佐藤一斎「(げん)志録(しろく)」その八 岫雲斎補注  

平成24年1月度                                                    

 1日 210         

孔子と音楽

雅楽の秘訣は声音(せいおん)節奏(せつそう)(ほか)に在り。尋常の怜工(れいこう)(もと)より知るに及ばず。唯だ大師或は(とも)に語るべし。故に孔子之に語る。聖人は天地万物を以て一体と為す。故に其の作る所の(がく)も、亦自ら天地と流を同じゅうす。春気始めて至り、万物(えい)に向う。(これ)翕如(きゅうじょ)に見る。(ちょう)()条達(じょうたっ)して、大和畢(たいかことごと)(あら)わる。諸を純如(じゅんじょ)に見る。結実形を成し、条理明整なり。諸をt如(きゅうじょ)に見る。外に剥落して、内に胎孕(たいよう)す。諸を繹如(えきじょ)に見る。蓋し其の妙の四時と其の序を合する者有ること(かく)の如し。唯だ夫子(ふうし)能く之を知る。故に語りて以て其の秘を洩せり。然らずんば、大師は既に是れ大師なり。声音節奏は、彼の熟講する所なれば、夫子と雖も(いずく)んぞ能く(さかさま)に之に(おしえ)えんや。

岫雲斎

雅楽の妙は声音や韻律にあるのではなく内面的なものにある。楽員には分らず楽長は理解しているであろう。

孔子が楽長と語ったことがある。
聖人は天地万物を一体と喝破し、音楽も自然の階律と一致していると。

だから、春の気を感じ万物が繁茂を始め、それを音楽では五つの音が合唱していると表現する。

夏になると、草も木も葉も伸びて大和合の状態となる、音楽ではこれを八音の完全調和と表現する。秋の結実は子孫の為に責任を果たす条理が整うので楽では明らかと表現する。

冬、落葉するが内には春の気も孕む、これを音楽では絶えない状況と云う。楽の秘訣は四季とその順序が同じことにある。

孔子だけがこの事を知悉していたので楽長に洩らしたのである。

若し、孔子以外がこの事を知っていたならば、専門家の楽長に孔子が音楽の秘訣を教えるという逆ごとは無い筈である。

 2日 211. 

親の身は我が身

(すべか)らく知るべし、親(いま)す時、親の身即ち吾が身なり。親没せし後、吾が身即ち親の身なることを。則ち、(おのずか)(みずか)ら愛するの心を以て親を愛し、親を敬する心を以て(みずか)ら敬せざるを得ず。 

岫雲斎

親の生存中は親の身は即自分の身、親の死去後は自分の身は親の身であることを知らねばならぬ。

即ち自分の身を自に愛する心で親を愛し、親を敬う心で自分自身を敬わねばならぬ。

 3日 212


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聖人は九族に親しむ

吾れ(せい)()独り思うに、吾が()は、一毛、一(ぱつ)、一(ぜん)、一(そく)、皆父母なり。一視、一聴、一寝、一食、皆父母なり。既に吾が躯の父母たるを知り、又我が子の吾が躯たるを知れば、則ち推して之を(のぼ)せば、祖、曾、(こう)も我れに非ざること無きなり。(てい)して之を下せば、孫、曾、玄も我に非ざること無きなり。聖人は九族を親しむ。其の念頭に起る処、蓋し此に在り。 

岫雲斎

静かな夜、独り思うことあり、自分の身体の毛髪、喘、息、みな父母から頂いたもので父母そのものだ。

視る聴く、寝る、食べるみな父母からの賜物だ。

自分の身体は、父母であり、子供は自分の身体である。
先祖は高祖まで、孫は玄孫まで自分でない者はない。
聖人が九族みな親しむというのはこのようなことから起きているのだと思う。

 4日 213

.大人(たいじん)
の心
(たい)()垢汚(こうお)、化して?蝨(きしつ)()れば、刷除(さつじょ)せざるを得ず。又此の物も亦吾が()(もう)の末に生ずる所たるを思念すれば、猶お殺すに忍びず。大人(たいじん)の心、天地万物を以て一体と為す。其の刑を(あわれ)み罰を慎むは、則ち是れ此の念頭と一般なり。  岫雲斎

身体の垢が(しらみ)となり、これは払いのけたいが虱も自分の皮毛の末に生まれたものと思えば殺すに忍びない。

同様に大人(たいじん)の心は天地万物を一体と捉えている。

だから刑される者に憐憫の情を持ち罰に慎重な姿勢をとる、これが大人の考えなのである。

 5日 214.

