人物と教養D 平成25年1月  安岡正篤先生講話 

    第三講 人間の根本義 仏教について()

平成25年1月

元旦 十如(じゅうにょ)()

さて、その十二因縁によって我々の人生が始まるわけですが、その因縁の働きを更に考察したものが「十如(じゅうにょ)()」です。お経によって多少の相違がありますが、最も代表的なものは、法華経の十如(じゅうにょ)()---(にょ)是相(ぜそう)(にょ)()(せい)(にょ)是体(ぜたい)(にょ)是力(ぜいりき)(にょ)是作(ぜさ)(にょ)是因(ぜいん)(にょ)()(えん)如是果(にょぜか)(にょ)是報(ぜほう)(にょ)是本末究竟(ぜほんまつくぎょう)(とう)---です。葬儀などで僧侶の読経するのを注意して聞いておりますと、よくこれが出て参ります。

2日 相、性、体 「相」というのは、我々の経験するこの現象世界、表現された世界のことで、その内容を「性」と言い、内容の根本が「体」であります。例えば、我々はこういう姿・形()相を持った人間でありますが、その中に自ら自性と言うものがあり、更に自性には本質的なもの、即ち「体」があります。
3日

()(いん)(えん)()

これが観念的でなくて創造的エネルギーになると、今度は「力」になる。力は微妙な働きをするから「()」です。()はいろいろの「因」をつくり、それが「縁」--結び・出会いによって「果」を生ずる。つまり因は縁によって果となるわけです。

4日

小乗仏教

われの経験するこの世界は、正に複雑極まりない因果の世界であります。因と言っても無限の因があり、それが縁によって結ばれて、無限の果を生んでゆく。その因果の法を悟って仏道を成ぜんとするのが、ベトナムやタイ国などに深く浸透している所謂小乗仏教であります。小乗仏教と言うと何か下等のように思いがちですが、これは大きな間違いでありまして、小乗ほど直接的で実践的なものはありません。

5日 大乗仏教

これに対して、理論的・哲学的に発達したのが大乗ですから、大乗も小乗に基づかなくては空理空論です。小乗を排する大乗は大乗でなく、また大乗を含まない小乗も凝滞(ぎょうたい)固定して発達がありません。

6日 因果 因果というこの仏教の専門用語は一般に普及して、今日では、もう民衆の普遍的用語となにっています。そして、「あいつは因果な奴だ」とか、「因果な話だ」などとよく言うのでありますが、然しこの言葉をよく味わってみると、人間生活というものは如何に誤りや悔い、罪の多いものであるか、また因果は善い因果とならずに、如何に多く悪因悪果となってゆくか、ということを物語っておると考えます。
7日

勝因勝果(しょういんしょうか)

善い因縁によって善い結果を生じることを善因善果、勝れた因縁によって勝れた結果が生ずることを勝因勝果(しょういんしょうか)と言い、また全ては縁から始まるという所から縁起(えんぎ)と言います。

8日 果報 縁起の善し悪しによって因果の善し悪しが決まります。縁を尊ばなければならぬと言うのはその為です。縁に左右さけて果が決まり果は相対的に報を生ずる。「果報」という語は、果報者というように因果とは逆に好い意味に使われます。これは人生の長い経験から出た語で大変面白いと思います。
9日

(にょ)是本末究竟(ぜほんまつくうきょう)

大抵、因果なことがあれば、そこで参ってしまうものですが、然し参ってしまったのでは人間は終りです。果から「報」を得て生の進歩があるのです。そこから果報が先の幸福を意味するようになっていったわけであります。そうして、最後の「(にょ)是本末究竟(ぜほんまつくうきょう)」というのは、これらは皆一つ一つが究()となり竟()となる一連一環のものであると云うことです。そこで、これを回転して是相如(ぜしょうにょ)()性如(しょうにょ)・・・。又これを三転して、相如(しょうにょ)()性如(せいにょ)()・・・・とくるくる廻してゆけば、百如(ひゃくにょ)()にも千如(せんにょ)()にもなるわけです。

10日 人生輪廻(りんね)

我々の宇宙・人生すべては十如(じゅうにょ)()で、これを葬儀の時などに読経するのは、その人の死に当って人生輪廻(りんね)の理法を死者・生者に聞かせているわけです。この現実の生活の中で十二因縁・十如是をしみじみ読んでみると、過去のことが反省されると共に、これから先のことが想像されて、限りない情味が湧いて参ります。この十二因縁から道諦に入り、実践から基本仏教の(はっ)正道(しょうどう)が生じるわけです。 

第四講

仏教について()

