安岡正篤先生「一日一言」 そのC

平成25年1月 

元旦 易は永遠の創造

易の説くところは、人生と自然に行き詰まりというものは無く、永遠の創造、クリエーションであると云うことであります。易学を学ぶということは、我々の存在、生活、そして人生を日々新たにしていく、即ち維新していくということでありまして、よくこれを学べば我々は精神的に行き詰ると言うことはありません。そして興味津々と申しますが、学べば学ぶほど楽しいものでありす。(易と人生哲学)

2日 未完成の必要 久しく世界に雄飛してきた英国、昨今の運命ほど感に堪えぬものはない。イギリスは出来上がってしまった。老成したと言うことが彼の一番の悲運である。老子の言うように、人も、国も、民族も、常に何処か若い未完成の処がなければならぬ。然るにイギリスはその若さを失い成長が止まってしまった。世界の植民地も取れるだけとった。生活程度も上りつめた。頭も完全に常識化し、自慢の討論政治もいつか小田原評定に堕し、財政経済も型の通りになった。(世界の旅)
3日 安岡正篤の願い

山の幸、海の幸に恵まれた日本は、これから大いに人の幸をも豊かに示して、世界の心ある人々が、シェークスピアを愛し、ゲーテを慕い、ナポレオンを語るように、世界の隅々から日本に集まって来て、伊勢にお参りし、明治神宮に額づき、西郷南州を語り、近松門左衛門を愛し、楠木正成を慕い、万葉集を誦むようにしたいものである。                   (世界の旅)

4日

久敬、久熟

人間の交わりでも、年が経つにつれて敬愛の深まる場合もあれば、逆に鼻について嫌いになり、つまらぬと思うようになる場合もあります。孔子は「(あん)平仲、善く人と交わる。久しうして人、之を敬す」と評しております。(きゅう)(けい)久熱(きゅうねつ)、これはインスタントの反対です。人間もだんだんと付き合っているうちに、より深く尊敬したくなるような人物でなければ駄目であります。    (人間の生き方)
5日 Achtung() 敬、Achtungは一切の道徳的活動と利己的活動とを(わか)つ根本の点である。例えば、敬がなければ、親に食を捧げるものも犬に与えるのも大差はない。妻を娶ることも娼婦を玩弄することも相違はない。敬(Achtung)を持って始めて人間の道徳の世界が開ける。故に敬は道徳の根本問題である。 (古典のことば)
6日 評判なるもの 人の評判など当てにはならんものであります。大衆というものは種々雑多ありまして、そんなに高いことが分るものではなし、自分の利害だけで生きている者は、自分の利害に合わない者を悪く言うに違いない。自分の感覚的な低級な趣味に生きている者から言えばそんな程度の頭や感情で分らん人間を悪く言うのは当たり前である。さりとて、誰からも悪く言われると言うのも、どっかいけないに相違ない。だから立派な人が褒めて、いい加減な奴がくさすというのは、これが本当の人です。          (講演集)
7日 恩と善 恩を施すということは非常によいことである。然し、報を求むることはいけない。自分が善をなす、それを人に知られることを求めると言うのは、それは既に不全な気持ちであり、折角の善を汚すものである。それは何か一つの虚栄心であり、作為であり、欲望である。そうなると他人は直ぐにそれを看破(かんぱ)する。そして却って反対に(そし)りを得るかも知れん。善をなすと言うことそれに甘んずる、それでいいのである。人に知られようと思って善をしてはいかん。             (この国を思う)
8日