方寸の霊光
深夜闇室(あんしつ)に独座すれば、群動皆()み、形影(とも)(ほろ)ぶ。是に於て反観すれば、但だ方寸の内?(けい)(ぜん)として自ら照す者有るを覚え、恰も一点の燈火闇室を照破するが如し。認め得たり。此れ正に是れ我が神光霊昭の本体なるを。性命は即ち此の物。道徳は即ち此の物。中和位育(いいく)に至るも、亦只だ是れ此の物の光輝、宇宙に充塞(じゅうそく)する処なり。 

岫雲斎
深夜、暗い部屋で独座していると、諸々の活動が止み、形も影も見えない。ここで自分自身を反省すると、心の中に己を照らすものを感じる。それは一つの灯が暗闇を照らすようだ。これこそ我が精神の霊光であり、心の本体だなと感じる。中庸の言う性命とはこのことであり道徳でもある。全て程良く、過不足なく、天地の各々がその位に安んじて万物が成育する、と言ったのも、この光が宇宙に充満しているに過ぎないのである。

 6日 215.

忠孝両全二則
その一
孝子は即ち忠臣にして賢相は即ち良将なり。 

岫雲斎
親孝行の人間は、君主に仕えても当然に忠義な良い大将となる。

 7日 216.

忠孝両全二則 その二
君に仕えて忠ならざるは、考に非ざるなり。戦陣に勇無きは、考に非ざるなり。曾子は考子にして、其の言此くの如し。彼の忠孝は両全ならずと謂う者は、世俗の見なり。 

岫雲斎
曾子は言う「君子に忠義でない者は孝行とは言えぬ。戦陣に在る時、勇気無き者は孝行とはいえぬ」と。世間では忠と孝の二つは全うできないと云う人があるがこれは間違いである。

 8日 217.       

  
「忍」二則 
その一

忍の字は、未だ病根を抜き去らず、謂わゆる克伐怨(こくばつえん)(よく)行われざる者なり。
張公芸の百の(にん)()を書せしは、恐らく俗見ならん。
 

岫雲斎

忍だけでは病気の根本の治癒にはならぬ。忍で可能なのは克伐怨(こくばつえん)(よく)のみである。張公芸が忍の字を百書いて皇帝に答えたというのは俗人の所見である。克伐怨(こくばつえん)(よく)=克は負けず嫌い。伐は高慢、怨は人を怨む。欲は強欲。

 9日 218.         

「忍」二則 

その二

心上に(やいば)有るは忍なり。忍の字は好字面(こうじめん)に非ず。但だ借りて喫緊寧耐(きっきんねいたい)()すは可なり。要するに亦道の至れる者に非ず。 

岫雲斎
「心の上に刃」があるのが忍の字だ。忍は好い字ではない。ただ、この字を借りて気を引き締めたり、危険を免れる気持ちを起す手段にするのは宜しい。要するに忍程度では道の理想の状態ではないということである。

10日 219.    
 
一事一(いちじいち)(るい)

一物を多くすれば(ここ)に一事を多くし、一事を多くすれば斯に一累を多くす。 

岫雲斎
物が一つ増えれば、やる事が一つ増える。煩わしさが一つ増えることとなる。

11日 220
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衆人の幸と君子の幸

衆人の以て幸と為す者、君子或は以て不幸と為し、君子の以て幸と為す者、衆人(かえ)って以て不幸と為す。 

岫雲斎
多くの人が幸せだと思うことは君子は幸福とは思わぬ。君子が幸福と思うことは天の道に叶う道で多くの人はそれを幸せとは感じない。

12日 221.   

公欲と私欲

私欲は有る可からず。公欲は無かるべからず。公欲無ければ、則ち人を(じょ)する(あた)わず。私欲有れば、則ち物を仁する能わず。 

岫雲斎
私欲はあってはならぬ。公欲はなければならぬ。公欲がなければ他人に対する思いやりが欠ける。私欲があれば他人に与えることが出来ぬ。

13日 222.   
民衆の心を知れ

(たみ)の義に()りて以て之を激し、民の欲に因りて以て之に(おもむ)かしめば、則ち民其の生を忘れて其の死を致さん。是れ以て一戦すべし。 

岫雲斎
民衆が正義とする所を察して激励し、民衆の向く所を知り誘導すれれば、民衆は感激追従して生命さえ忘れるものである。こうなれは戦争してもよくなる。

14日 223.  
       

事を為す術

(ぜん)は必ず事を成し、(けい)は必ず人を(いだ)く。歴代の(かん)(ゆう)の如きも、其の秘を(ぬす)む者有れば、一時だも亦能く志を()げき。(おそ)る可きの(いたり)なり。 

岫雲斎

物事は漸進により必ず成功する。
恩恵を与えれば必ず人々を抱き込むことができる。歴代の悪しき姦雄もこの秘訣を盗んで一時的に野心を遂げたものもいる。怖ろしきことである。

15日 224.  