11日 時世と活学

一般大衆

マスコミ、ジャーナリズム
さて私自身の色々な支障や、皆さんの方のご都合等の為に、本講も間が延びまして、それこそ間抜けという語の通りになってしまいました。その間、時局は内外共に著しく変化し、如何なる無頓着な人々も注視・注意せざるを得ないような事象・問題・議論が紛糾して参りました。
然し、こういう風に時局が深刻且つ複雑になって参りますと、なかなか一般大衆には本当のことが理解し難い。マスコミ、ジャーナリズムのようなものでも、問題によっては、自ら思想や言葉も専門的なものが多くなり、民衆・大衆は端的に消化しきれないものですから、専門識者の意見や議論はなおさら理解できません。その為に折角立派な意見議論も一部の限られた人々の間に留まってしまいがちとなります。それらの中で最近特に深刻に用いられるようになってきている重要な語を二、三採りあげてみたいと思います。
12日 シンギュラー・ポイントとハーフウェイ

先ずその一つは、これは最初の講義の時にちょっと触れましたが、シンギュラー・ポイント(singular point 特異点)と、これに伴うハーフ・ウェイ(half way-後半段。元来は物理学の専門用語で、放射性物質の原子核の半数が崩潰するに要する時間を言う)と言う語。もう一つはスタシス(stasis)と言うヨーロッパ中世哲学用語であります。人間ばかりでなく、全て物事には妙な運というものがあると見えて、中世に流行ったこの語が思いかけず近頃になって、ヨーロッパ・アメリカ等の専門家の間から復活?再び用いられるようになってきております。

13日 大異変の前兆

簡単に説明しますと、先ずシンギュラー・ポイント、特異点というものは、これは現象の世界に常に伴うものであります。例えば水を沸かします。暫くは何の変化も異常もありません。そのうちに湯気が立ったり、泡が出たりしますが、それだけの事で別に何のことはない。処がそれが、何のことはないと思って安心しておると、それこそあっという間に急激に沸騰し始める。いかにもその沸騰が突然起こったような気がするものです。その沸騰点がシンギュラー・ポイントであります。そうして、おや、煮えくり返っているぞと思っておるうちに、異常なスピードでぐんぐん水が減って行って、時には噴出したり、破裂したり、と言った大異変が起ったりする。この沸騰してから後の半分はスピーディな変化の推移をハーフウェイと言うわけです。

14日 歴史も病気も同じ

これは生理でも歴史でも何でもそうであります。我々の病気を考えてみても、初めのうちは殆ど気づかない。処が或る時期にくるて突然、「おやっ」ということが起る。血圧が上がったとか下がったとか、心臓に障害が起きたとか、或は男であれば、今まで元気であった人が急に所謂インポになったりする。正にシンギュラー・ポイントです。処が一度そういうことになると、ぐんぐん異常が進み、今まで凡そ健康などという事に無頓着であったのが急に慌て出して、始終血圧を測ったり、血液を調べたり、やれレントゲンだ、人間ドッグだと騒いでおるうちに、既にガンが三期になっておるというような事になりかねない。そういう極めてデリケートな変化の機をスタシスという。丁度、日本でいう厄年に当るのがこのスタシスであります。

15日 時世や国家にもある 時世や国家にも勿論シンギュラー・ポイントやスタシスがあります。その最もよい例が今日のアメリカです。ご承知のようにアメリカは、近代にはいって大きな発展を致し、特に第二次世界大戦後は人類の歴史始まって以来と言われる未曾有の繁栄を実現して、アメリカの国民がこれを大変な誇りとしただけではなく、世界中の羨望の的となっていました。処が、ふと気づいた時には、色々のシンギュラー・ポイントが現れておったのです。初めのうちはヒッピーとかフーテンと言うようなことで、どちらかと言えば笑い話ですまされておったのですが、そのうち段々若者の反体制行動であるとか、麻薬の流行、黒人の暴動というような色々な現象が頻発するようになって参りました。そこへもってきて、ご自慢の経済情勢までが急激に悪化し、世界に君臨していたドルの権威もガタガタし始めた。
16日

ハーフウェイが進行

つまり今までの繁栄というものが急転して、没落へのハーフウェイが進行したわけです。そして、その結果、そしてその結果、今アメリカでは深刻なスタシスが起っているのであります。処がこれは独りアメリカだけではなく、イギリス、フランス、ドイツ亦然りであります。そこで、もうアメリカの終わりであると同時にヨーロッパ文明の終わりである、というような議論も急に起こってきておるわけでありますが、然し急にと言うのは、そう見えるだけであって、実は決して急に起こってきたのではないのであります。
17日