老婆心と進歩

才智・技能に勝るということは良いもので、望ましいことではありますけれども、それだけでは人間として失格です。やっぱり人間として至る為には、人に真心を尽くす、世間から言うならば、うるさがられるほど思いやると言うことが大切です。老婆心は人に対してだけではありません。学問の場合でも、まあ、これぐらいにしておこうと言うのが一番いけないので、これでもまだ足りない、もう少しこうしてみたらどうだろう、つまり老婆心が無ければ進歩しません。                  (人物を修める)
9日 武とは何か 武は(ほこ)という字と止めると言う字から成っておる。(ほこ)というものは生命を断つものとして凶器と言われておる。戦争は一番の罪悪で生命を殺戮する。大きく言えば造化に反する。この宇宙人生は絶えざる生成化育である。その点かせ言って殺生(せっしょう)は一番根本的な罪悪である。それを止める。即ち人間を(しいた)げるところの邪悪を止める努力、これがすなわち武という文字になっておるのであります。                     (心に響く言葉)
10日 機、チャンス、特異点 全て物事には機というものがある。ここと言う所を活かすか、逸するかで大局に大きく響く一点を言うのである。商売に商機があり、政治にも政機がある。物理学者もシンギュラー・ポイント(singular point)を重視する。数理や普遍的原則ばかりでなく、特異点(シンギュラー・ポイント)に注意せねばならぬことを説いている。一片の煙草の吸殻はそれ自体何でもないが、この微物が時に大山火事を惹き起こすのである。 (新憂楽志)
11日 機と造化 造化というものは「機」の連続である。自然の造化の働きには絶えざる変化がある。その変化には変化の微妙な一点がある。これはみな機であります。こうして、変化あるいは造化の一点を機という。商売には商機というものがあり、政治には政機というものがある。機と言うものをうまく捉えれば、我々の考えも行為も生きる。                      (禅と陽明学・下巻)
12日 就職 職業に就いた。これで、やれやれ月給がもらえて生活が安定した。これから一つ何かエキスパートぐらいになって早く楽したい、と言うような事を考えていると、非常に早く人間が限定化されてしまう。限定されると、それだけ麻痺沈滞してくる。つまらない人間になって、早く人格的定年に達する、人間的定年に達する。(運命を創る)
13日 職業の意義 人間はその職業を通じて生活する。つまりそれによって生きてゆく上に必要な収入、所謂生活費を得るのでありまして、これは誰にもわかる職業の第一の意味であります。しかし職業というものは単にそれだけのものではない。それを通じて世のため、人の為に役立ってゆくという意義があるのであります。従って、世のため、人の為に役立つ意義・効果の偉大なるもの程、それは貴い職業であって、もしそういう意味における内容が無いとすれば、いかに生活が豊かに出来ても、これは賤しい職業と言わねばならんのであります。(活学第二編)
14日 男性に必要な陰原理 女性は内面的で、頭脳とか才覚とか、あるいは名誉欲、功名心、世間的活動、そういうものは控え目の方が女らしい。これ対して男性は、体躯も立派で、頭脳明晰、才能に富んで、理論に長じ、功名心もある、と言うのが男らしい。それだけに男性は、陰原理手なものを取り入れないと、才知に倒れ、理論に破れ、闘争に敗れます。常に内面的・道義的修養につとめ、優雅な趣味を持たないと長続きしません。                 (人物の条件)
15日 大丈夫 大体、大丈夫(だいじょうぶ)は女に好かれるようではいけない。これは普通の人間の考えと反対ですが、そもそも大丈夫は、それくらいの気概がなければならない。男と生まれて、金を欲しがったり、名誉を欲しがったり、地位を欲しがったり、女を欲しがったりするようでは、まだ器量が小さい。金や地位で男になるようなのは、まだ本当の男ではない。そんなものは、皆人に任せて、露堂々と世に立てるこそ真の大丈夫です。          (運命を開く)
16日 西洋文化と東洋文化の違い 西洋文化は明らかに外向性を帯びております。即ち物質的であります。理知的で、才能本意で、功利的であります。どちらかと言えば男性的であります。難しい言葉で申しますと(けん)(とく)(常に前進しようとする精神)文明であります。東洋文化は遥かに内面的、精神的なる特徴を持ち、理知的よりは情意的であります。功利的よりも趣味的であり、才能的よりは(とく)(そう)的であります。男性的よりは女性的です。(こん)(とく)(大地が万物を生育する力)文明であります。              (日本精神通義)
17日 礼儀と文化 文化という語は、近代人によって大いに汚された。文化の人と言えば今は恥なき軽薄(けいはく)才子(さいし)を偲ばしめる。しかし真の文化は、礼有らねばならぬ。文化の人は礼の人でなければならないのである。礼は小にして人々の面目肢体を正し、大にしては()(こく)天下(てんか)の生活を整える。敬義立ってここにまた礼の美しさを観ることができる。                  (儒教と老荘)
18日 文化とは何か 一体、文化とは何でありましょうか。文化というものは、結局、人間の生をして生甲斐あらしめるものと規定することが出来ましょう。我々が一民族の文化と呼ぶものと、宗教と呼ぶものとは、実は同じものの異なる面にほかならぬと言うことができます。つまり一民族の文化は、本質的にはその民族の信仰の、いわば肉体化(incarnation)であると言うことであります。    (孟子)
19日

