の種を蒔く。雑草が生えると、身、口、(こころ)に悪い働き。その除草が必要。心が堅くならぬように果てしなく心の耕作精進をして、自分の心田を休耕田にしない。 

人間の心に思いを及ぼす 人間の心に思いを及ぼせ
(しち)(じき)()柔軟(にゅうなん)」==誠実で柔軟であること
「質直」は、性質が実直で偽りがない。
「柔軟」は、心のやわらか。
放っておくと「心」が堅くなる。自分の手で一心にもみほぐす、田を耕すのと同じ。 

釈尊の「(こう)(でん)(きょう)」より    (しん)(たね)なり、智慧は(くびき)につなぎし(すき)なり(じょう)はその縄なり身において守り (ことば)においてまもり食するにはよく量を知り清浄(しょうじょう)をもって草刈りとなし道に楽しみ(じゅう)するは わが休息なり精進は重荷を負いてゆく牛にして われらを瑜伽(ゆが)安穏(あんのん)の境地にはこぶわれら、()いて帰ることなしかくのごときわが(うん)(こう)なり不死はその果実なりわれら、かくのごとき(うん)(こう)をなしてすべての苦悩より(まぬが)れたり

(くびき)は人間の我がままを抑える比喩

心の田を耕す(すき)は智慧。(すき)は牛馬にひかせる強い(すき)で頑なに凝り固まった人の心をよくほぐす智慧の働きを示唆する。
定はその縄なり、牛の手綱で、自分の心を正定(しょうじょう)(身心ともに安定させる修行・座禅)に導くことの暗示。
身において守り、食するによく量を知り、は「持戒(じかい)」(戒を持つこと)の勧め。どのような仕事でも起居動作が乱雑にならぬこと、修行と生活の場も別ではないとの教え。
瑜伽(ゆが)安穏(あんのん)、ゆがはヨーガで悟りの安らかな境地。
「有難う」を心田を耕す「犂」、「すみません」を心田を耕す「鋤」に、そして「はい」を自分の心田に生える草を刈ったり収穫物を刈り取る「鎌」と心得て余生を励む。

一夜(いちや)賢者(けんじゃ)

過ぎ去れるを追うことなかれ いまだ(きた)らざるを(おも)うことなかれ過去、それはすでに捨てられたり未来、それはいまだ到らざるなり。
されば、ただ現在するところのものをそのところにおいてよく観察すべし揺らぐことなく 動ずることなくそを見きわめ そを実践すべし。
ただ今日(こんにち)まさに()すべきことを熱心になせたれか明日死のあることを知らんやまことに、かの死の大軍と()わずというはあることなし。
よくかくのごとく見きわめたるものは心をこめ、昼夜おこたることなく実践せんかくのごときを 一夜賢者といいまた、心しずまれる者とはいうなり。
賢者は菩薩、如来と同義語、一日菩薩、一日如来

一日の生き方  

新約聖書「明日のことを思い煩うな」。
過ぎし日のことは悔いず、また来ぬ未来には憧れず、ただ現在を大切に踏みしめて行けば、心も健やかになる、
「一日の生き方」、
「ただ今日のまさに作すべきことを熱心になせ」

只今の心     「一大事とは、今日只今の心なり」「一」はそれしかない、絶対一の意味。一つしかないのを「只」と言う。只は、「それのみ・代わりがない」の意味。
挨拶の只今は「今のみ、今しかない」。 
今日一日の二十四時間も今しかない只今の心のありようで、プラスにもマイナスにもなる。仏にもなれば悪魔にもなる。 

謙遜               謙遜してへり下ると、徳は自分のほうに積もります。少しでも思い上がると、徳は向こうへ逃げて行きます。 足るを知り、めだたぬように、さりげなく善行を積むことが「幸せ」になる基です

愚になれぬ自分          愚とは神仏の教えや真理に、自分のエゴを出さずに素直に従う生き方だ自分の未熟さ、足りない点を多々感じ、生きて行くことであろう。 お陰さまで人生を落伍せずに、社会的な過ちも少なく、こうして余生を送ることが出来ていると口では言えないが諸々に感謝している。

明日とは明るい日     この秋は雨か嵐か知らねども
   今日のつとめに田草とるなり  二宮尊徳

物の道理を知る「五つの眼」 

それは「肉眼(にくげん)」、「天眼(てんげん)」、「慧眼(えげん)」、「(ほう)(げん)」、「(ぶつ)(げん)

