個人危機管理の欠如と契約社員 

契約社員の仕事が無いことは心から同情する。何とかならぬものかと日々案じている。 

だが、戦後生まれの日本人には、やはり「危機管理という発想」が根本的に欠如していたのだと痛感している。 

国家としての危機管理も同様である。安全保障とか、領土問題に関して、大方の国会議員が、大馬鹿野郎であり、無関心だというではないか。こんな議員なんかに投票する日本人がやはり大馬鹿野郎なんだ。 

個人の危機管理というものも厳然として存在する。だが、戦後日本には無いに等しい。だから奇妙な、甘ったれた日本人となってしまつた。 

どのようなサラリーマンでも、どのような企業に勤務していても、自分の病気とか、事故とか、天変地変で災難が降りかかるかもしれぬ、それが人間という存在である。 

だから、どのような人間でも、どのような職業でも、安定している間に、収入の一割とか二割は無いものとして貯蓄に回すのである。 

そうして、数ヶ月とか一年とか収入が無くても生活できるようにしておく、それが大人としての最低の自覚であり社会人としての不可欠な対策なのである。その間に色々と対策するのが常識であろう。 

第一、    契約社員というのは、元々限界的存在であり、いつ馘首されるか分からない存在である。 それは当事者・本人が一番よく理解している筈である。馘首されて直ぐ生活不安のデモとは甘いのではないか。 

第二、    本来は、契約派遣会社との契約であろう。製造業企業との雇用契約ではあるまい。団体交渉の相手と異なる製造会社にデモをして要求するとは、奇妙なこととなるのではないか。 

いずれにしても、来年は、更に過酷な現実が到来するであろう。契約社員の留まらず社会的大問題となろう。 

日本は全国的に、農地が放置されたままである。人口が大都市に集中し過ぎたのである。 

地方の田園地帯に帰れ、そして大地に根ざした農業で生活のパラダイムの大転換をしては如何。21世紀は食糧争奪戦の地球人類となる。 

天の与えられた大チャンスかもしれない。 

経済社会基盤パラダイムの転換が起きてくるであろう。 

そこに、大きな飛躍のチャンスが必ずあるのは歴史が証明している。

泣き言を言わず、ここはじつくりと、歴史を振り返りつつ、思索を深めることを壮年の諸君に提案したい。 

                       平成21年元旦 

                              徳永日本学研究所 代表 徳永圀典