建国の(みことのり)(日本書紀)
 

正月であり、日本という国の「建国」に就いて色々思索するのも必要である。先祖の思いに心を寄せて欲しい。
世界歴史的に、日本という国は洵に叡智に満ちた我々の祖先の築きあげてきたものである。

平成22年1月

元旦 世界で唯一、連綿たる皇室

世界のどの国も、自国の建国を祝わぬ国はない。
わが国は神話の時代から今日まで断絶することなく連綿と続いてきた世界で唯一の王朝である皇室を(いただ)く国である。

これが私たち日本国民の誇りでないとするならば、一体ほかに何が誇りであろうか。その事実も自覚もない国会議員さえいるのは驚きである。どうしてわが国にはヨーロッパやシナのように革命による断絶がなく、かくも長く一系の皇室が存続し得たのであろうか。

 1月2日 全く不思議な日本である。

その理由は何であろうか。
答えは神武天皇の建国の(みことのり)にある。その一節に、「いやしくも民に(さち)有らばいかにぞ(ひじり)(わざ)(天皇の仕事)に(たが)わん」(日本書紀)。

「国民を幸福にすることこそ天皇の任務」という意味である」。

これが天皇の原点であり、歴代天皇は、年々歳々、朝な夕な、日々これを守り且つ祈り続けてこられたからである。

 1月3日  (おお)御宝(みたから) 天皇様は古来から、国民のことを「(おお)御宝(みたから)」とも呼んだ。宝物として大切に守るというのが皇室の国民観である。 天皇の最重要の任務は祭祀(さいし)である。皇祖、そして神々を祭り常に「国安かれ、民安かれ」と祈られ国民を大御宝として、わが子としていつくしみ情愛をほどこされてきたのである。
 1月4日 それが皇室の一貫した責務、不断(ふだん)(おきて)であり不滅の伝統にほかならない。それゆえ、代々の日本国民は天皇を国家の中心として戴くことを悦びとし有難く思い、心より敬 愛し仰慕(けいぼ)忠誠を尽くしてきたのである。これは世界に比類なき日本の国のあり方であり、深く思いを致し、祖国の永久を祈らねばならぬ。それが元旦の()き日でなくてはならぬ。
 1月5日 神武天皇「即位建都の詔」にみる道義国家日本建国の理念 紀元前660211(皇紀元年)初代神武天皇が畝傍山の東南、現在の橿原市に都を開かれるにあたり、詔を発せられた。 この「即位建都の詔」に、連綿として継承される日本国の理念と天皇の御心を伺う事ができる。
少し、長い記述だが、是非とも読んで頂きたい。
 1月6日 即位建都の詔(前段) (それ)大人(ひじり)(のり)を立て、(ことわり)必ず時に従う。(いや)しくも(おおみたから)(くぼさ)有らば何んぞ聖造(ひじりのわざ)(たが)わん。且た(まさ)に山林を()き払い宮室(おおみさ) 経営(おさめつくり)りて(つつし)みて(たか)(みくら)にのぞみ、以って元元(おおみたから)を慎むべし。」

大人(ひじり)(のり)を立て」とは、正に天照大神から連綿とつづく「神の子」の自覚と、謙遜の徳を表わしている。

 1月7日 国民を第一義の暦大衆性天皇

(いや)しくも(おおみたから)(くぼさ)有らば」とは、国民の利益になることが大前提との考えであり、「民利政治」の原則を(うた)っている。天皇政治下の民主政治で

あり、現代の腐敗した一部特権階級の為にする政治とは根本から異なる。
この神武天皇の御心は歴代の天皇に受け継がれ、「まず、国民を第一義」とされるお心は御読みになった歌やお言葉に垣間見ることができる。
 1月8日 第16代 
仁徳天皇
「高き屋にのぼりて見れば煙り立つ 天のかまどは賑わいにけり」
まず、国民がちゃんと食べるものがあるかどうか、
ご飯の用意をするかまどの煙にもお心を使われ、そのかまどから立ち昇る煙を見て、ほつと安心をされたのである。
 1月9日 第56代
清和天皇
「災いは偶然に起きるものではない。みな朕の不徳の致すところからである」
肥後の国熊本地方で起きた洪水に際して、天災さえもご自身の不徳から国民を苦しめたのだと、心より反省なさっている。
1月10日 第59代
宇多天皇