眼の働きは、「見る」だけではない、知る、考えるの働きがある。如来には五つの眼、五眼(ごげん)があると金剛般若経、大無量寿経に説かれている。
如来とは、ものの真理を悟った人のこと。
顔の眼以外に広く心の眼があることを学ぶ。

肉眼               肉眼(にくげん)」 肉眼以上に見る。
顔の眼、色や形は見分けられる自分の顔は見られない。    
 初秋や見入る鏡に親の顔

天眼               天眼(てんげん)」 いかなる時、ベストで正直と真実を。
時間的な現在・過去・未来の三世のあらゆる方向の見える眼。
天には見る目、聴く耳がありちゃんと知ってくださる。敬虔の心で南原繁の家出する母親の背に背負われた幼児の母親言葉。

慧眼               ()(げん)」  お陰さまを心奥から知ること。智慧の眼、体験で、事物の現象が存在する原理を知ること。一切の存在は他と無関係に非ず、相対した複雑な縁起を身体で納得するのが智慧。縁起が分かるとお陰さまの道理が分かる

法眼               (ほう)(げん)」 人に知られようが知られまいが、ただ一筋に生きる!
一切の事象、現象が眼に見えない真理を姿や形で暗に示し教える。    これらの事実が見え、分かるのが法眼、宇宙真理と自分の在り方を悟ることとも言える

仏眼               (ぶつ)(げん)」 無縁の大悲を学ぶ。無縁の慈悲の眼。縁の有無を越え、知ると知らないとに無関係に無条件に注ぐ慈悲の眼。 

おかげさま         もったいない、おかげさま、はいっ
おかげさま
(ひと)から受けたお世話、眼に見えぬ神仏のご加護に感謝するのにこれ以上の言葉はない。
(いん)(りょう)、木陰の涼しさ、人間の()(かげ)
ご縁もお陰も他から頂く賜わりもの。 

ある「独り言          

私が私になる私が 私になるために人生の失敗も必要でした 私が 私になれた今、家族や恩人たちに手を合わせありがとうございますと。 

四弘誓願 ()()誓願(せいがん)

四つの大きな願いである。

一、「衆生(しゅじょう)無辺(むへん)誓願度(せいがんど)

数限りない人々をみな、悟りの境地に。

車中、そっと席をゆずるのも菩薩の行。

「身近な人に奉仕=布施することである。

一、「衆生(しゅじょう)無辺(むへん)誓願度(せいがんど)

数限りない人々をみな、悟りの境地に。

車中、そっと席をゆずるのも菩薩の行。

「身近な人に奉仕=布施すること

二、煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)
尽きない煩悩を無くしよう。身も心も悩ませる心の作用である煩悩  を絶滅すること。足許のゴミを一つ拾うことから。

三、法門(ほうもん)無量(むりょう)誓願(せいがん)()
量り知れない仏法の深い教えを学ぶ。
自他の心を潔め、心の塵を払い、垢を除け、心に埋もれている仏心を覚ます。黙々と他に尽くす。「一日に、一つ教えを学ぼう」

四、仏道(ぶつどう)無上(むじょう)誓願証(せいがんしょう)
無上の悟りを成就しようの誓願。「永遠の路を一歩一歩歩もう」

 

ほとけ          宇宙と人生とに通じる仕組みを正しく悟った人を「ほとけ」と言う。仕組みとは「法であり真理」のことなり。私が思うに「法」とは「大自然のこと」  

形見とは 身のこなし、身業。ものの言い方、口業。
ものの考え方、意業。身口意である。
これが自分史であり、その全てが良くも悪くも、自分の形見となる。 

自然   なんと多くの旅をしてきたことだろう。そして、これからもずっと続けることだろう。旅とは、私にとって何を意味するのか。自然の中に孤独な自己を置くことによって解放され、帰化され、活発になった精神で、自然の変化の中にあらわれる生のあかしを見た、というのか。   

心の杖こと               

(たす)ケテハ断橋ノ水をヲ過ギ(ともな)ッテハ無月(むげつ)ノ村ニ帰ル 
「橋が落ちている谷川でも、杖があれば浅い瀬を探して渡ることができる。暗夜でも、杖を頼りに歩くなら溝などに落ちることなく我が家に帰れよう」 

