徳永の「古事記」その10 
      「神話を教えない民族は必ず滅んでいる」

平成25年1月

元旦 神功皇后 さて、神功皇后である。私の別の欄では、古代史をやている。日本古代史の謎で、水野祐教授は神功皇后は架空の人物だと比定しておられる。だが、この皇后は地方の民謡にも歌われたり、日本人にはとても懐かしい歴史上の人物であり架空であって欲しくないものがある。私は、そのような思いで採りあげて行く。
2日 古事記には、 「その大后・(おき)長帯比売(ながたらしひめの)(みこと)は、当時(そのかみ)神を()せたまひき」とある。神が皇后により()いたのである。政を司る女帝である。古事記や日本書紀には我々の抱く「勇ましい女大将」皇后のイメージは殆ど現れていないのも事実である。
3日 中世で元寇の襲来を受けた日本では、「異国征伐」のシンボルとして神功皇后の物語が増幅された模様である。例えば、京都の祇園祭の最古の山鉾の一つである「(ふね)(ほこ)」には、甲冑をまとった男装の神功皇后をご神体としている。その脇の住吉神社と安曇磯良の姿もある。このご神体の姿は、元の襲来を受けて書かれた「八幡(はちまん)()(どう)(くん)」に由来していると言われる。 
4日 巫女の役割 朝鮮半島でも、新羅侵攻を成し遂げたと伝えられる神功皇后は、豊臣秀吉と共に悪名を以て知られているらしい。古事記では、どのように描かれているのであろうか。古事記と日本書紀では、皇后は、天照大神の託宣を受けて事を成す巫女の役割として登場している。
5日 品陀和気 古事記では、最初に皇后の腹中にいる品陀(ほむた)和気(わけの)(みこと)(後の応神天皇)の腕に「(とも)」のような形の肉塊があったと語られている。鞆は武具である。それを「(せい)(こん)」として持つ天皇は、生まれながらの王であり、皇后は単なる母の役割である。
6日 神意 また、古事記は、王を扶助する巫女の立場も強調されている。「・・・神を()せたまひき」である。託宣を信じない仲哀天皇の崩御により代わって神意を行う。「この国はおまえの腹の中の子が統治すべきである」という天照大神からり託宣からは巫女として、腹の中の子を守る役割が期待されている事は明白である。
7日 応神天皇が、越前敦賀から帰還した時、神功皇后は、「侍酒を()みて」献じたとする(日本書紀)では「(みさかづき)を挙げて」と表現されている。儀式用の酒を醸すのは巫女の役割である事を勘案すると「古事記」では神功自身が決して「王」ではなく息子の王権の補佐に徹底していると言えるのである。
8日 天照大神の命を知る役割 「日本書紀」では、神功皇后を「天皇」とまで言っておらないが、応神天皇の摂政として振るった政治的手腕に就いて多く記載している。若くして聡明、容姿に恵まれた神功は、自ら神主となり神と対話して天照大神の命を知る役割である。
9日 謎に包まれたまま 日本書紀で、古事記にはない記述は、神功を卑弥呼に重ね合わせていることである。邪馬台国の王、卑弥呼は、女性にして首長であり魏と通交した日本最古の権力者である。謎に包まれたままでアマテラスのモデルかとも思われてきた。
10日 意図 日本書紀の神功皇后摂政39年には、「魏志に云はく」として明帝の景初36月に「倭の女王」が皇帝に朝献したという一文を載せている。卑弥呼のことをここに入れ込む事で、新羅を平定し魏と関係を結ぶ、言うなれば日本の大陸進出政策を神功皇后の功績に読み替えたい意図が類推されるのである。
11日 天皇と並ぶ存在

