儒教を越えている「誠」の思想

―レベルの高さに気づかぬ日本人―

21世紀に入り、日本は亡国への道に突入し断崖絶壁に立っているように思える。それは、日々発生している政治・社会現象に如実に表われている。

政治、良識の府であるべき国会があの通りで、国家観や「公」の欠如した民主党政治家が目立つ。彼らは見識も「胆識」も欠き、且つ道徳的に腐敗堕落し、社会や青少年に範を示さない。国会は「悪のモデル院」のようであり、国家・国民を背負っているという勇気も気概も無い連中ばかりに見える。彼らは、最早や、国民の尊敬の対象ではない。

人間としての基本である倫理・道徳を身につけていない日本人が大多数となり、その結末が日々の殺人事件である。良き日本人の原型がわからない日本人ばかりとなっている。太古の時代から、諸般に亘り格段に秀でていた日本人が、アメリカに敗戦し、二千年の素晴らしい伝統・文化を放棄し、あるゆる物事の判断基準が「損か(とく)」かのみになってしまったからである。

幕末に来日した欧米の賢人達が、白人の模倣をすれば日本はおかしくなると言ったが、敗戦後それが一段と徹底されて遂に日本人のアイデンティティは完全に喪失しつつある。

日本人のレベルの高さ

日本人は太古より、「魏志倭人伝」の記録にある如く、「婦人(いん)せず、妬忌(とき)せず。盗窃(とうせつ)せず、諍訟(そうしょう)少なし」と極めてモラルが高い。

また、1400年前の書「隋書(ずいしょ)()国伝(こくでん)」によると、「人すこぶる(てん)(せい)にして、争訟(そうしょう)まれに、盗賊少なし。・・気候温暖にして草木は冬も青く、土地は膏腴(こうゆ)にして・・・性質(ちょく)にして雅風(がふう)あり」とある。

中世に至っては、ザビエルは「それがキリスト教信者の地方であっても、そうでない地方であっても、「盗み」について、これ程までに節操のある人々を見たことがありません」と、日本人のレベルの高さはシナ・欧米を遥かに抜きん出ていたのである。

阪神大震災の時に火事場泥棒も無かったことに世界が驚いた。数年前のシナ・四川大地震ではあの通り「略奪」が多発した。日本人のモラルの高さは2000年来のものなのである。

孔子・孟子の国・シナ人と日本人を比較して見ればいい。ギョウザ事件は知らぬ顔、尖閣は盗人猛々しい。孔・孟の倫理はシナでは消滅し日本に移動し「日本に定着していた」のである。

18世紀、幕末から明治維新当時に来日した欧米人は、武士は貧しいことに少しの恥じらいもなく、また庶民は武士を尊敬していると記録している。

日本人の大きな美徳は

「日本人の礼儀正しさは、日本人の大きな美徳の一つであるが、身分の上下に関係ないことは、「躾」を初めとした教育が良く行き届いていたということである。日本の制度は末端まで機能していた」とドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペル氏は指摘している。英国人旅行家イサベラ・バード女史は、「奥地や北海道を1200マイルにわたり旅したが、全く安全で、然も心配もない。世界中で日本ほど、婦人が危険にも不作法な目にも逢わず全く安全に旅行できる国は無い」と。これ程まで高いレベルの日本人は「今いずこへ」である。

戦後の日本人

歴史的に、この素晴らしい資質の日本人が、戦後、なぜ、奇妙なことになってしまったのか。私は、その原因に就いて持論を開陳する。


国民の倫理道徳教育の場が戦後日本には皆無なのである。外国、特に西欧では、「宗教」が国民の倫理・道徳教育の場となっている。だが、日本の場合は欧米と著しく異なり、日本仏教は堕落しきったままである。同時に「神道」の精神を学ぼうとしない日本人となった。本来なら、それ等に代る日本人の道徳倫理の原点である、目に見えない、だから、書物にもなっていない武士道が倫理・道徳の規範になるべきであるが、戦後は世代間の「伝統断絶」の為、それも廃頽してしまったままなのである。

武士道精神は、文字に書かれていないが、世々、親子の口から口へ伝えられ、人から人へ以心伝心、心から心へ伝わって戦前の日本人の倫理的基礎となっていた。
嘘をつくな、正直であれ。人の物を盗むな。渇しても(とう)(せん)の水を飲むな。人様に迷惑をかけるな。弱い者を助けよ。弱い者を(いじ)めるな。兄弟仲良く、親を大事に。長幼(ちょうよう)(じょ)を守れ。家の恥を外に(さら)すな。ご先祖様に顔向けならぬことをするな。公に尽くす。家の名誉を守れ。上に立てば稲穂の如く(こうべ)を下げ、威張るな等々である。

