徳永圀典の「日本歴史」その23
平成20年1月
  

 1日 第一次世界大戦への参加 日本は三国協商側についており、日英同盟の約束により参戦しドイツに宣戦布告した。ドイツの植民地であった中国の山東半島の青島(ちんたお)や太平洋上は赤道以北の島々を占領したがヨーロッパ戦線への出兵は断った。 大正六年、1917年になりドイツの潜水艦が商船を警告無しで無制限に攻撃するようになるとアメリカがその暴挙に参戦、日本も駆逐艦を地中海に派遣した。この時ドイツ潜水艦から魚雷が発射されその発見が一瞬遅れた時、日本駆逐艦は連合国船舶の前に全速力で突入して盾となり自ら撃沈されて責任を果たした美談がある。犠牲になった日本海軍将兵の霊は現在もマルタ島の墓地に眠っている。
 2日 二十一か条の要求 中国は、青島からの日本軍の撤退を求めてきた。日本はそれに対して大正5年、1915年、ドイツが保有したいた山東省の権益を引き継ぎ、関東州の租借期限の延長、南満州鉄道の経営権の期間延長、満州・モンゴルの権益保持などの二十一

か条要求を中国の袁世凱大総統に受け入れさせた。英国と米国がこれに抗議してきた。二十一ヶ条は五項目に分かれ、第五項目は希望条項であったが秘密扱いとされていた。この第五項目は、政治、財政、軍事上の日本人顧問の受け入れ、日本製兵器の大量購入の要求が記載されていた。これは希望条項とはいえ、日本のごり押しであろう。 

 3日 ロシア革命勃発 戦争の長引く最中、1917年、ロシア革命が勃発した。世界初のマルクス主義に基づくプロレタリアート(労働者階級)独裁の共産党政権がレーニン指導の基に成立した。 労働者、農民、兵士を中心に組織された代表者会議、即ちソビエトが政府を作り事実上はレーニンの独裁体制が敷かれた。だが、これも人民を70年苦しめて崩壊した、所詮、自由は人間の本質である。現在の中国も共産主義であるが事実上は経済の自由化が進み人間性の欲求と共に崩れて行く
 4日 共産党は意味の無い政党 ソビエト政府は、ドイツとの戦争を止め、革命に反対する国内勢力との内戦に没頭した。ロシア皇帝一族、貴族、地主、聖職者、知識人らが多数処刑された。中国と同様である。日本人の維新とは大違いの悪辣さが見られる。  マルクス主義は、資本主義が高度に発達した国に革命が起き、社会主義に取って代るのが歴史の必然としているがロシアは資本主義が発達していなかさったのである。ロシア革命後の歴史を俯瞰してみても国家人の自由が保障された市民社会、資本主義の成功した国には革命は発生していないのである。日本共産党は意味の無い政党ということになる。税金の無駄遣いであろう。
 5日 シベリヤ出兵

第一次大戦中、ロシアを攻めたオーストリア軍の中にはオーストリア領に属するチェコスロバキアの民族部隊もいた。彼らは独立を求めて敵国ロシアに投降しようとしたが、そこで革命が勃発しロシア領内で孤立してしまつた。1918年日本はチェコ部隊救出とシベリアへの影響力拡大を目的にアメリカなど共にシベ

リアへ共同出兵した。
やがてアメリカは撤退したが、1922年まで日本は共産軍と戦い兵を引かなかったのでアメリカの疑念を招いた。永年、ロシア南下の脅威にさらされていた日本は共産主義革命に対してもアメリカ以上に強い警戒感を抱いていたのである。ヨーロッパも同様で軍隊を送り革命阻止の干渉戦争を行った。この気持ちをアメリカが理解しないから今日のように中国が共産化してしまったとも云える。