イデオロギーの終焉

このような事は、流石に先覚者・識者と言われるよう人は10年、20年、30年前から指摘し警告してきておることであります。ジェームス・バーナムと言う天才的思想家などは、いち早く今日の民主主義の危機を見抜いて、それは民主主義・自由主義の根本に関する大きなスタシスであると云うので「自由主義の意義と運命」という名著を書きました。コーネル大学のアンドルー・ハツカーという教授は「アメリカ時代の終り」という本を出している。これは日本でも翻訳が出ております。或は近代流行のイデオロギーというようなものはダメだと言うので、コロンビア大学の有名なダニエル・ベルという教授は「ザ・エンド・オブ・イデオロギー(イデオロギーの終焉)」なる本を書いて大いに論じております。そして、その前に既に、ユーゴーの副大統領ジラスが共産主義では世の中は救われないというので「新しい階級」という本を書き、その為に牢獄に投ぜられております。

18日 警世・警告

このように、警世・警告の書が次々と出でおるのでありますが、なお且つ識者・専門家の間にとどまって、一般社会を動かすまでに至らなかった。それがここ数年来、特にこの一、二年の間に自由諸国を中心に急にマスコミ、ジャーナリズムを賑わすようになって参りました。私が目を通した幾つかを挙げてみましても、先ずフランス政府の企画で専門家が集まって組織した「1985年グループ」が、「1985?変る人間・変わる社会」という本を出しました。これは所謂、未来学というもので、今から十数年後の1985年を主題にして、この近代文明、科学、技術文明がつくる社会はどう変ってゆくかということを予測したものでありまして、日本でもその翻訳が出ています。

19日 文明は死の行進を始めた

又その1985年を更に30年ほど延ばて21世紀の初頭を主題にした「2018年」という書物がアメリカの14人の科学者・評論家たちの手によって出されております。日本もご多分に洩れず盛んでありまして、色々の学者が集まって「文明は死の行進を始めた」というような研究を発表しております。

20日 人間に未来はあるか

もっと深刻なものでは、イギリスのテーラーという名高い科学者は「ザ・バイオロジカル・タイム・ポム(生物学的時限爆弾)という名前からして恐ろしい本を出している。この人は引き続き「ザ・ブームス・ディ・ブック(人類最後の書)という本を書きました。これは題名から想像されるような所謂きわ(、、)もの(、、)ではなくて、なかなか真面目で深刻な研究評論であります。日本では題を変えて「人間に未来はあるか」という書名で翻訳、刊行されております。それから、これはまた余り知られていないようですが,アメリカの有名な未来学者A・トッフラーの「フューチャー・ショック(未来の衝撃)」という本が色々マスコミ等で紹介されて専門家・識者の注目を惹いております。

21日 思考の三原則の大切さ 然しも世の中が複雑・煩雑になればなるほど、この講座の最初に申しあげた「思考の三原則」、即ち第一に、目先にとにわれないで出来るだけ長い目で見る。第二に、物事の一面にしらわれないで、多面的、全面的に考察する。第三に,枝葉末節にとらわれないで根本的に見る?に返って勉強すれば、別に驚くような新しいことではないと云うことが分ります。
22日 根本に反る

そして大昔から幾多の先覚者達が既に考え抜き論じ尽していることで、いわば今日はその註釈、実証に過ぎないと考えることもできます。大切なことは思考の三原則の三番目にもありますように、「枝葉末節にとらわれず根本に反る」ことであります。スペインのオルテガも「根元への復帰」ということを唱導しておりますが、その通りでありまして、そうでなければ我々は救われません。そういう意味で今日のような世の中に処するほど、歴史の中に我々が持っているところの神道、儒教、仏教、道教といった先哲の学問・宗教の尊さ在り難さを感ずるのであります。

23日

(はっ)正道(しょうどう)

まあ、以上のようなことを一つの註釈として、本日は前回の続きであります仏教の「(はっ)正道(しょうどう)(八聖道)」のお話に入ることとします。(はっ)正道(しょうどう)とは、(しよう)(けん)正思(せいし)()正語(せいご)正業(せいぎょう)(せい)(めい)正精進(せいしょうじん)正念(しょうねん)正定(しょうてい)の八つを言いまして、正道は聖道と書いてもどちらでも宜しい。正なるが故に聖なのですから・・・
24日 正見 そこで、先ず「正見」とはどういうことかと申しますと、この場合の見は、ただ見るということではなくて、考察するという意味で、つまり正見とは、正しい考えを持つということであります。華厳経には正見を説いて「諸々の妄見を離る」と言うております。
25日 日本の仏教に就いて ここで少し日本における仏教というものに触れておきたいと思います。先ず何と言っても日本に仏教を入れた一番の先駆者は、皆さんもご存知のように聖徳太子であります。太子は数ある教典の中でも法華経・維摩経(ゆいまきょう)(しよう)(まん)(きょう)の所謂三経を殊に重んじました。初めの法華経は誰知らぬものはありますまい。維摩経は特に日本では禅宗が重きをおいています。(しよう)(まん)(きょう)は仏陀が(しょう)(まん)という国王夫人を教化されたことに始まり、専ら婦人を対象にしたお経であります。
26日 「真向法」