美しい調和を

大衆の時代に真の人間性というものがなくなって行く。徒に騒がしい競争音とアトム化した人間社会が出来上がるということは恐ろしいことで、どうしても今後の世界文化というものは、この弊を改めて、やはり美しい人間性、個性、特質、勝れた人格教養を持った個人、個人を大切に育てて行かなければならない。その美しい調和による真の文化世界というものを期待しなければならない。(心に響く言葉)
20日 真実生活 農村人は常に最もよく自然に学ぶ人であるばかりでなく、よく自然を楽しむものでなければならぬ。しかるに「多忙」は、人間として最も意義深き、この自然に学び自然を楽しむ生活を奪ってしまう。はたして現代の我々は真に味わうべきいかなる生活を持っておるのであろうか。例えば、古人はよく眼の生活や耳の生活の福音(ふくいん)を説いておる。眼の生活について言えば「日光の初めて出づるを観る。夕日の返照(へんしょう)を観る。浮雲の変幻を観る」なるほど雲を観るということは面白い。(この国を思う)
21日 徳義の実現 我々は我々の本業を通じて徳義の世界を実現せねばならぬ。人間は徳義の世界であり、動物の世界、獣の世界ではない。機械の世界でもない。人間の世界であるから、徳義の世界を実現しなければならんが、それは空理空論ではだめ。或はセンチメンタリズムではだめだ。自分達の日々の現実の生活を通じて本業を通じてやらなければならん。                     (続人間維新)
22日 耕人耕土 よく世間では、「詩をつくるより田をつくれ」と言いますが、それは違うと思う。寧ろ、「詩をつくるように田をつくれ」と言いたいのです。詩と人間との交感ではないですか。だとすれば農耕はそのまま詩ではないですか。一くわ、一くわで、単に土を耕すだけでなく同時に詩心も耕して欲しいのです。耕人耕土すべてこれ詩なり。(しん)(でん)(きょう)(さい)なく、()(こく)長春(ちょうしゅん)ありということを覚えておいて下さい。(老農と坂)
23日 真剣な境地 本当の哲学とか信仰とか文芸というものは、人間のたわむれでなくて、その本質を言えば、人生の真剣な境地から生まれるものであります。そこで真面目な思想、文芸が愛される時は、人間の真面目な時であるということが出来るのであります。また人間が真面目であるときは、思想、文芸もまた真面目である。 (暁鐘)
24日 公害は私害 公は「私」に対する文字であるところから、内に対して外という風に解釈して、公害を何か自分からかけ離れた外の害のように思っている。処が公害というものは全てこれ私害の大きくなったものです。各人がよく心得て正しく生活しておれば、こんな問題は生じなかったはずであります。ところがその心がけと智慧が足りなかったことが積もり積もって現在のような結果になったわけですから、とても一朝一夕に改まるものではありません。  (人物を修める)
25日 公害、私害、工害、巧害 そもそも公害という言葉自体がおかしい。公とは私に対する語であって、公が悪いわけではない。従って公害などというと、私人が公にくってかかる、と言った方向へ走り易くなる。公害というのは実はみな私害に外ならないのであって、これは工害といった方が当っておる。人の巧、たくみによって作られた文明の害、巧害と解釈してもよい。                 (活学第二編)
26日

役人道徳は命懸け

信念ある役人は何も恐れることはない。否な益々勇往邁進するがよい。然し、いやしくも役人たることは恐ろしいことである。命がけのことである。能く恥を知る者、西郷南州の喝破したように、名利はおろか、命もいらぬ者にして始めて役人たるべきであるという役人道徳の確立を何より急務とすべきである。                (経世瑣言)
27日 結婚は限定 結婚は、ある意味に於いて、惜しむべき限定であります。独りぽっちでおって、神経衰弱になっても困るけれども、物解りの悪い亭主と結婚する位い悲惨なことはない。だから西洋でも未婚の婦人のことを、single blessedness神から祝福された一人と言うのであります。結婚式に行ってお芽でとうと言える結婚式は果してどれだけあるか、お悔やみを言った方が良いような結婚式が実際は多いのであります。                 (論語・老子・神)
28日 津波を考える 津波は実に得難い経験である。いくら()いたくても遭うことの出来ない経験である。この津波は私に明らかにそれと意識は出来ないが、非常に多くの何物かを与えてくれたように思われてならない。そして今後何かの契機に触れて、例えば水雷のそれのように、大なる力が爆発するに違いないような心地がする。自然の総ては何一つとして我々に無意義なものが無いらしい。    (童心山筆)
29日 命は絶対 人間の考えるような、何ものに依ってでもない、何の為でもない、天・造化絶対の作用を「命」という。生は生命であり、性命である。何故、何の為に生まれたかなどは心の問題で、物思うということも、何故、何の為に物思うかではなく、物思う、即ち、我れ在り(cogitoergosum)、我れ在り、即ち物思うのである。長者の言いつけ、国家の法令は不服を許さない絶対的なものであるから命令である。この子はかくなければならぬ、こうさえあればよいのだと言う絶対的意味で名をつけるのを命名という。 (易学入門)
30日

命名の真義

名前をつけるとは大事だ。だから、名前をおろそかにしてはいかんので、「命名」と言うんだ。「命」と言う字は絶対的という意味だ。いのちと言う。だから非常な意味を持ってつける。子供なら「お前は大きくなったらお前の名の通り、この通りに修行すればいいんだよ」という意味でつけるのが命名だ。                  (心に響く言葉)
31日 醜は魅力ある美

そもそも芸術に言う美とは(しこ)の美という。醜でなければ本当の美とならんと言うとおかしいが、醜が最も魅力ある美になる。醜を美にすることが芸術である。大体あの凸凹の石の絵というものは、一番(えが)きにくい。東洋の画は石から始まって石で終るというくらい石を描くことは難しいものだ。あれは醜の美の代表と言われる。美人画みたいなものは美術から言うとつまらない。 (続人間維新)