佐藤一斎「言志晩録」その四 岫雲斎補注 

       平成25年1月1日--31日

謹賀新年、本年も共に学びたく、宜しくお願い申しあげます。 徳永圀典拝

元旦 70
人の長所を視るべし
我は当に人の長処を視るべし。
人の短処を視ること勿れ。

短処を視れば則ち我れ彼に勝り我に於て益無し。

長処を視れば則ち彼れ我れに勝り我に於て益有り。
 

岫雲斎
人間を看るにはその人の優れている点を見て欠点を看ないのがよい。短所を看れば己が勝っていると驕りの心が生じて修養にならない。反対に人の長所のみ看れば、己が劣っている事を知らされるから反省により自己練磨に励むこととなり誠に有益である。

2日 71.
志は高く、身を持するは低く
志、人の上に()ずるは、倨傲(きょごう)(そう)に非ず。
身、人後に甘んずるは、でつ(ろう)に非ず。
 

岫雲斎
志が人より上にあるからと云って決してそれは傲慢な想いではない。身を持するに際して人の後についていることは別にいじけた醜い態度ではないのである。
(志の高尚さと謙譲な処世)

3日 72.
聖人の心と態度
聖人の心は、辞気容貌に(あら)わる。
其の地と人に於て各々異なり。未だし知らず、孔子の(いり)吏、乗田(じょうでん)たりし時、長官に於ける果して何如(いかん)なりしかを。
郷党にも載せず。学者宜しく推勘すべし。
或は曰わん「和悦にして(あらそ)う」と。
 

岫雲斎
聖人の心は、言葉の語気や顔貌に現れる。而も場所や相手により異なる。孔子が若い時、会計官や牧場の役人をしていた時、所属の長官にどのような態度をされたのかは分らない。論語の郷党篇にも掲載がない。学者の諸君は一つ推考してみては如何。「ニコニコしておられたのであろうが、問題発生の折には中々手ごわい」のではなかったか。

4日 73.
心で悟った事は言えない
目に()る者は口()く之を言う。耳に聞く者は口能く之を言う。心に得る者に至りては、則ち口言う(あた)わず。
()し能く言うとも、亦()だ一端のみ。
学者の迎えて之を得るに在り。
 

岫雲斎
目で見たものは、口でよく説明できる。耳で聞いたものは同様に口でよく説明が可能。だが、心で悟ったものは口で説明することが出来ない。もし説明したとしてもほんの部分だけしかできない。だから学問をする者は自分の心で相手の心を推し量って暗黙のうちに会得するものだ。

5日

74.
読書と静坐を一時に行う工夫

吾れ読書静坐を()って()して一片と()さんと欲し、(よっ)て自ら之を試みぬ。経を読む時は、(ねい)(せい)端坐し、(かん)(ひら)きて目を(しょう)し、一事一理、必ず之を心に求むるに、(すなわ)ち能く之れと(もっ)(けい)し、(こう)として自得する有り。此の際真に是れ無欲にして、即ち是れ(しゅ)(せい)なり。必ずしも一日各半の工夫を()さず。

岫雲斎
朱子は「半日静坐、半日読書」と言ったが自分は、読書と静坐を併せて一回にしようと試みた。経書を読む時は、安静に端坐して書物に目を通し、一つの事柄、一つの道理を心に深くよく考えると無言の間に自分の心と書物とが交流して良く融合し、会得するものがある。この時は真に無欲であり、一点の邪念も無く静になりきった状態である。だから半日読書、半日静坐をする必要はないのである。

6日 75
端坐して経書を読む
端坐して経を読む時は、間思(かんし)妄念(もうねん)自然に消滅す。
猶お香気室に満ちて、ぼうの入る能わざるがごとし。
瞑目調(めいもくちょう)(そく)
の空観に似ず。
 

岫雲斎
端然と坐して経書を読む時には、一切の煩悩妄想が自然と消え去り、それは室内に良い香りが満ちておれば蚊やねきり虫などが入ることが出来ないようなものである。この境地は、眼を(つむ)り呼吸を調える禅の空観でもない。
7日 76.経書は心で読め 経を読むには、宜しく我れの心を以て、経を読み、経の心を以て我れの心を()くべし。然らずして、徒爾(とじ)訓詁(くんこ)を講明するのみならば、便(すなわ)ち是れ終身(かっ)て読まざるがごとし。 

