14女王卑弥呼の素顔に迫る卑弥呼の登場
                         女王国の誕生
平成25年1月

元旦 女王国の誕生 首長たちが額を寄せ合って出した結論は、「共に」一人の(みこ)を新しい首長国連合の王として擁立する、ということでした。噛み砕いて言えば、「男子の王では仮に誰が連合国の王となっても、また直ぐに覇権争いになるだろう。こうなれば、邪馬台国の高名な巫女・卑弥呼を王としてあがめ、各国の首長は皆その命じるところに従うということにしょうではないか」というわけです。こうして登場したのが、現代にまで話題をふりまいているかの有名な女王・卑弥呼なわけです。
2日 首長国連合が成立 こうして、それまで戦闘に明け暮れていた九州の首長国群は、一人の女王卑弥呼のもとに一応統合されることになります。即ち、かっての首長国群の代表者的存在であった倭奴国王は推戴されず、ここに女王が支配する首長国連合が成立したのです。(220-265)では、この卑弥呼のもとに統合された国を「女王国」と呼びました。「女王国」という名前は、恐らく中国人が付けたもので、当時の倭人が女王国と命名していたわけではないと思います。中国では、女性が皇帝にはなりません。処が倭国を見ると女性が王位についていたと言うので、魏の人々を驚かせ関心を呼んで、「女王国」という名前を付けたのでしょう。そしても卑弥呼は連合国の中の一つ、邪馬台国(原本は邪馬壱国と書く)の王族なので、「邪馬台国・・・女王の都する所」、即ち連合国王卑弥呼の居所は邪馬台国の都ということになりました。つまり「女王国」の首府は邪馬台国にあったというわけです。 
3日 評判の霊能力者が祭り上げられた理由 卑弥呼は、「鬼道の道に仕え、能く妖をもって衆を惑わす」、いわゆる霊能者でした。恐らく女王になる前から一種のシャーマンであったのです。シャーマンとして特に呪的な霊能のある素晴らしい人物だというので、人々にあがめられていたのでしょう。分り易くいえば「あの人の祈祷は効き目があり、占い予言したことはよく当たる」という評判の女性だったわけです。
4日 首長国連合の王位 系統的には邪馬台国の王族の一女性であったと思いますが、王族の女性でそうした霊能の強い人が特に選ばれて巫女として祭祀を司っていた。卑弥呼はそうした巫女として名声を博していたに違いありません。そこで、大乱の後に全体の統率者が求められ、首長たちが集まって首長国連合国の大王には誰がいいいだろうかという話になった時、男子の首長たちは勢力が伯仲して一人が抜きん出る事が出来ないので、皆の信望を集めている卑弥呼を王にしたらどうかと言うことになり、各首長たちも、まあ卑弥呼が首長国連合の王位につくなら文句はない、ということになったのでしょう。
5日 倭奴国王 こうして、男子の王たちの実力による政治的統一が頓挫して、巫女の神託による宗教的権威に基づいた連合国家がスタートしたわけです。こうして、それまで戦闘に明け暮れていた九州の首長国群は、一人の女王卑弥呼のもとに一応統合されることになります。即ち、かっての首長国群の代表者的存在であった倭奴国王は推戴されず、ここに女王が支配する首長国連合が成立したのです。
6日 女王国の首府は邪馬台国 (220-265)では、この卑弥呼のもとに統合された国を「女王国」と呼びました。「女王国」という名前は、恐らく中国人が付けたもので、当時の倭人が女王国と命名していたわけではないと思います。中国では、女性が皇帝にはなりません。処が倭国を見ると女性が王位についていたと言うので、魏の人々を驚かせ関心を呼んで、「女王国」という名前を付けたのでしょう。そしても卑弥呼は連合国の中の一つ、邪馬台国(原本は邪馬壱国と書く)の王族なので、「邪馬台国・・・女王の都する所」、即ち連合国王卑弥呼の居所は邪馬台国の都ということになりました。つまり「女王国」の首府は邪馬台国にあったというわけです。
卑弥呼の実像
7日 評判の霊能力者が祭り上げられた理由 卑弥呼は、「鬼道の道に仕え、能く妖をもって衆を惑わす」、いわゆる霊能者でした。恐らく女王になる前から一種のシャーマンであったのです。シャーマンとして特に呪的な霊能のある素晴らしい人物だというので、人々にあがめられていたのでしょう。分り易くいえば「あの人の祈祷は効き目があり、占い予言したことはよく当たる」という評判の女性だったわけです。
8日 卑弥呼誕生 系統的には邪馬台国の王族の一女性であったと思いますが、王族の女性でそうした霊能の強い人が特に選ばれて巫女として祭祀を司っていた。卑弥呼はそうした巫女として名声を博していたに違いありません。そこで、大乱の後に全体の統率者が求められ、首長たちが集まって首長国連合国の大王には誰がいいいだろうかという話になった時、男子の首長たちは勢力が伯仲して一人が抜きん出る事が出来ないので、皆の信望を集めている卑弥呼を王にしたらどうかと言うことになり、各首長たちも、まあ卑弥呼が首長国連合の王位につくなら文句はない、ということになったのでしょう。
9日 対立収拾策の結果 その王たちの実力による政治的統一が頓挫して、巫女の神託による宗教的権威に基づいた連合国家がスタートしたわけです。私はこうした大乱から女王の統合する連合国家の誕生という過程を、大乱は倭奴国のような海に生活基盤をおく通商国と弥生の農業生産活動の発展によって実力を伸ばしてきた陸に生活基盤をおく農業国との争いであり、その統合は両勢力に共通する呪術的文化によって初めて可能だったのだと把握します。即ち生活手段において相対立する二つの首長国群にとって、その対立を収拾する方法は、卑弥呼のような両者ともに崇拝する宗教的権威しかなかったのだと考えるわけです。
10日
巫女
  シャーマン
巫女
御子・神子とも書く。神がかりして神託を告げる宗教的職能者
(シャーマン) 
シャーマン