古事記では「母、巫女」、日本書紀では「女王」と皇后の性格が変動している。中世の元の襲来以後、初の女性天皇として位置づけようとする言説が見られるという。神功皇后は、古事記では「母、巫女」、日本書紀では「女王」と皇后の性格が変動している。中世の元の襲来以後、初の女性天皇として位置づけようとする言説が見られるという。神功皇后は、天皇と並ぶ存在として意識されていたのである。されていたのである。
12日 水鏡 「水鏡」という歴史物語によると、神功皇后は、第14代の仲哀天皇の次ぎの第15代として列せられ、皇后と呼ばれるが天皇と同列扱いがなされているという。「辛巳(かのとみ)の年102日に位に付き給ふ。女帝はこの御時に始まりしなり」と語られている。
13日 宣言 新羅軍に対峙した神功は、高らかにこう宣言する「日本はもともと、女神であるアマテラスが国主であるから、女が王となるのは当然の国なのだ」と。
14日 不可思議な存在 北畠親房の「神皇正統記」では、神功皇后を第15代として天皇の内に数えている。このように中世では、神功皇后が女帝の濫觴(らんしょう)と考えられていた。神功は、髪を男子の髪型である?に姿で新羅に出征している。鎧の下に一切を押し込めた神功は、天皇でもなく、母でもない、不可思議な存在として中世で生きていたようである。
古事記
下つ巻
古事記 下つ巻
15日 国家の確立 天照大神を中心の様々な神々の神話の時代。やがて次第に神話の世界から離れて、おぼろげであるが、その新しい輪郭が見えてくるのである。
16日 仁徳天皇 応神天皇が後継者としたのは、大山(おおやまもりの)(みこと)大雀(おほさざきの)(みこと)宇遅(うじ)()和紀郎子(わきいらつこ)の三人の中の宇遅(うじ)()和紀郎子(わきいらつこ)であった。天皇が崩御されると兄の大山守(おおやまもりの)(みこと)は従わず反乱を起こして殺された。あとの二人は譲りあっていたが、宇遅(うじ)()和紀郎子(わきいらつこ)が亡くなり大雀(おほさざきの)(みこと)が即位した、仁徳天皇である。
17日 16代仁徳天皇から、21代の雄略天皇の時代は、歴史的には、南北朝時代(5-6世紀)の中国南朝の史書に名前が残る、(さん)(ちん)(せい)(こう)()の「倭の五王」に相当すると言われている。讃は仁徳天皇と比定されている。
18日 16代 仁徳天皇 「国の中に(けぶり)()たず。国皆貧窮(まづ)し。故、今より三年に至るまで、(ことごと)人民(たみ)(みつぎ)(えだち)(ゆる)せ」
19日 17代 
履中(りちゅう)天皇
仁徳天皇の長男。()()本和気(ほわけの)(みこと)次男は皇位を狙い謀反、三男の謀略により次男・中津王を暗殺し兄弟が皇位を継承した。
20日 18代 
反正(はんぜい)天皇
仁徳天皇の三男。(みず)()別命(わけのみこと)
21日 19代 (いん)(ぎょう)天皇 仁徳天皇の四男。男浅津間若子宿禰(をあさづまわくごのすくねのみこと)(みこと)
22日 20代 
安康(あんこう)天皇
(いん)(ぎょう)天皇崩御の時、木梨之(きなしの)軽太子(かるのたいし)が天皇と決まっていた。だが、軽太子は、同腹の妹の軽大郎女(かるのおほいらつめ)と恋に落ちた。役人もこれにより太子に背き弟の(あな)(ほの)(みこと)を推薦した。戦いとなり兄妹二人は自殺した。そして(あな)(ほの)(みこと)が安康天皇となった。
23日

21代 雄略(ゆうりゃく)天皇 大長谷(おほはつせ)(わか)(たけの)(みこと)