岫雲斎
経書を読むには、自分の心で経書の真意を読み取り、また経書の真意で自分の心を解釈するのがよい。
そうしないで、徒らに、文字の意義や解釈を講じ説明するだけなら生涯、書物を読まなかった事と同じ様となる。

8日 77.
人は地に生れ地に死す
人は地気の精英たり。地に生れて地に死し、畢竟地を離るること能わず。宜しく地の体の何物たるかを察すべし。朱子謂う「地(かえ)って是れ空闕(くうけつ)の処有り。天の気貫きて地中に在り。郤って虚にして以て天の気を受くる有り」と。理或は然らん。余が作る所の地体の図、知らず、能く彷彿を得しや否やを。 

岫雲斎
人間は地の気の精妙なる英気である。地に生まれ、地に死し、生涯、地を離れることは出来ない。だから地の本体がどういうものかを考えるべきである。朱子は「地には却って欠けた所があり、天の気がその欠けた所を貫いて地中に通じている」という。その地の虚、即ち欠けた所に天の気を受ける」と言った。理屈はそうかもしれない。自分の作った地体図は果してこの朱子の思考に幾らか似ているのであろうかどうか。

9日 78
震の易理

震は、(けん)(よう)の初気たり。則ち()(げん)なり。其の発して離虚に感ずれば、則ち雷霆(らいてい)と為り、(かん)(じつ)(地中の深い穴)に触るれば、即ち地震と為り、人に於ては志気と為る。動天境地の事業も、亦此の(しん)()に外ならず。 

岫雲斎
易によると、震は(けん)(よう)の初めて発動する気の(もと)である。この気が発動して離の虚に感ずれば雷霆(らいてい)となる。(かん)の実(地中の深い穴)に感ずれば地震となる。人間に於ては「やる気」になる。世間を驚かすような大事業すらこの震気の発動に他ならない。

10日

79
.()(かい)丹田(たんでん)
に気を充実せしめよ

人身にて(せい)(じゅ)()(てい)と為せば、則ち震気は此れよりして発しぬ。宜しく実を臍下(せいか)に蓄え、虚を臍上(せいじょう)()れ、呼吸は臍上(せいじょう)(あい)消息(しょうそく)し、筋力(きんりょく)は臍下よりして運動すべし。思慮(しりょ)云為(うんい)、皆(これ)根柢(こんてい)す。凡百(ぼんぴゃく)の技能も亦多く此くの如し。 

岫雲斎
人間の体では、臍は母胎にある時から気を受ける場所であり生々の気は臍下(気海丹田)に蓄え。
だから、臍上の力を抜いて、呼吸は臍上と相通じ、筋力は臍下から発するようにして体を動かすべきである。
物事を考えるのも、何事かなそうとする時も、みなここに根源がある。
あらゆる技能も皆、実に臍下(せいか)の「気海丹田」に力を充実させることに基づかないものはない。

11日 80.
震と(ごん)との易理
「其の(はい)(とどま)り、其の身を()ず。其の庭に行きて其の人を見ず」とは、敬以て誠を存するなり。
「震は百里を驚かす。
匕鬯(ひちょう)(神に捧げる香りある神酒)を喪わず」とは、誠以て敬を行うなり。
震艮(しんごん)正倒(せいとう)して、工夫は一に帰す。
 

岫雲斎
「背中を見ただけならその人の顔付は分らない。人の庭を見ただけでは、主人の顔は分らない」。これは、顔を見ると雑念が沸くが、見なければ無心でいられるから敬してなお誠が存在していることである。「雷鳴が百里の遠きを驚かすことがあっても、宗廟の祭祀に匙や香酒を取る者はそれを取り落とさない」ということは、誠を以て敬を行うからである。それは震()(こん)()は全く反対のものだが結局は一つの工夫に帰着するものである。

12日

81.
暗夜と明昼(めいちゅう)

暗夜に坐する者は体躯(たいく)を忘れ、明昼に行く者は、形影(けいえい)を弁ず。

岫雲斎
暗夜に坐っている者は、自分の体を忘れてしまって自分の真の心を知り得る者である。昼間の明るい道を行く者は自分の形や影をしっかりと見分けられるが自分の心を忘れている。(常に修養をの教え)

13日 82.        
  