独楽(こま)の舞い倒れ          

働いて、働いて、働きながら倒れる姿に私は崇高美を感じる。
健気に生きて、生きて、ひたすら生き抜いて倒れる、そして死ぬ。
それでいいではないか。私はそれでいい。 

心を開く黄金の鍵     

和顔(わげん)愛語(あいご)心を開く黄金の鍵
微笑柔軟(にゅうなん)(しん)に咲く花、愛語は柔軟心に結ぶ実。

和顔は、なごやかな表情、愛語は、あたたかい言葉

和顔愛語は、法蔵菩薩=阿弥陀如来の修行時代の名が積まれた修行の一徳目。 

なごやかな表情は静かな微笑み、心に化粧がすんだ時の表情という。心が柔軟になったさま。思いやりの心である。

道元禅師、「愛語よく回天の力あることを学すべきなり」慈愛の心であり、呼びかけ、声をかける、愛情を籠める。言葉により理解され、理解から大いなる愛。

言葉を黄金の鍵とする      思えば全てが理解から、言葉により理解を高めること、言葉は「心の足音」和顔から愛語が滲み出て、愛語により和顔がほころぶ。 

言葉は心の脈拍・鼓動      言葉のトーンが高かったり、荒かったりではとても和顔ではありえない。言葉により人の顔も表情も良くも悪くも変わるもの。 

綿密に心を働かす     綿密に心を働かせたら人徳は自然に具わる

自分の我が侭を押さえ、不満に耐える努力、祈りながら自己制限に努める

三施
財施(ざいせ)
    貧しい人に金品を与えること

法施(ほうせ)    他に教えを説いて与えること

無畏施(むいせ)       悩んでいる人に心の安らぎを与えること 

笑顔、微笑、優しい言葉、丁寧な態度、和顔、それらを示すことが、みな「布施」になるんだと遅まきながらきづいた 

如来・菩薩                    

仏教には沢山の如来や菩薩のお名前があるが、実在された仏は釈尊お一人。阿弥陀如来も大日如来も実在者ではない、すべては釈尊の悟りの内容が如来・菩薩の名である。
観音菩薩や地蔵菩薩など多くの菩薩は、釈尊が積まれた修行の内容を示したものだ。 
釈尊はこの大地のする働きそのままの忍耐と慈悲とを智慧にまで高める修行をされた。その修行の内容を地蔵菩薩、即ち「地」は大地、「蔵」は包容を意味する。 

いのち                              

僕たちが生きられたのは、多くのものから生命を奪って生きられたのだ。一切の生命を犠牲にして僕たちは生きているのだ、一切の生命を犠牲にして初めて生きられるのだ。
否、生きさせてもらっているのだ。人間、現代人の忘れてはならぬことである。
 

戒法                                   

悪を謹み、善を修めること。それには正しい法に従わねばならぬ

殺生(せっしょう)(かい)                            

生命を奪ってはならないと言う戒。
だが生きるためには他の生命を奪わねばならぬ。それは権利ではなくて「(おしえ)」として学べが釈尊の生き方。大いなる意志の働きで生きさせて頂く。 

もったいない               

このような言葉は日本にしか無いのではあるまいか。地球環境の大切さを言い尽くす言葉であろう。日本の神道の原理に近い言葉である。
自然や神仏、あるいは自分が生かされている現実を、敬虔と慎みで、畏れる思量が背景にある。 

釈尊の教え                    

人はおのれより(いと)しいものを見出すことはできぬそれと同じく他の人々もみな自己をこの上なく(いと)しむさればおのれの(いと)しさを真に知るものは他を害してはならぬ 

食べ物       人は自ら懸念して、量を知って(じき)をとるべし・・・

これは釈尊の言葉である。釈尊の哲学は仏教は因果律であると私は思う、科学者の言葉で真理を洞察しておられる。釈尊の詩がある、 

人はみずから懸念して量を知って(じき)をとるべしさすれば 苦しみ少なく老ゆること遅く寿(いのち)を保つならん

足るを知る                    

量を知るとは足るを知ることであろう
足るの足は「口」と「止」、口へ入るのを止める。 

食事五観・四

「四つには、まさに良薬をこととするは、形枯(ぎょうこ)を療ぜんが為なり」
形枯(ぎょうこ)とは身体がやせること

食欲の別名を「食思(しょくし)」という。これは「食に対する深い思想」と解釈する。食べることが思想、即ち思索になり初めて我々の繁栄に適するのではないか。楽しく働く、生産をあげるには正しい思い・思想がなくては敵わぬ道理。かかる意味で「量を知り食べる」ことは理に叶い、釈迦の教えの様々な示唆がある。多欲の人は利欲を求めることが多くが故に苦悩もまた多しである。

