日本古代史の謎 その八

    第4講義 架空の天皇はなぜ創られたか      

       神武天皇は実在しなかった
平成24年1月度                                                    

 1日 架空の天皇の創作原理

空位期間を色々見ているうちに、はからずも私は、太一・三皇・五帝(中国の陰陽五行説などの思想が反映した王朝史の構造思想)区切りをつける為に、その区切りに必ず空位期間が配置されているのではないかと気づきました。

それで、空位と歴代天皇の代数の配列関係を結合させてみました。すると、二、三の例外はあっても、大体、神武天皇から元正天皇までが九代ごとに区切って配列でき、その区切りごとに空位期間が設定されていることがわかったのです。
 2日

神武天皇から元正天皇まで現行の歴代数では四十四代となっていますが「日本書紀」では弘文天皇を一代に加えていない為に四十三代となります。

処が、(じん)(ぐう)皇后と飯豊(いいとよ)(あおの)(みこと)とを一代として数え、さらに検証の結果、修正した空位と歴代を組み合わせてみますと、ちょうどこの組み合わせがぴったり合うことになります。
 3日

即ち「日本書紀」では「神功皇后紀」が独立して設けられていますが、一代の天皇とは数えられていません。また飯豊青尊=飯豊天皇も一代と数えられていません。しかし、「古事記」も「日本書紀」もともに、神功皇后が一時天皇として政治

を執られたことを認めていますので、仲哀天皇と応神天皇の間に、神功皇后を一代として立てます。さらに、飯豊青尊を古くは天皇とするものがあり、清寧天皇と顕宗天皇の間に、これも一代として加えます。
 4日

そして弘文天皇在位期間の一年間を「日本書紀」の通りに弘文天皇即位の事実を認めない立場を

とって歴代に加えないことにします。即ちこの弘文天皇の壬申の年一年を空位とみるのです。
 5日 空位の説明がつく

このように、弘文天皇を削る代わりに神功皇后と飯豊青尊をいずれも天皇として歴代数に加えると、神武―元正間はまさに四十五代となるのです。

そして、太一・三皇・五帝の九代の組み合わせをつくり、その区画ごとに空位を設けたという想定をしますと、それがきちんと上の表の通りとなって正に空位の説明がつくわけです。
 6日 「記紀」の歴代構成と原帝記

こう見てきますと、「古事記」や「日本書紀」に示されている歴代も、当初から整然として構成されたものではなく、

後から、ある構成原理に基づいて、それに辻褄の合うように按配されて作られたものであることが分ります。
 7日 九代と空位の組み合わせ構成原理

太一・三皇・五帝の九代と空位の組み合わせという構成原理は、たまたま私が「日本書紀」の空位の記載を不思議に思ってその謎を解き明かそうとして考えついた一つの組み合わせの試案です。

まだほかにも色々な組み合わせ方が考えられるわけですが、神武―推古間の33代の代数は、決して当初から固定していた決定的な数ではないと、はっきり言えるように思うのです。
 8日 まとめ

まとめると「記紀」の編纂者たちは皇譜の神聖化・権威づけの為、恐らく中国の陰陽五行説などに合致するような権威ある天皇の代数配列を企て

一定の構成原理に従いながら伝承ある天皇以外にも架空の天皇を加えていった、というのが真相であろうというわけです。

空位と歴代天皇の代数関係

 9日

 

1

2

太一

神武

崇神

空位

三年

一年?

三皇1

綏靖

垂仁

  2

安寧

景行

  3

懿徳

成務

空位

一年

一年

五帝1

孝昭

仲哀

  2

孝安

神功

  3

孝霊

応神

  4

孝元

仁徳

  5

開化

履中

3

4

5

反正

継体

皇極

一年

二年

一年

允恭

安閑

孝徳

安康

宣化

斉明

雄略

欽明

天智

一年

一年

一年

清寧

敏達

天武

飯豊

用明

持統

顕宗

崇峻

文武

仁賢

推古

元明

武烈

舒明

元正

10日 帝記
古代皇室の皇位継承を中心とした記録。「古事記」「日本書紀」「上宮聖徳法王帝説」などの原資料となった。原形は伝わらないが、天皇の系譜・皇居・山陵などの記事からなっていたらしい。 
干支
十干十二支のこと。十干、十二支はともに中国殷時代に起こり、後漢の頃から両者を組み合わせ六十年を一周期とする紀年法として用いられた。
11日 遺跡
過去に営まれた人間の生活の痕跡を地下あるいは地上に何らかの形で留めている場合、それを遺跡という。 
詔勅
天皇が意思を表示する文書。詔書と勅書と勅語。 