 6日 世界大戦の終結

1918年、ドイツやオーストリア側の敗北で第一次世界大戦は終結した。参戦した日本は結果として少ない犠牲で戦勝国

とにり成功した。
この大戦を機に、国際社会での発言権を強めた国は日本とアメリカであった。アメリカも国力の総てを賭けた戦争ではなかった。
 7日 総力戦の悲惨 最大の戦場となったヨーロッパは、相互殺戮の荒れ果てた光景を残した。 限られた被害で一定の成果を得た日米両国、初めて総力戦の悲惨な現実を経験したヨーロッパ諸国との間では微妙なズレが生じていた。
 8日 国際連盟 1919年パリで講和会議が開かれ、米国・フランス・英国の三カ国を中心に戦後処理方針が模索された。日本は五大国の一つとして出席した。ヨーロッパではこれまで諸国家が軍事協定を結び 勢力の均衡を保つことで平和の維持が図られていた。
これに対してアメリカのウイルソン大統領は、諸国家の利害の総てを超える監視組織として、世界平和と国際協調を図る国際連盟の設立を提唱した。フランスなどは、政治的現実から空論であるとして悉く反対した。
 9日 ベルサイユ条約 然しながらアメリカの参戦でやっと勝てたのがヨーロッパの現実でもあり、悲惨な戦争を繰り返したくないという厭戦感 情も強かった。
パリ講和会議の結果、ベルサイユ条約が締結され、各国はアメリカの提案を受け入れることとなったのである。
10日 アメリカのエゴ ベルサイユ条約によりドイツは植民地と領土の一部を失う。また莫大な賠償金の返済に喘ぐこととなった。ウイルソン大統領の唱えた民族自決の理念に基づき東ヨーロッパでチェコスロバキア、ハ

ンガリー、ルーマニアなどが独立を果した。
1920年、国際連盟は発足したが、提案国のアメリカが議会の反対により参加せず、国際連盟は限られた力とか発揮出来なかった。アメリカ議会はベルサイユ条約そのものの批准も拒否した。
 

11日 日本の大戦景気 大戦中日本では連合国への軍需品の輸出が急増、アジア地域への輸出も伸展した。輸出超過と重工業の急速な発展は空前の好景気をよんだ。大戦景気により巨万の富を手に入れた成金と称する

人々も登場し、財閥は益々力を伸ばした。
日本は第一次世界大戦により日清・日露戦争に続く第三の成功を収めたことになる。一方、大戦景気に酔う日本は、これからの戦争が総力戦となるという世界情勢の動向に深く注意を向けていなかつたのである。
 

12日 アジアの独立運動 大戦後、民族自決の気運が高まり、アジアでも新しい民族運動が起こった。インドでは非暴力主義のガンジーやネールが、当初約束されていたインドの自治を英国に要求したが弾圧された。 然し、此れを機にインドの独立運動は大きく発展した。朝鮮半島では、1919年3月1日、旧国王の葬儀に集まった知識人らがソウルで独立宣言し独立万歳と叫んでデモ行進を行うと忽ち全土に拡大した。
13日 朝鮮と中国の独立運動

朝鮮半島の独立運動に対して、朝鮮総督府は武力で弾圧した。一方でそれまでの統治の仕方を変えた。

中国でも、パリ講和会議で日本が中国の旧ドイツ権益を引き継ぐことを決定すると同年5月4日、北京の学生が抗日運動をおこし各地に広がった、五・四運動である。 

14日 米騒動と政党内閣 大戦による好景気は物価高を招き人々の生活は苦しくなった。大正7年7月、シベリア出兵を当て込んだ一部商人のコメ買占めの噂で米価が上昇した。 これに怒った群衆がコメ商人を襲撃する騒乱が全国各地に発生した、米騒動である。こうした民衆の運動を背景に政友会相殺の原敬が首相となり本格的な政党内閣が誕生した。原は鉄道拡充と産業振興に努め政友会の地盤を養った。
15日 大正デモクラシー 大戦で連合国の勝利は民主主義の勝利とする見方や国際連盟の結成で新しい平和な時代が到来したとの雰囲気が広がった結果、民主主義の思潮と国際協調の世論が高まった。これを大正デモクラ シーと呼ぶ。吉野作造などの指導により民本主義(デモクラシーを民主でなく民本とした)の運動が始まり普通選挙運動も活発化した。日本最初のメーデーが大正九年に起き、労働運動も盛んになった。農村では小作争議が広がり農民運動も盛んになった。
16日 社会運動