似て非なる者を(にく)

 (とく)(じょう)(しん)(みつ)に似たり。(じゅう)()は恭順に似たり。剛愎(ごうふく)は自信に似たり。故に君子は似て非なる者を悪む。 

岫雲斎
感情を抑えて外に表さぬことは、慎み深さに似ている。柔和で媚び諂うのは恭順に似ている。剛情さは自信に似ている。だから、君子は「似て非なる者を悪む」のである。

16日 225

復性の字

惻隠(そくいん)の心も偏すれば、民或は愛に溺れて身を(おと)す者有り。(しゅう)()の心も偏すれば、民或は自ら溝?(こうどく)(くび)るる者有り。()(じょう)の心も偏すれば、民或は奔亡(ほんぼう)して風狂(ふうきょう)する者有り。是非の心も偏すれば、民或は(けいてい)(かき)(せめ)ぎ、父子相訴うる者有り。凡そ情の偏するは、四端(したん)と雖も、遂に不善に陥る。故に学んで以て中和を致し、過不及無きに帰す。之を複性の学と謂う。 

岫雲斎
惻隠の情も度が過ぎると、民衆の中には愛に溺れて身を亡ぼす者もいる。

自分の不善を恥じたりする羞恥心も過ぎると民の中には(みぞ)の中で首をくくる者もでる。辞退したり譲る心が度が過ぎて逃げ隠れして狂う人もある。
善悪正邪の識別心も度が過ぎると兄弟喧嘩したり親子の裁判沙汰を起こす者も出る。
このような感情が偏り過ぎると孟子の言う四端本までが良くないことになる。
学問をして性情を中正にして過不足のないようにする、これが複性の学というものである。

閑話休題
17日 四端に就いて 孟子の公孫丑篇に、「惻隠の心は仁の(たん)なり、(しゅう)()の心は義の端なり、()(じょう)の心は礼の端なり、是非の心は智の端なり。人はこの四端あるは、猶おその四体あるが如し」とある。 

岫雲斎
端とは端緒(いとぐち)(しゅう)()は己の不善を恥じ、人の悪をにくむ心。()(じょう)は謙遜心。是非は、事物の善悪を判定する心、この四つを孟子による仁義礼智の四端という。

18日  226

悪の本体

情の本体は即ち性なれば、則ち悪の本体は即ち善なり。悪も亦之れを性と謂わざる可からず。 

岫雲斎
悪を起すのは情、情の本体は四端が人間の本性であるからだ。悪の本体は善である。悪も人間の本性と言わざるを得ない。偏らないことが肝要。

19日 227
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権は経

経の用に妙なる処、是れ権なり。権の体に定る処、是れ経なり。程子(ていし)の「権は只だ是れ経」との一句、()くこと極めて妙。 

岫雲斎
経を巧妙に運用すれば権。権の本体は経。故に、本体は経、妙用は権ということ。程子が「権は只これ経」と言った一句は極めて妙趣がある。

20日 228.      
 
賞と罰

賞罰は世と軽重す。然るに其の分数、大略十中の七は賞にして、十中の三は罰なれば可なり。 

岫雲斎
世間の常識により賞と罰は軽くもし重くもすべきである。その割合は七割は賞、三割は罰がよいであろう。

21日 229.       

  
先務(せんむ)(しん)(けん)

孟子、先務を急にし、親賢を急にするを以て、堯・舜の仁智と為す。試に二典を検するに、並に皆前半截(まえはんせつ)は、是れ先務を急にして、後半截(こうはんせつ)は、是れ親賢を急にす。 

岫雲斎
堯・舜の仁・智を、物を知るよりも第一に為すべきことを果たし、万人を愛する前に賢人と親しくして修養したという。その教典を調べると、孟子の言う通り、前半は人間としての根本を主、そして後半は賢人と交わることが書かれている。

22日 閑話休題 孟子の尽心上篇、「知者は知らざることなきなり。当に務むべきを之急となす。仁者は愛せざることなきなり。賢に親しむことを急にするを務となす。 堯・舜の知にして物に(あまね)からざるは先務を急にすればなり。堯・舜の仁にして人を愛するに偏からざるは、賢に親しむことを急にすればなり」。
23日 230.    
人を責める分量

堯・舜の上、善尽くる無し、(そなう)るを責むるの言、畢竟(ひっきょう)(かた)きなり。必ず先ず其の人の分量の至る所を知り、然る後(そなう)るを責む。然らずんば(なん)ぞ窮極有らん。 

