宗教の本質に関して   岫雲斎圀典

平成24年1月度                                                    

 1日

私は齢八十一歳に喃々とするが、若い時から宗教なるものに極めて強い関心を抱き煩悶して来たと言えるかもしれない。
十代後半には、日本キリスト教団、所謂プロテスタントの信者となり遂には東京赤坂、霊南坂教会の高名なる牧師・平山照次師により授洗した。(
日本基督教団東京山手教会創立者)
朝晩、主の祈りを捧げ年末には主を迎える賛美歌を街頭で唱和するまでに至った。その前後、成長の家にも興味を抱いたことがある。

 2日

仏教に就いては、子供の頃、自宅の仏前で朗々たる読経の僧侶にほんのりとした憧憬を抱いた記憶もある。社会人となり、三十代となると、現実の仕事の戦いの中で、遂にキリスト教の教えについて行けなくなってしまった。

 3日

厳しい戒律に自己欺瞞を覚えたのは間違いない。右の頬を打たれば左の頬を、女人をみて色情を抱くは、汝、姦淫したるなり、これにはとてもついていけない。ビジネスに没入してしまい宗教は忘却の彼方であった。

 4日

この間、読書で心を癒したのは間違いない。それは、色々な古典、箴言、格言であるが、高名な僧侶の説法に心を打たれたものも多い。自然と仏教へと導かれていきたのであろう。

 5日

気がついたら60才で引退し、檀那寺の檀徒総代となっていた。神社の氏子総代になったのもこの頃である。現実の仏事を色々とこなしたり、僧侶の説法を聞いていると実に中世的なのである。生きる上での思索、現実感がなく、死後の極楽を言う、当に葬式僧侶に過ぎないことを痛感するのであった。

 6日

私は、基本的には神道以外は、どの宗教も戒律を持ち、信者に引き入れたら、あの仏教さえも戒律を破れば地獄に落ちると恫喝する。キリスト教然り、イスラム然り、一神教は全てそうである。

 7日

深遠なる哲学を持つ仏教の経典を読むと、なんだこれは死者へのものではなく、生きている人間へのものではないか、僧侶が極楽のことを説法したことがあるが、本当に信じているのだろうかとさえ思った事はしばしばである。

 8日

私は、この世の人生でこそ、極楽にしなくてはならぬのだと思う。そのために教典があるのだ、教典は、事実、生きて行く上に学ぶべきものなのである。死者に捧げるものではない、生身の人間への教えなのである。

 9日

仏教は「生の哲学」でなくてはならぬ、と言うのが私の信念であり哲学であります。あのお釈迦様でも、あの世の事は説いておられない。死後の世界の事は触れておられない。何より大切なのは、自分を大切にして、「強くなりなさい」であった。自燈明である。全く同感である。信徒よ「釈迦に帰れ!」と叫んでおるのであります。

10日

色は匂へど散りぬるを 現世の救い
仏教に関心を持って久しい。智者の振る舞いをせずただ南無阿弥陀仏を唱うればお浄土にいけると説く浄土宗。鎌倉・戦国時代の民衆は飢餓と戦乱でこの世はまさに地獄、お念仏を唱え来世に託すほか救いはなかった時代と異なり現代人にそれのみで現世の救いとなり得るのか。鎌倉時代の如く民と共に生き、苦しみ、生きる道の見本を示す祖師の如き僧侶もいない現代、現代の衆生を救うにはそれなりの(ことわり)が必要と思える。その理の先、人間最晩年には間違いなく南無阿弥陀仏のみの境地があるとは確信するが青壮年期の生の戦いの最中に南無の帰依のみで生きる支えとはなり得まい。

11日

かかる意味で理のある救いをと私は多年にわたり求め続けてきた。第一、阿弥陀仏は西方浄土の盟主、あの世に行く時にお願いはするがこの世では現世の仏様に導いて頂きたく思って少しも不思議はない。本来人間は現世を誠実に生き抜くことで自ずからお浄土に繋がって少しもおかしくない。現世の生きる道の範を示す事こそ宗教者の真の目的であらねばならぬがこれらの答えが現代宗教者には無い。