全国水平社が組織され部落差別撤廃運動が本格化した。女性の地位向上の婦人運動も開始され、平塚らいてう、市川房枝らの活躍により婦人参政権が主張されるようにな

った。
ロシア革命の影響で、知識人や学生の間にマルクス主義思想が広がり非合法の中に日本共産党が結成された。他方、国際協調を批判し、民族主義的な立場から国家改造を説く多くの国家主義団体も結成された。
17日 憲政の常道 指導力を発揮していた原敬は政党に反感を抱く青年に暗殺された。政党勢力は有力な指導者を失い、暫くは非政党内閣が続いたが大正13年、政党勢力が連合して第二次憲政擁護運動を起こし、

加藤高明の護憲三派内閣が成立した。
これより八年間、二大政党の総裁が交互に首相に任命される政党内閣の慣行が続き「憲政の常道」と呼ばれた。大正14年には普通選挙法も成立25才以上の男子全員が選挙権を得た。
 

18日 大正文化 明治末から大正期にかけて、日本が欧米と対等の国になるという目標が一応達成されると新しい知識に敏感な青年達の関 心は、国家と共に個人にも向けられるようになった。それに伴い、個性の尊重、自己実現が説かれて西洋文学・芸術・哲学などに触れて教養を深めることが重視されて行く。
19日 自由と知的雰囲気 このような雰囲気を背景に禅の体験の上に西洋哲学を取り入れ独特の哲学を生み出した西田幾多郎、日本の庶民の生活風俗を研究する民俗学を始めた柳田國男、日本の神話の実証的な研究を行った津田左右吉などが学問 に新しい発展をもたらした。
文学では、人道主義を掲げた志賀直哉や武者小路実篤、有島武郎など白樺派作家たち。耽美的な作品で有名な谷崎潤一郎、理知的な作風の芥川龍之介などが登場した新しい大正精神を表現した。新劇と呼ばれる、西洋の舞台を模範にした演劇も盛んになった。
 
20日

大衆文化

大正半ばから国公私立の大学、また中学校や高等女学校が増設され、中等・高等の教育が充実されてゆく。このように民衆の知識水準が向上するにつれて、ジャーナリズ ムが更に発展し中央公論、文芸春秋などの総合雑誌が多数刊行され、文学全集なども大量に出版された。ラジオ放送も開始されマスコミ発展による文化の大衆化が進行した。
21日 都市生活 近代工業の発展による都市生活者の増大と共に、郊外私鉄の開通、カレーライス、コロッケ、トンカツなど洋食の普及、デパートの開店、乗合自動車路線の拡大。 また女性の洋装の普及など都市生活を特徴づける現象が拡大した。バスガールや電話交換手など女性の新しい職場への進出も始まった。第一次世界大戦後にはアメリカ文化が流入し、特に映画は非常に好まれた。
22日 夏目漱石・森鴎外 西欧化の風潮の中、近代日本人の苦悩を描いた作家である。漱石は「我輩は猫である」、「坊っちゃん」などで人気があるが一方で「それから」 「道草」、「明暗」などで近代日本人の苦しみを描いた。

鴎外は「妄想」、「かのやうに」などで知識人の内面を描いた、晩年は「渋江抽斎」のような歴史小説を書いた。

23日

夏目漱石・森鴎外 2

この二人の文豪は異なった環境に生まれた。漱石は江戸っ子と自称するように庶民の出、鴎外は石見国津和野藩の藩医の息子で武士の伝統の中で育った。 然し、この二人は共に西洋文化に、どのように対するかという問題を、最も深く考えた日本の知識人と云ってよい。
24日 夏目漱石・森鴎外3 漱石はロンドンで二年間過ごした、「生涯もっとも陰鬱な二年」と述べた留学生活であった。鴎外は、陸軍軍医としてドイツで4年間衛生学を学んだ。留学生活は快適なものであったと言われる。