葛城山の一言(ひとこと)(ぬしの)大神(おおかみ)とのやり取り、「まさか大神が現実のお姿をあらわされるとは」と天皇は恐れ畏み大神に献上された話。
神は天皇を山の峰から長谷(はつせ)の山の入口まで送られた。
24日 22代から25代 22代 (せい)(ねい)天皇 白髪(しらかに)大倭(おほやまと)根子(ねこの)(みこと)この天皇は皇后も御子もないまま崩御された。
23代 顕宗(けんそう)天皇 袁?(をけ)縁のある兄弟二人が争い、弟が歌う「われは()()本和気(ほわけの)天皇(履中天皇)の御子、市辺之(いちのべの)(おし)()(おう)の末と。弟の袁?(をけ)が先に皇位を継いだ。
24代 (にん)(けん)天皇 意?(おけ)履中天皇は38歳で崩御され兄の意け(おけ)が皇位を継承した。これより先に物語は無い。
25代 武烈(ぶれつ)天皇 小長谷(をはつせの)(わか)(さざきの)(みこと)(にん)(けん)天皇 意け(おけ)の御子である。名を小長谷(をはつせの)(わか)(さざきの)(みこと)という。この天皇の治世は8年、御子がないので仁徳天皇からの王統はここで途絶えた。
25日 26代 継体(けいたい)天皇 袁本杼(をほどの)(みこと) そこで、仁徳天皇の父に当る品陀(ほむだ)天皇(応仁天皇)の五世である袁本杼(をほどの)(みこと)を近つ(おほ)海国(みのくに)から上京させ、武烈天皇の姉である()白髪(しらがの)(みこと)と結婚させ皇位を継がせた。これが天皇男系相続の証である。継体天皇の都は伊波(いは)()(桜井市)の玉穂宮である。この天皇の時、(つく)(しの)(きみ)(筑紫の国造)石井(いはい)(磐井)が反乱を起した。
26日 物部(もののべの)(あら)(かひ)大連(おおむらじ)と、大伴金村(おおとものかなむら)(むらじ)の二人に石井の討伐をさせた。古事記には「竺紫君石井、天皇の命に従はずして多く礼無かりき」とあるのみである。だが日本書紀には事件の詳細の記述がある。天皇は43歳で崩御。日本書紀では450年?531年としている。御陵は大阪府茨木市の「藍の御陵」である。これ以後の天皇の推古天皇までは天皇の系譜が語られるのみで、天皇の事蹟も、御世を語る物語も全くない。()(しゅん)天皇と推古天皇の二人に就いては系譜さえ無く、宮と治世の年数、御陵に就いて記すだけで終わっている。継体天皇より後の時代は、もはや古事記、ふることふみ、として語る時代でなかったのであろうか。 
27日 27代から
33
27代 安閑(あんかん)天皇 広国押(ひろくにおし)(たけ)(かな)(ひの)(みこと)
28代 宣化(せんか)天皇 建小広国押(たけおひろくにおし)(たての)(みこと)
29代 (きん)(めい)天皇 天国押波流(あめくにおしはる)()広庭(ひろにわの)(みこと)
30代 ()(だつ)天皇 沼名倉太玉敷(ぬなくらふとたましきの)(みこと)
31代 (よう)(めい)天皇 (たちばなの)(とよ)(ひの)(みこと)
32代 ()(しゅん)天皇 長谷部(はつせべのべ)(わか)(さざき)
33代 推古天皇 豊御気炊屋比売(とよみけかしぎやひめの)(みこと)
28日 奈良県立図書情報館長の論述

千田稔・奈良県立図書情報館長の論述を下記して本稿を終了する。

聖徳太子・蘇我馬子と史書
日本書紀、推古天皇28年、620年是歳条に皇太子(ひつぎのみこ)(しまの)大臣(おほおみ)、共に(はか)りて、天皇記(すめらみことのふみ)及び国記(くにつふみ)臣連(おみのこむらじ)伴造(とものみやつこ)国造(くにのみやつこ)百八十部(ももあまりやそとものを)(あわせ)公民(おほみたから)(ども)本記(もとつふみ)(しる)す」とある。聖徳太子と蘇我馬子が史書を作ったとする記事である。

29日

天皇記は、天皇の系譜や業績を記したもので古事記に言う帝紀にあたる。国記とは国家に関わる記録で歴史や地誌なとのことであろう。臣連以下は、当時の身分階層をいうもので、本記とはそれらの人物台帳のようなものと思われる。これらの記録を収めた史書が、どの程度完成していたかは不明であるし、この時期、聖徳太子と蘇我馬子の関係は親密と言えなかったので共同してこの仕事に当ったかも疑わしい。

30日 大化の改新

645年の乙巳(いつし)の変、いわゆる大化の改新のクーデターの時の記事として日本書紀は、「()(がの)(おみ)蝦夷(えみし)()(ふね)史恵(のえ)(さか)、即ち()く、焼かるる国記を取りて、中大兄(なかのおおえ)奉献(たてまつ)る」と記す。息子の入鹿が斬殺されたため、蝦夷にも殺害の手が及ぶことは必至とみて、天皇記・国記・珍宝を焼いたと言うのであるが、なぜ、天皇記・国記などを焼かねばならなかったのか。そのあたりの事情が分りにくい。推測するに、天皇記・国記は珍宝とともに、国家の存在を保証するに足る価値あるものであったのであろう。蝦夷は、それを焼くことによって、国家の存続を崩壊させようとしたと思われる。

31日 徳永の古事記

  完

(ふね)史恵(のえ)(さか)は、焼かれようとした国記を、辛うじて素早く取りあげて中大兄に献上したのであるが、それがどのようなものであったかは不明である。(ふね)史恵(のえ)(さか)は、入唐して玄奘(げんじょう)に師事した道昭の父にあたる。         
            徳永圀典
 完成 
        平成24331日午前1037