継体王朝出現の背景 雄略-継体間の四天皇は架空

平成26年1月

1日 継体王朝出現の背景

雄略-継体間の四天皇は架空
私は仁徳-雄略間の仁徳王朝、それに対して継体天皇以後の継体王朝、この二つの王朝の間隙を埋める五天皇のうち、飯豊天皇一代を認め、雄略-継体間に配されている、清寧-顕宗-仁賢-武烈の四天皇は、何れも仁徳王朝と継体王朝とをつなぐ方途として、後から考え出された天皇であり、四天皇ともに架空の天皇とみます。つまり、雄略-継体天皇の間には飯豊天皇一代を実在と認めます。 私がそう考えるには様々な理由があるわけですが、簡単に言えば記述の信憑性が疑われることは勿論、この四天皇を史実として認めると年紀が尽く狂ってしまうことになるからです。
2日 今、ここでそうした数字操作を詳しく述べる必要はないので省きますが、こうした私の立場を念頭において読み進めて欲しいと思います。ちなみに、雄略-継体間は年数にすると、私の推定年代によりますと10年となります。即ち雄略天皇の崩年西暦489年より、継体天皇の即位の年、西暦500年に至る間の10年間となりますが、この10年間を飯豊天皇一代の在位年数と考えます。この私の推定年代は推古天皇の崩年を基点として、それから古事記崩年干支註記の崩年を以て逆算して決めた年数です。それを参考の為、日本書紀の即位紀年と比較した表にして示しておきます。
3日 諸豪族の抗争の時代 仁徳王朝は雄略朝にいたり、諸政策が諸々の点で行詰り、加えて皇位をめぐる皇族内部の争いと、その争いへの諸氏族の介入が旧勢力の没落と動揺を深刻化したとみられます。
4日 特に雄略天皇崩後、継体天皇即位までの飯豊天皇の時代である10年間は、皇位継承が定まらなかった時代であり、この傾向に一層拍車がかかりました。強大化した専制君主の最後を飾る武断政治家・雄略天皇の大業半ばにしての崩御は、それまで雄略天皇という専制君主の権力で抑えてきた不平不満を一気に噴き出させてしまい、大和政権内部に激しい抗争と動乱が起きたのです。
5日 星川皇子の皇位奪取失敗 雄略天皇の晩年には、早くも星川皇子を首謀者として皇位をうかがう反抗が表面化していました。星川皇子のことは、「日本書紀」だけに見えるのですが、それによりますと、雄略天皇は吉備臣田狭(きびのおみたさ)の妻である稚媛(わかひめ)を奪いとり、次妃にして(いわ)()・星川の二皇子を生ませます。田狭は任那(みまな)に派遣されていたので、任那を根拠地として反乱を起こしますが、失敗してしまいました。
6日 そうした関係から、稚媛は雄略天皇に恨みを持っていたので、星川皇子が資質剛毅なことから大いに頼みとして、皇位脱取を狙うようになったわけです。雄略天皇崩後、皇妃稚媛は皇子に対し、「天下の位に登らんと欲せば、まず大蔵の官をとれ」と指示を与えています。兄の磐城皇子は、これをおさえたのですが、星川皇子は母の言に従い、大蔵を襲ってまでこれを占拠し、その財物を使って、徒党を集めて反乱を起こしました。
7日 日本書紀の記述 この事は、雄略朝の宮廷でも十分察知していたと思われます。なぜかと言いますと、雄略天皇が崩御される時に、星川皇子を警戒して大伴室屋に「事が起きたなら、皇太子を擁して星川皇子を襲うべし」と遺詔されたと「日本書紀」は記しているのです。
8日 吉備氏抹殺 星川皇子が事を構えたのと前後して吉備臣屋代が征新羅将軍として出征の途次、吉備に至った所で、その配下の蝦夷500人が雄略天皇の死を知って反抗の気勢をあげたと言われ、また吉備上道臣は星川皇子の反乱軍を救援するため、兵船40隻を率いて海路大和に援軍を送ったとあります。 そこで大伴大連室屋は奮戦して大蔵を包囲し、火を放ったので星川皇子をはじめ稚媛・磐城皇子等みな焼死し、吉備氏はこうして中央から抹殺されてしまいました。
9日 飯豊天皇後の新天皇擁立の争い 次いで清寧天皇かが立たれたと記されているのですが、この天皇は大和の旧豪族葛城大臣円の(むすすめ)韓媛(からひめ)から生まれた皇子とされています。私は、この清寧天皇は架空の天皇であると見ますが、こうした記述は、皇位継承を巡って葛城氏の勢力挽回の策謀が陰で働いたことを示唆していると考えます。この清寧天皇は病弱で、皇嗣のないまま亡くなり「日本書紀」はここで仁徳天皇以来の皇位が断絶したと明確に述べています。
10日 葛城氏は そこで、葛城氏は、女巫(みこ)として権威のあった未婚の皇飯豊(いいとよの)(あおの)(みこと)を擁立し、辛くも皇位を継承し、飯豊天皇の時代となります。飯豊天皇は「古事記」によれ市辺(いちのべの)(おし)()(わけ)(おう)の妹で、またの名を飯豊王といい、葛城の(おし)(うみの)(つぬ)刺宮(さしのみや)を本拠としていた、権威ある巫であった。 
11日 飯豊天皇 この飯豊天皇もやがて崩じますが、その間、清寧天皇大嘗祭(おおなめのまつり)の供奉料を徴するため、(やまべ)(むらじ)の先祖伊予の来目部(くめぶ)小楯(おだて)を播磨国へ遣わした時、明石郡(しじ)(みの)屯倉(みやけ)で二皇子を発見し、その二皇子が相次いで皇位を継ぐことになったと「日本書紀」は記しています。即ち、これが顕宗・仁賢の二天皇で、いわゆる皇子探索の物語です。そして、この二天皇の間、平群(へぐりの)大臣(おおおみ)の専権が続きますが、この平群大臣も続く武烈天皇の時に大伴氏の為に滅ぼされます。
12日 私はこの顕宗・仁賢の二天皇も架空とみて、こうした記述は皇位継承の混乱を表すものと考えます。このように見てきますと、飯豊天皇の時は、大臣・大連などの有力な中央豪族たちの間で雄略天皇の後を継ぐべき新天皇の擁立を策して激しい抗争があり、その最後の段階で大伴大連金村が他の豪族を抑え、飯豊天皇の後を継ぐ皇子の擁立に成功したと判断できると考えます。
13日 註 大臣 大臣 政を執る高官。 