「天をうらまず、人をとがめず、神を責めず、(ちん)が不徳の致すところである。」

「国を富ますはただひとつ、体を臣民にあわせるのみである。」 

やはり、当時に起きた洪水や疫病の蔓延にお心を痛められての言葉である。自分の考えを国民に押し付けるのではなく、あくまでも国民の立場になって心を合わせなければならないと話されている記録がある。
1月11日 第122代 明治天皇

「罪あらば吾をとがめよ天津(あまつ)(かみ) 民はわが身の生みし子なれば」
あまりにも有名な御歌のひとつである。御世は大変な時代の変わりようであり、不幸な出来事も数多く起きた。それらの責任はすべて自分にあるとされるお心である。

明治天皇はその在生中になんと93,032首の御歌を詠まれている。
一日に実に20首の御歌を詠まれたことになる。
その歌の大半が国民を思い、自らを反省される歌である。
1月12日 即位建都の詔(後段) (かみ)(すなわ)(あまつ)(かみ)の国を授けたまいし(うつくしび)に答え、(しも)は即ち皇孫(すめみま)(ただしき)を養いたまいし心を(ひろ)めん。然して後に六合(りくごう)を兼ねて、以って都を開き、八紘(あめがした)  (おお)ひて(いえ)と為すこと亦()からずや」
「上は則ち乾霊の国」とは、武力で先住民を制圧したのではなく、天の大神より国を委託されたという謙虚な 気持ちを表わしている。それは「天壌(てんじょう)無窮(むきゅう)神勅(しんちょく)」によく表われている。
1月13日

天壌(てんじょう)無窮(むきゅう)神勅(しんちょく)

(とよ)葦原(あしはら)千五百(ちいほ)(あき)瑞穂(みずほ)の国は吾が子孫(うみのこ)(きみ)たるべき(くに)なり。宜しく(いまし)皇孫(すめみま)()きて()らせ、さきくませ。宝祚(あまつひつぎ)(さか)えなむこと 天壌(あめつち)(きわま)りなかるべし。」 「下は則ち皇孫の正を養いたまいし心を弘めん。 神の国の正義を自己の中に養い修養して、喜べば喜び事が喜びにくるの原理に従って慶びを積み、心を明るくして神の光を自己に受信しうる波長を心に起こすと、自然に「八紘を掩ひて宇と為す」ことができるのである。まず日本が為すべきことは、「道義国家」の確立であると言っているのである。
  「六合を兼ねて」とは上下四方、十方世界、世界の中心にということであり、「八紘一宇」とは、四海一家、世界は道義の世界ではひとつということであり、家族であるとのことである。
1月14日 第122代 明治天皇

四方(よも)の海 皆はらからと思う世に など波風の立ちさわぐらむ」

「八紘一宇」の本来の意味は「天に道義があり平和があるように地にもその世界を実現しよう。」というものである。この建国の詔を素直に受け止めるべし。
1月15日 国家の祝日の意義

国家の祝日は、国家の伝統や文化を大切にし、国家の意思で制定し、国民こぞって祝い、感謝し、又は記念する日であり、その意義や変遷を子どもたちに教えるべきである。国家の祝日は、国民一人ひとりが

「この国に生まれてよかった」「この国を守り育ててくれた祖先に感謝しよう」「みんなで力を合わせてよりよい国にしよう」という気持ちで、心を一つにして祝い、感謝し、記念する日である。単なる「休日」ではない。
1月16日 「紀元節」や「独立回復の日」も削除されていた

現代の「祝日」は、日本の敗戦に続く占領下という異常な局面で制度化されたものであり、日本国家の意思で定められたものではない。昭和23年に制定された「国民の祝日に関する法律(祝日法)」の第1条(意義)は、

「自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ」とあるが、当初の「われら日本国民は、ただしい伝統を守りつつ」が却下されたものである。さらに日本側から提案された祝日のうち、「紀元節」や「独立回復の日」も削除されていた。
1月17日

