昭和天皇のどこが偉大であったか

エドウィン・ホイトというアメリカの軍事史家、ジャーナリスト。週刊誌『Collier』の編集長、CBS・TV NEWSのライター、製作者を務めた。著書に「空母ガムビアベイ」がある。彼の著書の一つに「世界史の中の昭和天皇」がある。そして、昭和天皇のどこが偉大であったかと問いかけている。その著書「世界史の中の昭和天皇」の序文を引用して見よう。

平成23年1月

元旦 昭和天皇のどこが偉大であったか エドウィン・ホイトというアメリカの軍事史家、ジャーナリスト。週刊誌『Collier』の編集長、CBS?TV NEWSのライター、製作者を務める。著書に「空母ガムビアベイ」がある。彼の著書の一つに「世界史の中の昭和天皇」がある。昭和天皇のどこが偉大であったかと問いかけている。その著書「世界史の中の昭和天皇」の序文を引用して見よう。
 2日 序文 「私は、ジャーナリストとして太平洋戦争に従軍した経験があり、そのため、戦後は日本の近代史に深く傾倒するようになった。それと同時に、昭和天皇という人物に、どんどん魅きつけられていった。世界史的に見ても、これほど波乱に満ちた“君主”は稀有だからだ。また、欧米人が天皇というものの本質をいまだに誤解したままであることにも大いに不満があった。
 3日

そこで私は、天皇の生涯を一冊にまとめようと試み始めた。だが、そんな折、天皇重体のニュースが世界中を駆け巡り、それに伴って欧米のジャーナリズムは、なんと“昭和天皇・戦犯説”を再燃させたのである。

 4日 天皇のイメージ

しかも、その論調は終戦直後、マッカーサー司令部が即断した(裕仁=専制(マキャ)(ベリ)(スト))の域を何一つ出ておらず、欧米における“天皇のイメージ”は半世紀もの間、凍結状態のままであったことに改めて失望の念を深くした。

 5日 誤ったイメージの欧米人

実のところ、明治以降、日本の天皇は一貫して立憲君主であり続けた。だが、日本の敗戦を処理した「東京裁判」でも、その点が明確にされず、ヒットラーやムッソリーニと同一視され、誤ったイメージが欧米人の心の奥底に(くすぶ)りつづけることとなった、と言えよう。

 6日 東京裁判の欺瞞性

そもそも、東京裁判とは、戦勝国が勝者(ビクトリー)()都合(ジャスティス)によって敗者を一方的に処断したものであり、厳密な意味では裁判とは見做されないものだ。

 7日 東洋人差別

これが戦争裁判の正体

例えば、戦前、昭和天皇は米国や豪州を敵視していたことが問題視されたが、その理由がこの二国の東洋人差別にあったことを、連合国側は採りあげなかった。まことに、公正を欠くが、これが戦争裁判の正体であり、しかもその後の世界に於ける潮流は、この時点で勝負が決まったのである。

 8日 天皇に対する誤解を説く

然し、天皇に対する誤解は、日本及び日本人に対する誤解でもある。昭和天皇の生涯を客観的に見直すことによって、昭和天皇の核心に触れたいという私の思いは、いやがうえにも強まった。

 9日 一層の自信

また幸いな事に、画期的な資料の新発見も続いた。一つは、中央公論誌上に載った「牧野伸顕日記」であり、いま一つは文芸春秋がスクープした「昭和天皇独白録」であった。これらの資料は、ともに天皇が軍国主義体制の“囚われの身”であったことを如実に証明しており、私は永年の仮説に一層の自信を深め、以後、この原稿を淀みなく書き進めることができたのである。」           エドウィン・ホイト