大連古代、律令制以前の最高官。連の姓の最有力者。臣の最有力者大臣と並んで国政に参与。
14日 大伴大連金村の画策  さて、せっかく擁立した巫王としての飯豊天皇でしたが、この皇女は早くから有力な巫として未婚独身の皇女でしたので、当然御子がありません。それで、この皇女を擁立した群臣は、この皇女に夫を定めて皇位継承者を得ようと策し、皇女の居所であった角刺宮に置いて定めます。
15日 与夫初交 処が、皇女は一夜「与夫初交(まぐわい)」をされたのですが、「わずかばかり女の道を試み知ったが、何も異常なことはないようだ」と語られ、それ以後遂に「男性に交わることを願う気はないと言って性交を拒絶されてしまわれ、子どもを、もうけられなかったといいます。
16日 また,「日本書紀」は一説とし皇女に夫があったことは詳かではないと、夫婦生活を営まれたという説を否定する説をも並記していますから、飯豊天皇に皇子がないことは確実です。
17日 仁徳王朝は断絶


継体王朝の成立
それゆえ、大伴大連金村は飯豊天皇の崩御後、再び雄略天皇の場合のように、皇位継承をめぐる内紛が起きないように、予め男大迹王を見出して、後の皇位継承を策していたのであろうと私は考えるわけです。こうして、雄略天皇の後、緊急措置として巫王飯豊青尊を擁立し、この天皇の崩御によって仁徳王朝は断絶し、大伴大連金村の策した越前からの新しい王朝の成立を見たのです。継体王朝はこうして成立したわけです。
24講 三王朝交替説と万世一系
18日 万世一系の観念