誠意は夢幻に非ず。
誠意は夢寐(むび)に兆す。不慮の知然らしむるなり。 

岫雲斎
真の誠の心は、夢、幻の間にその兆候が現れる。これは人間に自然に備わっている知能がそうさせるのである。

14日 83.  
不慮の知と不学の能
天を以て感ずる者は、不慮の知なり。天を以て動く者は不学の能なり。 

岫雲斎
天意を直観するとは特に考えなくても分る知能。天意により動くのは学ばないで持つ先天的能力である。(良知は生来のもの。)

15日 84.      
学術の誤用は不可
霊薬も用を誤れば則ち人を(たお)し、利剣も(へい)(さかさま)にすれば則ち自ら(そこな)う。学術も(ほう)(そむ)けば、則ち自ら?(そこな)い又人を(そこな)う。 

岫雲斎
よく効く薬も用い方を誤れば人を殺す。切れ味のよい刀も柄を逆さまに持てば自分を傷つける。
同様に、学問技術も正しく活用しなければ己を損い人をも害する。

16日 85 
治心の法
治心の法は、(すべか)らく()(せい)を至動の(うち)に認得すべし。(ろけい)()(明代の人)に謂う「功を用うる必ずしも山林ならず。
()(ちょう)も亦()()」と。此の言然り。
 

岫雲斎
ややもすれば乱れようとする心を治める方法は、出来るだけ静かな心を忙しい活動の間にも意識して持つことである。(ろけい)()は「精神修養を達成するには何も静かな山林でなくても雑沓(ざっとう)の市街地の中でも可能である」と云っている。将に然りである。

17日 86.          
体は充実して虚、心は虚にして実
体は実にして虚、心は虚にして実、中孚(ちゅうふ)(しょう)即ち()れなり。 

岫雲斎
身体は実体があるが、これを忘れて虚にする。心は見えなくて虚であるが活動の本源であり実体である。
易経の中孚の象がこの理屈を示している。

18日 87.          
満を引く心
満を引いて度に(あた)れば、発して(くう)(せん)無し。
人事宜しく(しゃ)の如く然るべし。
 

岫雲斎
弓を引くに当り、存分に引き絞って的に当てれば決して無駄の矢はない。人間の仕事もこの弓を射る如く十分の準備をして決行すれば失敗することはない。

19日 88.          
武技参観の法
余は好みて武技を演ずるを観る。之を観るに目を以てせずして心を以てす。
必ず先ず呼吸を収めて、以て()れの呼吸を(むか)え、勝敗を問わずして、其の順逆を視るに、甚だ適なり。
此れも亦是れ学なり。

岫雲斎
自分は好んで武技の試合を観るが、これは目で見ないで心で観るのである。必ず先に呼吸を整える、そして演技者の呼吸を窺い、その勝敗に頓着することなく、そのやり方が順か、逆が、即ち正しいのか正しくないのかを観るのである。この観方(みかた)は極めて的中しており正しい呼吸をしている者が勝利を得ている。これも一つの学問というべきである。

20日 89.          
武士はその名に副うべし
凡そ()君子(くんし)たる者、今皆武士と称す。
宜しく自ら其の名を顧みて以て其の実を責め、其の職を努めて以て其の名に副うべし。
 

岫雲斎
人の上に立つ士君子、今はみな武士と言う。これらの人々は世間の名誉を鑑み、果して自ら武士たるの実を挙げているか反省して職務に努め武士の名に相応しい言動をとらなければならぬ。

21日 90.          
武士が文を志す場合
士にして文に志すは、是れ武に居て文を学ぶなり。(きょ)(ぶん)にして以て柔惰(じゅうだ)なること勿れ。(きょ)()にして以て躁暴(そうぼう)なること勿れ。 

岫雲斎
武士で文芸に志す人は、武士の位にいて文芸を学ぶのである。故に、実のない空虚な文を作り軟弱になってはならない。そうかと言って、実のない空威張りの武士になり粗暴になってもならぬ。

22日 91.          
殉国は乱世に易く治世には難し

国乱れて身を殉ずるは易く、世治って身を(さい)するは難し。 

岫雲斎
国家が乱れている時、一身を国家に捧げるのは困難なことではない。世が治まっている時には国の為に粉骨砕身の奉公するというのは困難なことである。((さい)は粉々に砕く)

23日 92. 