10日

序章 隠され続けた「真実」

天皇は他国の元首とどこが決定的に違うか

(前略)・・1987年の秋、突如として日本中がパニックに襲われた。918日に天皇が重体だと報じられたからだ。そして今更ながら、天皇というものの存在の偉大さを、日本人は等しく思い知らされたのである。一度(ひとたび)、天皇重体の報に接するや、何十万もの人々が天皇の恢復(かいふく)を祈るため、全国各地から皇居へと押しかけた。その中には十代の若者も数多く含まれており、台風シーズンの豪雨をものともせず、彼らは皆、奇跡を期待して天皇の恢復(かいふく)を祈ったのである。
11日 天皇に対して強烈な感情を抱くのはごく自然な日本人

と同時に、多くの日本人は、天皇に対して強烈な感情を抱く自分自身を発見し大いに驚いた。今もって日本人の精神的な支柱だったのである。日本人はこぞって天皇の治癒に異常なほどの執着を見せた。断っておくが日本は最先端の近代技術国家である。それかせ何故、恰も前近代の呪詛国家のように、これほどの執着を見せるのか。答えは一つ、それ以外のことができないからである。天皇が演じている役割は、欧米におけるローマ法皇のようなものだと言えば一番分かり易いのではないだろうか。

12日 天皇こそが日本の本質

神ではないにせよ、単なる人間では決してない。その法衣を身につけている限り、ローマ法皇は無謬性、つまり完全なる存在を装うことができるわけであり、日本国の天皇も、まさにそのような存在であった。そして何よりも、天皇こそが日本の本質であったのだ。

13日

そこでドラマは勝手に続くことになった。日本はカルチャーショックに見舞われ、それはおよそ外部の世界からは測り知ることのできないものがあった。議会は閉会され、内閣は閣議を中断した。日本への、或は日本からの外交使節は中止されるか延期された。

14日

祭りや集会も中止された。日本全体が悲しみに満たされ、その雰囲気は国中に徹底したものがあり、ある新聞の解説者などは、経済に対して深刻な影響を及ぼすのではないかと語ったほどである。日本を襲ったショックはポツダム宣言以来最大のものであった。

15日 「天皇陰謀説」の誤り そして又、この天皇の病をきっかけにして、必ずししも日本に対して友好的とは言えない国々から、またしても追求が行われた。太平洋戦争に関して責任があるとの日本ではないか、そして天皇は戦犯ではなかったか、という議論である。
16日 日本政府は誤解を正すべき

このような諸外国の見解に対し、日本政府は誤解を正すべき、プレスセンターで会見を行った。出席者は歴史家・児島襄氏、大阪大学教授・山崎正和氏、ジャーナリスト・星野甲子久氏であり、彼らは海外の特派員に対し、日本独自の天皇制と天皇の役割について熱心に説いた。

17日

政治的に利用しようとする政治家、評論家がいる。外国人記者たちは古臭い質問を投げかけて含むところがある・・・、1982年の張作霖の爆殺事件や、満州国建国にいたる満州侵略、そして中国との戦争について昭和天皇に責任があると言いたい人々である。世界を征服しようとした日本の謀略の根底に昭和天皇の存在があるという理屈は、ずっと以前から続いている。

18日 事実誤認の訂正を日本人はやれ

その代表であるデヴィド・バーガミニ氏は20年も前に、戦時中の侵略と残虐行為を天皇に結びつけた内容の書物を著している。それは、貧弱な根拠とこじつけとしか思えない暗示に基づくものであった。これは日本の左翼系学者からも事実誤認と非難を受けたほどであった。だが1988年、BBCがこれに加担した。これは不注意かつ不正確なドキュメンタリーであり、あるイギリス人学者などは50以上の事実誤認を指摘した。

19日

亡霊は過去のものとなった

昭和天皇が崩御されたのは198917日であった。昭和天皇の崩御と共に、シナ事変、太平洋戦争の亡霊も過去のものとなった。

謎を解く鍵 日本の皇室の真実
20日 謎を解く鍵

日本の皇室の真実
日本の天皇というのは慣習上、ほかの国の元首などとは比較にならない程、不自由な存在であり、誤解を恐れずに言えば隔離された存在だとも言える。ある意味では、日本の君主というのは女王蜂に近い、側近たちは天皇の周囲に集り喜んで命を捧げはするが、宮廷の外での行動や支配に関して自由を与えようとはしないのである。
21日