「建国記念の日」は日本の国の誕生を祝う日である。「建国をしのび、国を愛する心を養う」ことを目的に昭和41年の祝日法の改正によって定

められた。ところが、「建国記念の日」は、もともとは「紀元節」として明治6年に「祝日」として定められていた日だったのである。
1月18日 日本人は古来から神武天皇の治世をお手本

・王政復古の大号令に「諸事神武創業のはじめにもとづき・・・」という文言がある。明治の日本は、初代・神武天皇の建国をモデルに、新国家建設を進めたのである。日本人は古来から神武天皇の治世をお手本にしてきた。

万葉集(奈良時代)、水鏡(平安時代)、神皇正統記(南北朝時代)、大塩平八郎、橋本佐内、吉田松陰(江戸時代)・・に、その記述がある。維新の志士たちは、こぞって神武天皇陵(奈良県)に墓参していたのである。
1月19日

「日本書紀」によると神武天皇は橿原建都に際して建国の詔を述べている。「八紘をおほひて宇と為む(八紘一宇)こと、また可からずや」→「天地四方、八紘にすむすべてのものが、一つ屋根の

下の大家族のように仲良くくらそうではないか。なんと、楽しくうれしいことだろうか。」これが建国の理想であり、日本人の正しい道徳心とされていたのである。
1月20日 日本人なら忘れるな

東京裁判における戦犯の起訴、処刑を天皇の誕生日(昭和天皇、平成天皇)に行ったことを!!!

神武天皇は即位の4年後、鳥見山で祖先である天照大神をはじめとする神々に感謝する祭りを行った(鳥見山の郊祀)。この祭りは今上天皇(125代)までの歴代の天皇が続けてこられた。同じ王家(天皇家)が2000年以上も続き国家国民の平和を祈り続けている国は日本だけである。祝日法により、「紀元節」は廃止された。当時、日本はGHQの占領統治下にあり、重要な法律を日本人の意思によって作ることが困難であった。

日本国憲法や教育基本法(教育基本法の前文に「伝統」の言葉が加えられたのは去年の改正であった。)も同様である。「紀元節」の廃止には、日本の神話、歴史、天皇と国民のつながりを否定しようとする意図が感じられる。
東京裁判における戦犯の起訴、処刑を天皇の誕生日(昭和天皇、平成天皇)に行ったことも一連の政策(WGIP)であると考えられる。
1月21日 日本の神話を知らない子供

祝日法制定の3年前に出された「神道指令」によって、日本の学校では古事記や日本書紀の神話部分を学校で子どもに教えてはいけないことになっていた。神道と国民の関係が寸断されたのである。

現学習指導要領では「神話・伝承を調べ、国の形成に関する考え方などに関心をもつこと」になっているが、ほとんど教えられていない現状である。子どもたちのほとんどは日本の神話を知らないのである。
1月22日 サンフランシスコ講話条約

昭和26年、日本はサンフランシスコ講話条約を結んだ。国の独立回復にあたり伝統を保ちたいと考えた政府は世論調査を実施する。

その結果、祝日に残したい日は、1位は正月、2位は天皇誕生日、3位は紀元節であった。当時の首相吉田茂は「(独立に際し)紀元節の復活から手を付けていきたい」と国会で答弁した。
1月23日

以後、紀元節復活運動は続けられ、昭和416月の国会で祝日法が改正され、「建国記念の日」と名称を変えて復活することになる。建国記念の日は、敗戦後、日本

人の努力で取り戻した日と言える。それは、日本の歴史の原点を取り戻したことにもつながるのである。昭和53年の「元号法制化」、平成11年の「国旗国歌法」も一連の流れであるといえる。
1月24日 昭和の日

平成19年からそれまでの「みどりの日」が「昭和の日」と名称を変える。これは過去2回改正法案が国会に提出されて廃案になった経緯がある。昭和の時代、国民は苦難

と敗戦と復興の道をたどってきた。日本の歴史にとって特筆すべき時代であった。その象徴である昭和天皇の誕生日が「昭和の日」として改正された意義は大きい。完