自らをトランス状態に導き、神霊、精霊などの霊的存在と直接に接触、交渉し、その力を借りて卜占、予言、治病などを行う宗教的職能者。
11日 閉じ込められた女王 とにかくも、そうした経緯で卑弥呼は連合国の王位についたわけで、女王に推戴された、共立されたということですから、決して自分の実力で女王になつたわけではないのです。みなに推されてやむを得ずなったというのが真相でした。そうして女王になった卑弥呼は、今度は巫女としての霊能が薄れると困るので隔離されてしまいます。殆ど人と接触できず、「見る者有る少なし」という状態に置かれて孤立し、一般の政務についての報告をするのは「男弟有り、(たす)けて国を治む」で、卑弥呼の弟がその役を務めます。食事から何から身の回り一切遮断され、弟しか接することが出来なくなってしまったわけです。そういう状態に置かれていたのが卑弥呼の実態でした。
12日 巫女として名声 夫壻(おっとむこ)無く」。これは巫女としては当然なことなのであって、神に仕える身ですから夫をもたない。従って卑弥呼には子供がないわけです。卑弥呼は年80歳近くなって死んだのではないかと思われます。「魏志倭人伝」によると、「卑弥呼もって死す」のは西暦248年、大乱のあったとされる「桓霊の間」に生まれ、巫女として名声を博していたとすれば、ちょうどそれくらいの年齢になると推定できるからです。
13日 弥呼の実像 ただ、この死についても、戦争中(南九州にあったとみられる狗奴国との戦い)に死んでいるので、責任を取って死んだのだとか、敵の矢に当って死んだとか言われます。然し、卑弥呼が戦場に出ることはないのです。ひたすら奥に閉じこもっていて、霊能を働かせて戦いの勝利を祈るわけですから。恐らく病死したか、一生懸命にご祈祷をしている間に死んだのか、そういう事故だと思います。「女王国」の為に祈り続けさせられた巫女?それが卑弥呼の実像です。
14日 卑弥呼推定年譜

西暦

皇帝

年号

事項

年齢

57

後漢

光武帝

建武

中元2

倭奴国王が後漢光武帝に朝貢、印綬を賜う。この頃、倭国王は男子の王が立ち世襲により王位を継承していた。

 

147

後漢

桓帝

建和1

後漢桓帝即位。

 

167

桓帝

永康1

桓帝崩ず。この頃、卑弥呼誕生か。

0

168

後漢

霊帝

建寧1

霊帝即位す。

1

178

183

188

霊帝

霊帝

霊帝

光和1

光和6

中和5

梁書・北史・太平御覧、倭国乱と記す。(147年から188年、後漢書、この間倭国大乱と記す)