昭和天皇の治世の前半は天皇の名のもとに多くのことが行われた。しかし、それは天皇の意思に基づくものではなかった。そして、この間の事情は父大正天皇や祖父・明治天皇の治世下でも同じであった。

22日 天皇を失うと
日本国は瓦解の恐れ

尤も、日本人にしても、こういった仕組みを理解している人間は少ないのだが、まさに、このようなシステムは、民衆を支配するために、日本の権力者たちが、何百年もの間に綿密に練り上げたプログラムであり、そうである以上、天皇とは戦前においても権威の象徴に過ぎなかった。しかもこのプログラムを変革することは建築物の屋台骨を取り外すことであり、その瞬間、日本国は瓦解しかねないのである。

23日 日本の皇室の真実

だから昭和天皇が自分の役割から踏み出そうとする時は、いつも側近たちが引き戻し、権威の源泉でなく、権威の象徴としての立場に留めおこうとしたのであった。このことこそ、西洋の世界には理解され難い、日本の皇室の真実なのである。

24日

運命の御前会議

生涯で二度、昭和天皇は、「国を災厄から救うために日本の憲法の規定を破った」。明治憲法には「天皇は統治はするが、国務行為は国務大臣その他の輔弼が行い、天皇には政治上の責任がない代わりに、具体的に政治を指導することはない」と規定されていたにも拘らず、昭和天皇は規定を破ったのである。
25日-
27日

この二度のうち、世界にとって、より重要な「決断」は1945814日のり夜に訪れた。当時、太平洋戦争はまだ激しく、日本に対して既に原子爆弾が使用されていた。場面は、壮麗な石垣の掘に隠れた皇居内の地下防空壕であった。その皇居で天皇は、成人してからの大部分を「籠の鳥」のように生きてきたのである。暑く、そしてじめじめした夜であった。月高く、緑深い植え込みには蛍が瞬いていた。
防空壕に参集したのは、最高戦争指導会議の構成員であり、そこには、首相、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣、国務大臣と何人かの天皇側近が含まれていた。彼らは防空壕の一室内に長さ一杯、横二列に座っていた。頭上では非常灯が点滅し、天皇家の紋章を織り込んだ分厚い布で覆われたテーブルを黄色く照らしていた。

各自の前には書類が麗々しく積まれており、冷房されていない防空壕内の暑さにもかかわらず、全員が正礼装軍服もしくは高衿礼服を着用していた。彼らは汗をかきながら座していた。

28日-
31日
日本の悲劇

これら出席者の一人に、保科善四郎中将がいた。保科中将は個人的には、アメリカ及び英国に対する戦争は常に反対してきた。彼は戦史を学ぶためにエール大学で研究した経験があり、その為ほとんどの日本人が持っていなかったアメリカに就いての知識を持ち、その軍事力と産業の潜在能力をよく知っていた。また1930年代に海軍急進派と対立した時には、山本五十六、米内光政の二人に協力し戦争回避のための努力を惜しまなかった人物である。しかし、保科中将は自分の考えをあくまでプライベートなものと戒めてきた、なぜなら、軍事独裁体制の中では、いかなる戦争への反対も、非国民のレッテルを貼られ退役への片道切符となるからである。
だから、彼は東條英機大将とその軍隊が日本を連戦連勝から連戦連敗へと導くのをただ黙って見てきた。つまり言論の自由が認められなかった戦前の日本の悲劇がここにも浮き彫りにつれていたのである。
大元帥としての制服を身に纏って着席していた天皇は、極めて真剣で顔は蒼白であった。ガダルカナル以来、日本が守勢に回ったことにそれとなく気づいていたものの軍事的敗北が決定的となった事実に、誰にも増して衝撃を受けていた。ガダルカナルの陥落を前に、彼は陸軍に対して海軍の作戦に呼応した作戦を採るように強く要求したがそれは実行に移されなかった。