余談になりますが、「真向法」という健康体操があります。これは東大の仏教の碩学である長井真琴氏の弟さんの長井(わたる)という人が創められたものであります。長井さんは越前のお寺の出身でありますが、そのお寺は数少ない(しよう)(まん)(きょう)を所依の教典にしたお寺であります。津氏は仏教学者のお兄さんと違って、若くして大倉喜八郎さんの門に弟子入りと、30代で財的に大成功しました。そのため、打つ方はどうか知りませんが、酒は飲むは女遊びはするはの贅沢の末、40そこそこで脳出血を起して半身不随になり、ここに到って始めて愕然とした。が、そこはお寺の出身で道心がありました。今までの生活を大いに反省・懺悔され、というて今更お兄さんのように学問にはいることも出来ないので、生家の寺院に伝わる(しよう)(まん)(きょう)を取り出して、これを色読(しきどく)(身体で読む)しようと決心されたわけです。処がその冒頭に(しよう)(まん)夫人(ふじん)が先ず仏に礼拝することが書かれている。

27日 明治神宮に参拝して真っ向から霊感

インドの礼拝は日本のような簡単なものではありません。五体投地と云ってべったり坐り身を二つに折って拝むのです。今はもうこんな礼拝はやらぬだろうと思っておりました処が、いつか写真で前の国連の事務総長が故郷のビルマへ帰ってお母さんにこの礼拝をしておるのを見て感心したのでありますが、長井さんは先ずその礼拝をやろうと考えた。然し、何分半身不随のこととて、最初はなかなか出来なかったが根気よく続けているうちに、何時の間にか出来るようになって、気分も爽快この上ない。そこであらゆる姿勢での礼拝を研究して、これを四つの型に要約して続けているうちらもいつのまにか半身不随も完全に治って、前にも増して健康になった。それで最初はこれを礼拝体操と言うておりましたのでありますが、或る時、明治神宮に参拝して真っ向から霊感を得られ、「真向法(まっこうほう)」と名づけられたわけであります。

28日 (しょう)(けん)

その(しよう)(まん)(きょう)には「諸々の顛倒(てんとう)(けん)を脱する」のが正見であると説いています。これは何も難しい仏教の注釈書を読まずとも、今の世の中に横行している(けん)?物の考え方を見ればよくわかります。今日は余りにも妄見・顛倒(てんとう)(けん)(ひど)過ぎます。ビートルズ、ヒッピー、フーテン初め、反体制運動をやっておるゲバ学生とか、赤軍派とかいった連中の叫んでおる理屈、スローガン、物の考え方というものは、到底常識では考えられない。そういうひっくり返った逆さまの考え方を脱して、人間本来の素直な正しい考え方をしてゆく、これが(しょう)(けん)であります。

29日 正思(せいし)()

その正見によって、今度は「正思(せいし)()(正志惟)」してゆく。ちょっと考えると見と思惟とは同じことのように思われますが、そうではあれません。正思惟は別の語で言えば「正志」であります。正見によって正しい目的の為に我々の意思を進めるのです。そうすると、自然に思索しますから、自ら言語に現れる、言語も正しくなってくる。これが「正語」です。世の中が乱れ、人間が堕落してくると、次第に妄見・顛倒見に陥って思惟・志も邪悪になり、言語が乱れて妄語になってゆくものです。

30日 正業・正語 そこで第四に「正(ごう)」であります。業は技、働き、仕事で要約して「(み・)(くち・)()の三業」と申します。身体・飲食・心の持ち方(意見)を正しくする、つまり一切の邪妄を離れる、これが正業であります。例えば身業について考えてみましても、大体近頃の人間は姿勢からして正しくありません。例えば身業にさいて考えてみましても、ふらふらと妙な恰好をしていて、ちょっと蹴飛ばしたら二つ三つに折れてしまうそうな者が多い。やっぱり背骨が直立して腰が据わり、足が達者でんければいけません。正身でなければいけません。
31日 腰抜け

日本人は昔から人を罵るのに「腰抜け」と言いますが、あれは医学・生理学の上から言うでも本当で、人間・「肝腎(かんじん)(かなめ)」の腰がふらふらしておるようではいけません。そもそも肝腎(かんじん)(かなめ)の要という字は、こし(○○)と言う字でありまして、後に要に(にく)(づき)がついて腰の字ができ、腰は身体のかなめ(○○○)に違いありませんから、要の方は専ら(、、)なめ(、、)の意味に使われるようになったわけです。