夫々の体験が彼等の西洋観に影響した。漱石は、個人どうしがお互いを信用する日本人と、お互いを疑う西洋人の相違に悩んだ。鴎外は堂々と西洋学者を批判し日本には科学研究する風土が無いという意見に答えて、日本人でもそれが可能だと反論していた。 

25日 漱石

漱石の最初の小説「我輩は猫である」は猫の眼から英語教師の家族を観察するという形をとっているが、単なるユーモア小説ではない。その中で個性を殺して全体に合わせようとする日本人と、どこまでも個人を単位とする西洋人との考え方の

対比を取り上げ登場人物に議論させている。
漱石は、西洋的な個人主義を支持しながら、無批判な西洋崇拝に対して皮肉の矢を放ち「西洋人より昔の日本人が余程えらいと思う」という人物も登場ささせている。また漱石は「それから」でも西洋的な競争にふさわしくない日本人の姿も描いている。
26日 鴎外 鴎外は「妄想」で、ドイツに留学した経験のある老人の回想という形で、日本人としての主人公の過去の生活を小説にした。ベルリンで病死した日本人留学生のことを思い出しながら、自分と西洋人の死に対する態度を比較する。

「西洋人は死を恐れないのは野蛮な性質だと言ってる」が、それに納得できない自分を見出すのである。或いは「かのやうに」では、西洋人のように総てのものを疑いの眼を向ける自分と、家に伝わる、天皇を中心とする日本人の伝統との矛盾に悩んだ姿を描いている。 

27日 興津弥五(おきつやご)()衛門(もん)

鴎外は、明治天皇崩御の際に殉死した乃木希典夫妻に感動し、「興津弥五(おきつやご)()衛門(もん)の遺書」を書き上げた。また晩年の歴史小説では、日本人の変わらぬ心の伝統に目を向けた。

漱石は、「こころ」で、乃木大将の殉死を知り、急速に死に傾斜して行く人物の姿を描いている。最晩年の漱石は漢詩の世界へ入り、時代の新奇なものを求める人々に対する苛立ちを描写している。 
28日

西洋化の煩悶

近代が、西洋化であるとの考えとその煩悶は、今日の日本人にはなお続いている。然し、それでいて、なぜ日本が、これ迄に必ずしも西洋一辺倒にならなかったのか。

その理由も考えて見なくてはなるまい。西洋と日本との間で苦悩する、この明治の文豪の煩悶は、今日の日本人として更に真剣に向かい合う必用のある現代的テーマではなかろうか。
29日 関東大震災 ヨーロッパ諸国は第一次大戦の終了後、次第に生産力も回復し、日本の輸出額は減少してきた。紡績業、製糸業初め、各産業に不況の波が押し寄せてきた。

大正12年、1923年9月1日には、関東大地震も発生、東京・横浜で大火災も起きて約70万戸が被害を受け、死者・行方不明は10万人を越えた。 

30日

不穏な社会

この大震災の混乱の中で、朝鮮人や社会主義者の間に不穏な企てがあるとのデマが広まり、住民の自警団などが社会主義者や朝鮮人・中国人を殺害するという事件が発生した。 この大震災は、不況のもとにある日本経済に大打撃を与えた。為に不況は一層深刻となり、昭和2年、1927年には遂に金融恐慌が起き多くの銀行が倒産した。
31日 共産主義の台頭 このような経済不安の中で労働運動が拡大、日本共産党の活動も活発化した。政府は、大正14年、1925年、ソ連との国交樹立に伴い、その影響が直接に日本国内に 及ぶことを予想して、共産党やその支援者を取り締まる治安維持法を制定した。だが、合法的な社会主義政党の活動は盛んで、昭和3年、1928年に行われた初の普通選挙では、これらの政党からも代議士が生まれた。