英気はなくてはならぬ
前人(ぜんじん)謂う「英気は事に害あり」と。余は則ち謂う「英気は無かる可からざる」と。
但だ圭角(けいかく)(あら)わすを不可と為す。
 

岫雲斎
古聖人は謂う「勝れた気象はやり過ぎの傾向あり、事を為すに害あり」と。然し自分は「優れた気象が無ければ良い仕事は出来ないから、それは絶対に必要だ」と。ただ角張った鋭さを剥き出しにするのは宜しくない。

24日 93.          
剣に勝つ方法

刀槊(とうさく)の技、(きょう)(しん)抱く(いだ)く者は(じく)し、勇気を頼む者は敗る。必ずや勇怯(ゆうきょう)(いっ)(せい)(ほろぼ)し、勝負を一動に忘れ、之を動かすに天を以てして、(かく)(ぜん)として(たい)(こう)なり。之を(しずか)にするに地を以てして、物来れば順応す。是くの如き者は勝つ。心学も亦此れに外ならず。 

岫雲斎
剣術、槍術の試合では、臆病な心を持つ者は敗れる。
また勇気のみに頼る者も敗れる。勇気とか臆病の観念を唯一の静の中に埋没させて気を沈め、勝敗を唯一つの動の下に決する事も忘れ、自然に雄大な気持ちの動くまま動き、からっとした心地で、将に公明正大、その静に止まる大地の静寂不動の如く、ひとたび物が来れば即反応す、この様にする者は必ず勝つ。心の学も同様である。

25日 94.          
護身の堅城(けんじょう)

乙を甲に執り、甲を乙に(ぞう)す。之を護身の堅城と謂う。 

岫雲斎
柔は剛に、剛を柔に隠す。つまり、剛のうらには柔、柔のうらには剛、という風に何事も一方に偏らないようにすることが我が身を守る堅い城である。

26日 95.          
形は(ほう)に、行動は円く
形は方を以て(とどま)り、勢は円を以て動く。城陣(じょうじん)行営(こうい)、其の理は一なり。 

岫雲斎
形は正しく四角に整える。それを動かすには円く、自在に変化する。城郭や陣屋、行軍や営舎などは全て同じ理由に依拠して考え行動すべきである。(形は心身ともきちん整えて行動は柔軟に。)

27日 96.          
軍隊にも礼楽
軍旅にも亦礼楽あり。 

岫雲斎
軍隊は殺伐なものだけでなく、礼儀も音楽もある。

28日 97.      
兵家(へいか)は心胆を練る
兵家は心胆を練ることを説く。
震艮(しんごん)の工夫と彷彿たり。
 

岫雲斎
兵法家や武芸を行う者は、肝っ玉を鍛練することを説いている。震艮(しんごん)の工夫と似ている。(震は活動、艮は静止。一朝有事は動、日頃、肝っ玉を練るは静、即ちと我が身を慎み、敬以て誠を尽くす。)

29日 98.     
義と勇
我れ無ければ則ち其の身を()ず。即ち是れ義なり。物無ければ則ち其の人を見ず。即ち是れ勇なり。   岫雲斎
人間は無我の境地にあると自分の身を忘れる。この場合、ただ正義感のみ存在する。また、人間、物欲の念が無ければ、眼中人無し、存在するのは千万人と雖も我往かんの気概だけであり、これが勇気である。
30日 99.          
無我・無物の状態
「自ら反りみて(なお)ければ」とは、我れ無きなり。「千万人と雖も吾往かん」とは、物無きなり。 

 

岫雲斎
「自分の良心に顧りみて、真直ぐてで少しも恥ずることが無い時」は、無我の境にある時である。「千万人の中へでも飛び込んで往こう」とする勇気ある時は、まさに念頭は無物の状態に在る。
 

31日 100.          
呉子の説く道

「道とは(もと)(かえ)り始に(かえ)る所以なり」と、()()()に見ゆ。兵家の此の道学を講破せんとは。 

岫雲斎
「軍隊の道と雖も結局は人間の本性にかえり、人間の当初の目的に帰るのだ」とは呉子という兵法書にある。余は、兵法家の呉起が、人間の根本問題である道徳を説き破っていようとは思っていない。