11

16

21

190

後漢

献帝

初平1

この頃、卑弥呼が女王に共立される

23

220

後漢

献帝

文帝

後漢

延康1

黄初1

後漢滅亡し、魏の文帝即位す。

23

221

文帝

黄初2

蜀の昭烈帝建国(章武1)

53

222

文帝

黄初3

呉の大帝即位す。(黄武1)

54

239

明帝

景初3

女王卑弥呼が魏都に遣使朝貢し、明帝より詔書・金印紫綬

を受け、親魏倭王の称号と賜品を授けらる。

71

240

斉王芳

(少帝)

正始1

 

帯方郡使梯儁らが詔書印綬を奉じ来り、卑弥呼に与える。卑弥呼郡使を送り、使者を派遣し再度魏に答謝す。この頃、女王国と狗奴国との間に争乱起るか。

73

243

少帝

正始4

卑弥呼遣使朝貢。この時、狗奴国との不和を訴え援助を要請したか。

76

245

少帝

正始4

少帝詔して倭の大乱難升米に率善中郎将の黄幢を下賜するに決

す。

78

247

少帝

正始8

郡使黄幢をもたらし、女王と狗奴国に檄を以て告諭し両国間の交戦終結す。

この頃、卑弥呼死す、塚を築きて埋葬す。

80

15日 あらたなる統一への戦い さて、女王卑弥呼はどれだけの国を従えたかと言いますと、邪馬台国を除いて29ヶ国の首長国連合体が考えられます。即ち、29ヶ国の首長国が邪馬台国に合わさって女王国という一つの統合体が出来ていたち考えられます。けれども、その女王国の成立によって平和が訪れたかというとそうではありませんでした。女王が存在した時代に、倭国(九州)に於いては今一つ、女王国の境界の更に南の方に()()(こく)がありました。これは男子が王であったと言われる国です。
16日 狗奴国 そして、この狗奴国と女王国の間にしばしば戦争が行われていた事が「魏志倭人伝」に記されているのです。この事は、九州には狗奴国と女王国という二大勢力がその当時存在していた事を意味しましょう。この狗奴国という国について文献の解釈が分かれる所ですが、私自身は以上のように、狗奴国を女王国(首長連合国)の外において考えています。
17日 魏と女王国との関係

さて、狗奴国と女王国の間で永い間戦いが行われていますが、その戦いにおいて、女王国側、即ち29ヶ国連合体の方が常に圧倒されていて、どうしても狗奴国を抑えることが出来ませんでした。
18日 女王国の援助要請に応えなかった魏 そこで、女王はわざわざそれを魏に報告して、魏の援助を得て狗奴国を制しようとしたのです。処が魏の方では、その要請に応じて直ちに兵を派遣して狗奴国を抑えるという行動に出なかったのです。と言うのは何故かと言いますと、かって卑弥呼が魏に対して朝貢した折、魏の皇帝から「親魏倭王」という称号と金印紫綬の印綬を受けていいます。その事は、女王国は魏の属国であり、卑弥呼は魏から女王国を統治することを任されている王である、ということを意味します。そうであれば、苦境に立っている卑弥呼から訴えがあったのですから、当然、魏は卑弥呼を助けて直ちに狗奴国を討伐しなければいけないわけです。処が魏はそれをしなかった。
19日 ということは、女王国と同様に狗奴国も魏に朝貢していた。そこで両方とも魏に対しては属国であるから、一方の女王国のみに味方してもう一方の属国である狗奴国を即座に討つということができなかった、と解釈できるのです。中国の慣例からしますと、自分の支配下にある属国間の争いは、これを禁止する、そしてそれに従わない者は共同の敵として討伐するということが決められています。
20日 卑弥呼の死去 そこで魏は使者を派遣し、女王卑弥呼と狗奴国の王に対して、「檄を為して之を告諭」したのです。つまり、檄文をもって「属国間の私闘は認めないから直ちに停戦するように」という勧告をしたのです。そして、もし狗奴国がそれに従わず、どうしても女王国を攻めることをやめなければ、その時初めて魏は女王と一緒になって狗奴国を討伐するという布告をしたのです。狗奴国の方も、その魏の告諭に従って停戦をしたと思われます。その後、女王国は苦境を脱したのですが、女王卑弥呼はその戦争中、或は停戦直後の頃に死去します。