「誠の思想」は儒教を越えたもの

日本の武士道は儒教を超えたものであると私は思う。それは「誠」が根幹であり、「不言実行」あるのみの不文律を築き上げている。この「誠の思想」こそ、日本人は、もっともっと自信と誇りを持つべきである。これにより積極的に道義国家として「國際社会のリーダー」の役割を果してゆかねばならぬ。日本精神の根幹は「武士道」即ち「義」を重んじ「至誠」を以て「率先(そっせん)垂範(すいはん)」、「実践躬行(じっせんきゅうこう)」するという「大和魂」がその精髄である。心からなると言う、誠を尽くすという思想即ち「至誠」はシナには全く存在しない。

地下水の流れのように今猶、脈々として武士道精神が日本人の中に生き残り枯れていないと信じている。この精神こそ、日本人が最も誇りに思うべき普遍的真理であり、人類社会が今直面している危機的状況を乗り切っていく為に、絶対に必要不可欠な精神的指針ではなかろうか。

武士道は武芸礼賛ではない。武士の厳しい戒律が成文化されたものでもない。寧ろ日本人に於ける道徳の道を説いた口伝(くでん)である。

新渡戸(にとべ)稲造(いなぞう)は「ある時ベルギーの学者と話している時、その学者が日本には宗教教育が無いと知り驚き宗教教育無くして、どのような教育をするのかと聞かれた際、新渡戸は愕然とし答えられなかったと言う。新渡戸は「何故なら私が幼い頃学んだ「人の(みち)たる教訓」は学校で受けたものではなかったからだ。そこで「善悪の観念」を作り出させた様々な要素を分析してみると、そのような観念を吹き込んだものは武士道であったことに漸く思い当った」と言う。

日本は成文化されない文化の国なのである。例えば神道、キリスト教、仏教などと違い神道は戒律や成文化された教義も無い。このように日本は「成文化されていない文明国」なのである。成文化しなくても、その必要がない程高い人倫的風土なのである。それが瓦解しようとしている。

天皇と神道を元に日本は創国したのは歴史的事実だ。かかる意味で「日本は間違いなく神々の国」なのである。これを否定する人間は無知蒙昧に近い。それは、自己のアイデイティティを否定することでもある。(西欧流の神、即ちゴッドと日本の神様は違う)

支那の、孔・孟の儒教などは、誠実な行いが出来ない民族だからこそ、執拗に教えたのであろう、それが「論語」等に文章化され継承されたのではないかとすら思える。

精神的空家の戦後日本人

日本の場合、聖徳太子の「十七条の憲法」は、モーゼの十戒、孔子、孟子のような即物的教えは説いていない。彼らが指摘するものは、日本人には「当たり前」の事でありわざわざ書く必要が無かったのであり、「和」を唱えるだけで良かったのだ。外国では、成文化し即物的に厳しく教えなければならなかったが、日本では古代から常識以前の当然のことなのであった。

だが、戦後六十年経て、武士道的倫理・徳目が消えうせつつある現在、武士道精神を持つ世代がこの世を去ると、日本は宗教が倫理・道徳を教えないから、人間としての「芯」が無いに等しく、社会は、極端に「非道徳」となるであろう。現在、その結果が現実化しているのである。それは敗戦後、日本人としての「魂」を作る努力を放棄してきたからである。民族精神を鍛錬する方策を何も採らなかったからである。戦後日本人は「精神的空家」なのである。これでは、禽獣(きんじゅう)のような国民ばかりとなるのは必定であろう。これらの自覚と対策が急務である、以上がその一つ。

重ねて、儒教を越えている日本人

日本人の最も好むのは「誠」である。確かに、日本は古代にはシナから儒教を学び、そして江戸時代には「義」を武士道の中心思想に至らしめた。然し、日本人はその中国の儒教を越えた概念、即ち「心からなる」と言う思想、そして誠を尽くすという「至誠」へと止揚させているのに日本人は気づいていない。至誠は人間としてこれ以上ないものである。

シナ人を見ればいい、彼らには「心からなる」、或は、誠を尽くすという「至誠」が全く見られないと断言できる。「至誠」とは儒教の「義」の概念を越えたものである。だがシナ人には毛頭見られない。

このような素晴らしい思想・概念を身につけた祖先がいるのに、その伝統を放棄したが故に現代日本の混迷と挫折があるのだ。

シナとか欧米に学ぶ必要は少なくとも「倫理・道徳」に於いては皆無なのである。

      平成23年元旦

徳永日本学研究所 代表 徳永圀典