(せつ)(げつ)()       春は花 夏ほととぎす 秋は月
     冬雪さえてすずしかりけり   道元禅師

四季の風物を詠み 雪月花の美を称えた歌

雪と月       月も雪も気品ある美がある。日本の雪月花は世界のどの国よりも美しいように思う。
冬 雪さえてすずしかりけりである。

月かげのいたらぬ里はなけれども 
      眺むる人の心にぞすむ   法然上人

月かげは月の光のこと。すむには二つの意味、澄むと住む。月は隈なく照らしているの意、照らされている事実に気づいた人の心中には澄みわたる月光が宿るのだ。
その月の光とは仏の智慧・慈悲の光。「自分も照らされていると気づき目覚めたとき、清らかな仏の智慧と慈悲の光がその人の心にずっと前から具わっている真実にめざめ、悟らせて頂けたのだ。との釈尊の深い教え。

   あれをみよ みやまのさくらさきにけり
    まごころつくせひとしらずとも
         東海道関所跡の歌碑 
黙々として咲いている山桜、人に知られようと知られまいと人間としての真心を尽くすのが人間の人間たる所以ではなかろうか。

人は人だからこそ命を込めて生きる

           ほとけとは 桜の花の月夜かな  宝井其角

仏の教えの「無常」、

この世にあるものはみな移り変わる、この世をはかなんだり虚無になにないで生きるしかないのです。それがこの地球の生き物の本質的宿命。

花が 咲いている精いっぱい 咲いているわたし達も ぼく達も精一杯 生きよう 

拝む心       だれ見ても (おや)同胞(はらから)の心地すれ  地震(ない)をさまりて朝にいたれば

       与謝野晶子 関東大震災の翌朝作

極限の体験は万民に平等に襲う、人間は一人では生きられない、人間の生き方を如実に示す歌。

この心が仏心               

花のかげあかの他人はなかりけり   小林一茶
花は合掌に開けて春に()らず菅原道真 和漢朗詠集
桜ばないのち一ぱいに咲くからに
     生命をかけてわが眺めたり 岡本かの子 

合掌の心                          香は禅心よりして、火を用いることなし、花は合掌に開けて春に因らず。香は火をつけなくても坐禅をする心中に香る。花は春ではなく合掌により開く。菅原道真の詩敵意の無いことを示し尊敬を示すのが合掌 

千手観音  千手観音(せんじゅかんのん)

目の見えない子が描いたお母さんという絵にはいくつもの手がかいてあったそれを見たときわたしは千手観音さまの実在をはっきりと知ったそれ以来あの一本一本の手がいきいきと生きて見えるようになった異様なおん姿が少しも異様でなく真実のおん姿に見えるようになつたああわたしも千の手がほしいベトナム・パキスタンの子らのためにインド・ネパールの子らのために坂村真民

真・善・美を越えるおおきな価値「聖」           真・善・美を越えるおおきな価値「聖」

人間は誰しも悩みを持つ、安易に妥協せず悩みぬくとふとしたことで解答が得られる。聖は、人間内部に秘められており、人間を目覚めさせる機能(はたらき)を持つと思われる。聖は真善美の科学・倫理・審美についで哲学・宗教の価値である。

天の(ことわり)を読む         

二宮尊徳先生が「万巻の書をひもとかず天の理を読め」と言われた。
声もなく()もなく常に天地(あめつち)は書かざる経をくり返しつつ           二宮尊徳

天の理を読め、自然のたたずまいは、あるがままに、文学や言葉を用いずに、事実のままに道理を説いている・・・

森羅万象こそ仏法      

天地自然の森羅万象が仏法を説き続けているのだと、八十三歳ではたと気づいた。

宝林(ほうりん)宝樹(ほうじゅ)微妙音(みみょうおん)

自然(じねん)清和(しょうわ)()(がく)にて

哀婉(あいえん)()(りょう)すぐれたり

清浄(しょうじょう)(がく)帰命(きみょう)せよ      親鸞の浄土和讃(じょうどわさん) 

大自然の宝である樹林帯から発する微妙なる音声は、自然で、清らかで、執着の心を洗い流す。この勝れた音楽で人間は智慧の目を開くがいい。この清浄音楽の音に帰依し大悟(たいご)されよ。                 
                       (徳永岫雲斎圀典訳)