註 檄昔の中国の徴召または説諭の文書。木札に書いたという。
21日 女王国の消息 狗奴国との戦争はやんだのですが、女王国では女王卑弥呼が亡くなったため、その後を継ぐ王を立てなければなりません。処が、「男王を立てしも、国中服せず。更々相誅殺し、当時千余人を殺す」、男子の王が立とうとしたところが、また国内が乱れて、千人余の人々が殺された。つくり再び内乱が起きたと記されています。
22日 魏の圧力と()() 魏はその状況を受けて、使者を派遣し、説得して王たちが内乱をやめさせ、卑弥呼に代わる王を択び、治安を維持しようとしました。こうして魏の圧力も加わって、漸く首長連合国の王という地位に、再び卑弥呼と同一族の女性で年が13歳という巫女がつきます。従って、この首長連合国では、女王が二代続くことになるわけです。こうして、二代目女王として、巫女であった宗女(そうじょ)()()が登場します。
23日 八乙女 卑弥呼自体が日本の伝承では、八乙女などと言われるように、巫女は一つの集団を以て修行し、その中の一人がどこかへ派遣されるという体制がありました。壱与は宗女ですから一族の娘ですが、卑弥呼の子供ではありません。然し壱与が一番霊能があって確かだ、13歳だけどしっかりした巫女だからという訳で、巫女集団から派遣されて女王の地位におさまったという訳です。
24日 歴史の暗部へ この壱与が一度朝貢したという記録が残されていますが、その後のことは中国の史書に伝えられていません。以上、大体の西暦第二世紀から第三世紀らかけての女王国の状態は「魏志倭人伝」を通して窺われます。然し、女王国の消息は壱与の朝貢以後ぷっつり切れて、全く不明となり歴史の暗部に消えてしまいます。 
15講 邪馬台国論争--九州か大和か
25日 邪馬台国の謎

邪馬台国の謎解き論争
卑弥呼の統治した女王国(邪馬台国を含む首長連合国30ヶ国)は一体どこにあったのか---これは最も激しい論争が続いている古代史上の最大級の謎と云ってよいものです。
26日 最終的な結論が出せない状態 いわゆる、邪馬台国九州説と大和説という二つの学説が江戸時代の末期から存在し、それが今日まで尾を引いて大論争になっているのです。そうではなくて女王のいた頃は大和であるということを主張するのが大和説です。この二つの何れが正しいかということで、長い間論争が繰り返されているのですが、未だに最終的な結論が出せない状態です。
27日 魏志倭人伝のみ それを決定づけるには、今のところ「三国志」の中の「魏志倭人伝」に出てくる倭国のことに関して徹底的に追求していく以外に方法がありません。というのは、文献上、邪馬台国のことを初めて著したのは「魏志倭人伝」であり、他の「後漢書」や「梁書」にも見える邪馬台国は、どれも「魏志倭人伝」からの孫引きであると見られるからです。
28日 後漢書 ちなみに「後漢書」は後漢(25-220)の歴史を扱い「魏志倭人伝」の入っている「三国志」の方はその次ぎの魏・呉・蜀の三国分立時代の中国の歴史を扱うのですから、書かれている内容は「後漢書」の方が古いわけです。
29日 信頼度は魏志倭人伝 然し、「魏志倭人伝」の方は、第三世紀の人である陳寿が著し、「後漢書」の方は第五世紀の人である范曄が著したという事情があるのです。従って、邪馬台国の時代である第三世紀を生きた陳寿の著した「魏志倭人伝」の方が信頼度が高いことはいうまでもないでしょう。
30日 解釈の問題 邪馬台国はどこにあったか----いわば邪馬台国の謎とでも言うべきこの問題に対する論争は「魏志倭人伝」の解釈の問題だということができます。即ち、朝鮮から邪馬台国へ至る行程記事の読み方や語句の解釈の仕方が様々に考えられるため、そこに論争が生じてくるわけです。 
31日 注 梁書 24史の一。南朝の梁の四代の事跡を記した史書。本紀六、列伝50巻。唐の姚思廉、魏微が629年奉勅撰。