岫雲斎
堯と舜は限りなく善を備えていた。然し、人間に完全を求めるのは難しい。だから、相手の器量に応じ、責める分量を決めるがよい。そうでなくて見境無く、ただ責めるだけではいけない。

24日 231.   
厚の一字

(こん)厚く物を()す。人当に之を体すべし。喪を(かなし)(さい)を敬するも、亦一厚字の裏面より出で来る。 

岫雲斎
易経、大地の雅量は広大で厚く万物を上に載せる。だから人間もこれを体して、人情が厚いことが大切である。死を哀しみ祭をして祖先を敬うのも、この厚より出ているのである。

25日 232.  
遺品分けの弊俗

父母の遺せる衣服器玩(きがん)は、子孫たる者当に之を愛護して以て追慕を忘るること無かるべし。決して手を脱して人に贈るの(ことわり)無し。今喪家(そうか)、遺物を分贈す。漢土も亦(ばん)(きん)孝布孝帛(こうふこうはく)有り。並に弊俗なり。金の世宗(せそう)の宋の遺物を(しりぞ)けたるは、亦見る有り。 

岫雲斎
父母の遺品の衣類や器物などを子孫は大切にして時折見ては父母を忘れないようにするのがよい。決して手元を離して他人に贈る理由は無い。
最近では喪のあった家で、遺物を形見分けして布や帛を贈っているが悪い習慣である。
金の名君・世宗皇帝は宋の微宗皇帝の遺物を送り返したが一つの見識である。

26日 233.  
子弟教育は公事

能く子弟を教育するは一家の私事に非ず。是れ君に(つか)うるの公事なり。君に事うるの公事に非ず。是れ天に事うるの職分なり。 

岫雲斎
子弟をよく教育するのは一家の私事ではない。これは君に仕える公事である。いな、人間として天に仕える重要な職分である。

27日 234.   

孔門の学は躬行(きゅうこう)にあり

孔門の学は、もつぱら躬行に在り。門人の問目(もんもく)、皆己れの当に為すべき所を挙げて之を(ただ)せり。後人の経を執りて(こう)(もん)するが如きに非ず。故に夫子(ふうし)の之に答うることも、亦人々異なり。大抵、皆偏を()め、弊を救い、

長を()ち、短を補い以て(これ)を正に帰せしむるのみ。(たと)えば猶お良医の(やまい)に対して剤を処するがごとし。疾は人々異なり。故に剤も亦人々異なり。懿子(いし)佐伯、子游(しゆう)()()、問う所は同じうして、答は各々同じからず。亦以て当時の学を想うべし。
28日 岫雲 孔子の学問は実践躬行である。門人の質問の題目は、各自が夫々為すべきものを挙げた。後世の人間が、経典の文句から質問するのと違っていた。孔子がこれに答えたが人夫々に違っていた。要点は、偏っている所を矯正、弊害を除け、行き過ぎをカットし、短い所を補い正しくさせるものであった。 この手法は、名医が病気により薬剤を調合するようなものである。一人一人病気は違うから処方箋も別々である。懿子(いし)らの孝行に関しての質問は夫々孔子は違う答えをした。このように当時の学問が、いかに実践躬行を重視して個性を尊重していた事を考えるべきである。
29日 235.   

経書を読む心得四則
その一

経書の文字は、文字を以て之を注明するも可なり。意味は則ち当に我が心を以て透入(とおにゅう)して之を得べし。畢竟(ひっきょう)、文字を()くるに能わじ。 

岫雲斎
賢人の書は他の平易な文字で注釈するのはよい。だが、本当は自分の心を経書の中に浸透させて始めて会得できる。別な文字をつけて分るというものではない。

30日 236.   

経書を読む心得四則
その二

経を窮むるには、須らく此の心に考拠し、此の心に引証するを要すべし。()し徒らに文字の上に就いてのみ考拠引証して、(すなわ)ち経を窮むるの、(ここ)(とどま)ると謂うは、則ち(ろう)なること甚し。 

岫雲斎
経書の深意を窮めるには自分の心を拠点とし、己の心で確認しなければならぬ。もしも文字上のみの証拠に立脚して満足するならば極めて見解の狭いことになる。

31日 237.      

経書を読む心得四則 
その三

経を窮むるには、必ず義理文理湊合(そうごう)する処有り。一に吾が識を以て之を断ず。(ここ)に得たりと為す。 

岫雲斎
経書を窮めるには必ず、意義の筋道と、文章の綾の混み合う点に注意を要す。かかる点を自己の見識で判断し決定すべきである。このようにして経の意味を自得できるのである。