万世一系の皇統と史実としての三王朝交替を考える
日本の天皇の存在について古代人はどう考えていたのでしょうか。
本講義では、こうした視点から古代史を眺め、「記紀」がその基本的思想として示している万世一系の思想と、これまで本講座で構築してきた史実としての古代史の関係を考えたいと思います。なぜなら、そうすることで「記紀」の虚構性と、そこに隠されている史実という事態が理解され、そのことが三王朝交替の妥当性を補強するからです。また、その結果として、私たちは真の意味で、万世一系の皇統譜というものを是認できるのだと思います。 
19日 万世一系思想の確立 日本の天皇が、万世一系であるということは、皇祖神天照大神から、天孫降臨を、日向三代を経て、初代の神武天皇が大和を平定して国を建てられてからずっと、「古事記」では第33代推古天皇まで、「日本書紀」では、第41代持統天皇まで、代々の天皇が皇位を継承してこられたという処に如実に表現されています。
神聖なるものの絶えざる連綿とした流れ、そうした流れそのものが犯すべからざる神聖なものであり、その流れに日本を統治する力がある何かそうした神聖さに包まれた日本の天皇の万世一系の思想、それが「古事記」や「日本書紀」を主体とするところの「天皇」の思想でもあったと考えられます。
20日 現人神

古くは、天皇は現人神(あらひとがみ)だと云われておりました。現人神(あらひとがみ)だという考え方の端的な表現としては「万葉集」の歌があります。例えば、柿本人麻呂の詠んだ歌の中に、

「王神座者。雲隠。伊加土山爾。宮敷座。・・・・・おおきみは かみにしませば、くもかくる、いかづちやまに、みやしきますも」

と言うものがあります。
天皇は神なのだから伊加土山の上にさらに庵をする、という意味です。

21日 大君は神にしませば

この歌を見れば、古くから日本の天皇は現人神(あらひとがみ)であるという思想が存在したことがわかります。
然し、色々な「万葉集」の歌などから考えてみますと、天武朝以後「大君は神にしませば」というような考え方が当時の官僚たちの間で抱かれたことは確かでありますが、だからと云ってそれが古くから日本人の間での固有の思想であったとは云えないのです。それは、国家体制のもとで確立されたとみられるのです。

22日 天壌(てんじょう)無窮(むきゅう)

つまり、端的には、「記紀」の中の“天壌(てんじょう)無窮(むきゅう)の天照大神の神勅文”の存在によって基礎づけられる「万世一系の神聖皇統」という思想は、人麻呂のような官僚貴族たちによって育まれ、天皇の地位の確立過程において成長してき思想であると考えられるのです。

23日

神勅
天照大神が皇孫・瓊瓊(にに)(ぎの)(みこと)をわが国土に降す時に、八咫(やたの)(かがみ)とともに授けたという言葉。

24日 血縁がなくて天皇の位を継いだ継体天皇

「万葉集」の歌などには「イヤツギツギニツガノキノ」という表現がしばしば天皇或は皇位を継承を寿ぐ表現として使われています。次々に継いできたのだから万世一系ではないか、と人々は云ったのです。然し、これをよく考えてみますと、古代の人々は次々に継いできたということを、必ずしも血筋が一系であることと同義には考えていなかったようです。

25日 越前三國

例えば、初代神武天皇からかなり後の時代ですが、継体天皇が大伴(おおともの)大連(おおむらじ)金村(かなむら)に迎えられて新たな王朝をつくったと「記紀」に伝えられています。この越前三國からつれてこられた継体天皇(実名は男大迹(おおど))に対し、「日本書紀」は初めはそうした諡号(しごう)を使っておりませんが、近江三船が定めた諡号の中で、漢風の諡号を奉った時、初めて男大迹(おおど)を継体天皇と称したのです。

26日 継の字

この「継」の字は「継ぐ」という意味ですが、血縁関係がなくて、地位・身分を継承する場合に「継ぐ」と言います。それに対し、血統が繋がって継承する場合は嗣子(しし)の「嗣」という字を書いて「()ぐ」というわけです。

27日

また、継承の継の字は継母・継子の「まま」という言葉に該当させる文字です。従って継体天皇は血縁関係がなくて天皇の位を継いだのだという考えが、奈良朝の貴族の間にはあったと見られます。

28日

即ち、継体天皇が皇位を「継いだ」ということは、決して血のつながりを主張しているのではなく、血のつながりが無くてもいいのだということになります。

29日 霊能を継

では、血ではなく何を継ぐのかということになりますが、それは皇祖神天照大神の力・霊能を継承するということだと思われます。

30日

極端な言い方をすれば、血のつながりが無くても一定の儀礼を行って正確に天照大神の霊能を自身の体に授受すれば、その人は皇祖神天照大神の霊能を完全に身に帯したということになるわけです。

31日 神聖性の継承 それが日本に於ける万世一系の考え方だとしますと、血のつながりということも大切ですが、もつと大切なこととして神聖性の継承ということが皇位継承の中心をなしているのです。