陰陽五行説

自然界の万物はすべて陰・陽の二気によって生じると考え、
木・火は陽、金・水は陰、土は中間とし、これら五行の変化によって自然界の災異・人間界の吉凶を説明しようとするもの。

第五講 架空天皇と実在天皇の根拠 増産されていた架空の天皇

「古事記」崩年干支註記からの謎解き

12日

4講で述べたように「記紀」編纂期に恐らく編纂者たちがある構成原理に従って歴代天皇を配置し、その配置のために架空の天皇を作ったならば、その架空の天皇、逆に言えば実在の天皇は誰なのか。 

私はそうした観点から、一代一代の天皇の実録的な伝説史を調べていくうちに、「古事記」の崩年干支註記がその問題を解く大きなヒントであることに気づきました。
13日

「古事記伝」と宣長以前の古い写本の中には崇神天皇から推古天皇まで24天皇の中の特定の15天皇に限り、「日本書紀」の歴代天皇の崩年干支とは別に

独自の干支を註記した写本があり、また、「日本書紀」の崩年と同じ干支でも、註記をしたものもあります。
14日

そこで、この15天皇に限って、古い写本類が特に崩年を註記しているのはどういう意味なのか、ということが問題となるわけです。

ちなみに第4講で架空の天皇として後から加上されたことが確実であると私が述べた神武天皇から九代の天皇についてはどの写本にも全く註記はありません。
15日

私はこの「古事記」の崩年干支にみる15天皇の問題を検討してみました。その結果、まず、15天皇の崩年干支の註記は「古事記」成立以前から一部に伝来されていた原帝記の一本で「古事記」が神武―推古間を33代とする歴代で構成することとする一つの伝承を示した帝であってそれによって「古事記」の編纂

者である太安万侶あるいはそのほかの誰かが崩年干支を「古事記」の本文のところに註記しておいたものだ、という判断を下すことができると考えるようになったのです。このことは、「古事記」の崩年註記は最も古い伝承に基づくもので、これまでの史料の中では最も信憑性があるということを意味します。
16日 日本国家成立の推定

実際この15天皇の崩年干支を使い、推古天皇の崩年を基準(628年の戊子、これは「日本書紀」とも一致する年数でこの推古天皇の崩年には疑問の点はない)とし、崇神−推古間の天皇の

夫々の崩年干支を干支一運60年の中の相当年に求めながら逆算していきますと「日本書紀」の紀年とは大きな年代の誤差が生じます。
17日

しかし、これで得られた年数は実年代に近い数値と思われるだけでなく、実際、個々の史実の年代と照合しても、事実と合致する場合が多く、非常に信頼度が高いと思われるのです。

その結果、例えば、私が初代と見る崇神天皇の崩年は、西暦318年の戊寅の年ということになり、それが日本国家の成立時期を文献史学的に推定する根拠の一つにさえなるのです。
18日 

