忘れまいぞ日本歴史上最悪の総理菅直人

2011迷言大賞(上半期)「史上最悪の宰相」

菅直人前首相

 今年もまた、菅直人前首相から野田佳彦首相へと任期途中で首相が変わった。菅政権は「ルーピー(愚か者)」と言われた鳩山由紀夫元首相の後継で、「多少はまともになるのでは」との、いちるの望みが託された。だが、指導力や見識不足に加え、人格批判まで飛び出し、東日本大震災という未曾有の天災に見舞われた日本は人災でも苦しんだ。2011年「迷言大賞」上半期部門は菅氏とし、10の「迷言」を振り返ってみた。

 (1)「大震災の取り組みに一定のめどがついた段階、私がやるべき一定の役割が果たせた段階で、若い世代にいろいろな責任を引き継いでいきたい」(6月2日、民主党大会で)

 やや曖昧だが、字面だけ追えば何の変哲もない辞意表明。しかし、これこそ多くの日本人が菅氏を「憲政史上、最悪の首相」として認知する起点となった発言だ。数日間の内閣不信任決議案提出をめぐる民主党内の攻防は1日夜、決議案への同調を明確にした議員が80人前後に及んだ段階で「勝負あり」(国民新党の亀井静香代表)。菅氏は「万事休す」となった。

 ところが、鳩山氏が菅氏と中途半端なメモを交わし退陣を受け入れたと信じたことから迷走劇が始まる。不信任案否決直後、菅執行部の一人は「退陣を約束したわけではない」と言い張る。6月2日が自身の辞意表明に続く二年連続の「赤っ恥記念日」とされた鳩山氏は菅氏を許せなかったとみえ「ペテン師」とまで「罵(ののし)った。

 政権交代後、この2人が絡むと国益が大きく損なわれるのはジンクスなどではない。両人の資質による必然と言っていいだろう。

 (2)「私の顔を見たくないのか。見たくないなら早く法案を通せ」(6月15日、飛び入り参加した再生可能エネルギー促進法の早期制定を求める集会で)

 (3)「内閣不信任案を大差で否決してもらった。つまり、めどがつくまで私に『しっかりやれ』という議決をいただいた」(6月9日の衆院東日本大震災復興特別委員会で)

 いずれも(1)とセットで、「不信任決議案さえ否決してしまえば、こちらのもの」という菅氏の本音と厚顔ぶりがうかがえる。新聞、テレビで発言を目にした国民の多くが心底、「嫌なものを見た」という嫌悪感を禁じ得なかったはずだ。野党ばかりか与党内、ついには自ら任命した執行部まで早期退陣を迫るようになり、公邸では菅氏との間で怒号の飛び交う激論が起きる事態に陥った。

4)「一体どうなっているんだ。撤退すれば東電は100%潰れる」(3月15日、東京電力本社で)

 思い通りにならない事態が生じると、他者を激しく攻撃し罵る。菅政権の1年3カ月間に何度も目にした光景だ。福島第1原発事故をめぐる東電の対応に問題があったのは事実だが、政府と東電との統合本部長を務める菅氏が最終責任者であることも確か。有事に度を超した「イラ菅」ぶりは危機管理の指導者の資質ゼロと断じざるを得ない。

 (5)「ごめんなさい。いや、あの、反省させてください。知らなかったもんですから。本当にごめんなさい。通り過ぎるつもりではなかったんです」(福島県田村市の避難所で)

 高圧的かつ強弁としか言えない(1)〜(4)と同じ人物とは思えない、へりくだった発言だ。避難所の視察に訪れてはみたものの、一人一人と向き合おうとせず、官僚のおぜん立て通りのスケジュールをこなそうとするから、パフォーマンスも見透かされる。これも自業自得。

 (6)「原子力について少し勉強したい」(3月12日、斑目春樹原子力安全委員長に)

 「僕はものすごく原子力に強いんだ」(3月16日、笹森清元連合会長に)

 4日間の「にわか勉強」で原子力の素人から専門家へと変貌を遂げられる常人離れした「変わり身」の早さには、周囲も国民もただただ言葉を失った。もっとも、本当に専門家だったかどうかは以後の原発対応で皆知っているのだが…。

 (7)「私が掲げる国づくりの理念は『平成の開国』、『最小不幸社会の実現』、そして『不条理をただす政治』の三つだ」(1月24日の施政方針演説)

 原発事故に際し、諸外国からの支援の申し出にも適切に対応できず、放射能汚染水は海に垂れ流す。都内の大使館関係者までが帰還したこの時期、日本は開国どころか鎖国に近い状態だった。今年初めの改造内閣で、衆院選の同一選挙区でもある与謝野馨氏が後任で入閣し、横滑りとなった海江田万里経産相は「人生は不条理だ」と得意の涙をこぼした。「平成の鎖国」「不条理な政治」を生み出した菅氏が実現したのは、まさに国益にもシャレにもならない「宰相不幸社会」だった。

 (8)「野党がいろいろな理由を付けて積極的に参加しようとしないのなら、歴史に対する反逆行為だ」(1月13日、税と社会保障の一体改革について民主党大会で)

 自身の名を歴史に刻み込みたい政治家にとり「歴史」や「運命」は常套(じょうとう)句。だが、それは賛否相半ばする政策を決断し「後世の史家に評価を委ねた」指導者から発せられた時、輝きを増す。菅氏は3週間もたたない2月2日、「若干の言い過ぎがあったとすれば謝りたい」と陳謝した。信念の欠片もない。これでは歴史家の出る幕もない。

 菅氏は4月25日にも「大震災のときに私が首相という立場にいたことも一つの運命だ」とも述べた。国民にすれば「運命」ではなく「悲運」、「不幸」の間違いでは?と問いただしたいところだ。

 (9)「過去の首相が辞めた原因が何となく分かる。何で評価されないのか、思いが伝わらない、ということで、気持ちが萎える」(1月7日、インターネット放送局「ビデオニュース・ドットコム」の番組で)

 自身の政権が過小評価だと言わんばかりに嘆く菅氏だが、この先が真骨頂と言うべきかもしれない。続けて、こう述べる。

 「私は徹底的にやってみようと思う。(政治が)新しい地平に届くまで見極めたい」

 世論も国益も何のその。脇目もふらず延命にしがみついた政治が「地底」に達したことだけは確かだ。

 (10)「(幕末の思想家)吉田松陰は時局に臨んで何もしない為政者を厳しく指弾した」(1月20日の外交演説で)

 菅氏が出身地である長州(山口県)の先輩にあやかった発言。だが、泉下の松蔭先生にしてみれば、愛する郷土の後輩が、指弾すべき為政者として「安政の大獄」ならぬ「平成の亡国」を現出したことに、さぞ複雑な心境でおられるに違いない。「貧困なる発言は、貧困なる政治に宿る」と言うべきか。