つまり、この318年あたりに原大和国家の基軸がかたまり、崇神天皇の伝承が伝えるように、近畿から山陽・山陰を平定していたのではないかと考えることができるわけです。

「古事記」崩年は西暦318年の戊寅の年ということになり、それが日本国家の成立時期を文献史学的に推定する根拠の一つにさえなるのです。
19日

つまり、この318年あたりに原大和国家の基礎が固まり、崇神天皇の伝承が伝えるような

近畿から山陽・山陰を平定していく国家が成立していたのではないかと考えることができるわけです。
20日

「古事記」崩年註記と「日本書紀」編纂方法の関係 

「日本書紀」にみる編纂の基準

さて、私はさらに「古事記」に崩年干支に注記をみない他の十八天皇にも着目しながら「日本書紀」の構成を見てみました。

まずこの表を見ると次ぎのことに気づきます。

日本書紀の構造 (二帝紀以上の合巻表)
21日

帝紀数

天皇

第四

八帝紀

綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安、孝霊、考元、開化

第七

二帝紀

景行、成務

第十二

二帝紀

履中、反正

第十三

二帝紀

允恭、安康

第十五

三帝紀

清寧、顕宗、仁賢

第十八

二帝紀

安閑、宣化

第二十一

二帝紀

用明、崇峻

22日 「日本書紀」は、一天皇ごとに一巻にまとめることを建前として構成する(一紀一巻と言います)のが原則です。 処が二天皇紀、或はそれ以上の数の天皇紀を一 巻に合せて構成している(合巻と言う)変則的な場合がしばしば認められます。
23日 巻数は全部で三十巻ありますが、そのうち七巻が合巻になっています。逆に一天皇紀を上下二巻に分けている例も見られます。「天武天皇紀」がこれに該当します。 合せて九巻ら変則的な場合が認められますので三割弱が原則に合っていないことになります。なぜこういう変則を公認して編集したのかを考えますと、およそ次ぎのような結論が引き出せます。
24日 天武紀の場合 (後の古事記構成表参照)まず、一天皇紀を上・下二巻に分け、 一紀二巻として いる「天武紀」の場合は、その理由がはっきりとしています。
25日 今日みられる、巻第二十九の「天武紀下」元来一巻であった「天武紀」です。
処が巻二十八の「天武紀上」
は実に壬申歳一年間だけで天武元年紀だけの構成です。なぜこのような原則に合わない構成をしたのかと言いますと
実はこの巻をはじめに構成した時は「天武紀」ではなく「弘文紀」と云うべき弘文天皇一代に関する紀でしたが奈良時代には弘文天皇の即位を否定する見解が正論とされていましたので弘文天皇は抹消されていたのです。
26日 「日本書紀」の編纂者ははじめ弘文天皇を認めて、天皇が壬申歳一年間に満たない短い在位でしたので、壬申の乱を主体として弘文紀を一巻としました。然し時代の趨勢が弘文天皇の即位を否定する見解を正当化 したのに従い、弘文天皇を抹消し、壬申の乱の一方の旗頭であった天武天皇を登場させ、この一巻を天武天皇の紀として改訂してしまったのです。そして「日本書紀」を三十巻とする編成を変えるわけにはいかないので、天武紀を二巻としたのです。
27日 (二天皇紀合巻の場合) これに対して逆に、2天皇紀以上を合巻としている場合に就いて見ますと、合巻になっている7巻中、2紀合巻が五巻、その他の二巻は、 一巻が3帝紀もう一巻の方が8帝紀の合巻となっています。合巻の場合2帝紀合巻を原則としたと思われ、8帝紀・3三帝紀の合巻は極めて特殊な例とみなければなりません。
28日

さて先述の日本書紀の構造 (2帝紀以上の合巻表)を見てください。次ぎの事に気づく筈です。

合巻されている天皇は21天皇ですが、それらの天皇のうち、「古事記」崩年干支注記のある天皇は7天皇で、他の14天皇は注記のない天皇であることが分ります。
29日

そうしますと逆に注記のある天皇のうち、「日本書紀」で一紀一巻という原則に適合している天皇は、崇神・仲哀・応神・

仁徳・雄略・継体・敏達・推古の8天皇で、過半数の天皇は一紀一巻の原則に従っていることになります。
30日

それに対し、注記のある天皇同士で合巻になっているのが、履中・反正・用明・崇峻の4天皇で、二紀一巻の構成になり、成務、允恭、安閑の3天皇の場合はいずれも二紀一巻ですが、組み合わされた景行、安康、宣化の3天皇はいずれも注記をもたない天皇です。

その中で、安康天皇と宣化天皇は旧辞の少ない天皇です。
この2天皇は、夫々一紀一巻として編成するに当たらない伝承の極めて少ない天皇、従って実在性の希薄な天皇であると見られます。
31日

ただ注記のある天皇の中でも、成務天皇は、合巻になっている注記のない景行天皇に比較して旧辞が少ない天皇です。ただし、景行天皇でも天皇自身の伝

承は少なく、その過半数の旧辞は(やまと)(たけるの)(みこと)にかかわる伝承にほかなりません。