12日

是生(ぜしょう)滅法(めっぽう)
仏教の基本原理は三法印、四聖諦、十二縁起、空と言われる。空海が作った「いろは歌」は涅槃経(ねはんきょう)の諸行無常を、いろはで表現した日本の傑作。「色は匂へど散りぬるを」桜花爛漫も栄華も人間も文明さえも必ず滅びる。「わがよたれぞつねならむ」我が世誰ぞ常ならむ、これは是生(ぜしょう)滅法(めっぽう)、この世には常なるものは無い、宇宙の本質は変化。「うゐのおくやまけふこえて」有為の奥山今日越えて、あるゆる存在、因縁により作られたものを越えるとは因縁の道理に目覚めること、この世の存在を不変と見ずに因縁により生起(しょうき)したと見る、これは生滅滅(しょうめつめっ)(つい)。「あさきゆめみじゑひもせず」人生、今日は今日のみの一期一会(いちごいちえ)寂滅(じゃくめつ)()(らく)である。

13日

つまり縁起の道理に基く中道の実践により輪廻(りんね)の世界から解脱し涅槃の境地を得るのだが、生身の体は欲望があるからこそ生きておるという矛盾との葛藤だ。涅槃とは執着を超越し、この世で実現すべき心の状態の謂いであり現世でこそ実現しなくてはならぬ「心の浄土」であると私の「(せい)の哲学の理」に於いて確信する。宗教は「生の哲学」でなくてはならぬ。

14日 すべての物に実体、自性がないことを(くう)般若(はんにゃ)は空なる真理をつかむ智慧を意味し、空と同義語。悟りの智慧であり、般若(はんにゃ)(くう)とはとらわれないこと、側面的には色即是空(しきそくぜくう)空即是色(くうそくぜしき)
15日

実体(じったい)()

諸行無常、諸法無我、涅槃(ねはん)寂静(じゃくじょう)が仏法の真理・三法印。すべてのものは無常、無我であると悟り執着を断てば平安な境地を得る。諸行は因縁により造られた一切のもの。これらが連続して流れ、一瞬にして滅する。無常なるものはみな苦であり第四法印は一切(いっさい)(かい)()。諸法の法は行と同じ、心身を構成する五蘊(ごうん)(物質、感覚、知覚、意志、認識)を(くう)と見る。我は存在せず、我が生命は常に躍動してやまず、生命は一息、一呼吸の中にこそある。常在、不変化(ふへんげ)実体(じったい)()は存在しない、これが諸法無我。この原理の上に宗教的実践を行うのが涅槃(ねはん)寂静(じゃくじょう)。現実的には我に執着するが、これを制し、律して無我となり自立自由になった時こそ、涅槃寂静。涅槃は本質的には煩悩の火を消すこと、解脱を意味する。この涅槃の状態を寂静、自分を縛っているものからの解放が即ち心の浄土である。

16日

無常の法
無常の法は、思考や論理から出発したものではなく、在るがままの現実から把握したものでなくてはなるまい。滅びさったものに感傷を抱くことに仏教は無縁、地上にあるものが無常の劫火(ごうか)に焼かれて滅ぶ(すがた)を在るがままに見ているにすぎない。

17日

在るがままの現実
苦とは生老病死、再び戻らぬから死を悲しむのは無益、「もう私の力の及ばぬもの」と悟り悲観から去らねばならぬ。霊魂は実在するのか、死後の世界が在るかどおかを推論するのが分別で、この分別を超えた世界を仏陀のみが観たのであろう。

18日 

仏は創造神ではない、現に存在しているものに着目、目前の現象が縁に()っていることを見極めるものではないか。仏法にとって真理とは、在るがままの現実無常であり、在るがまの現実を無常法と観ることを出発点とするのだ。宗教は証明や論証がなされるものではな稀有な資質を持つ人のみが、厳しい長い苦行の後に体得するものなのであろう。人生は苦であるは無明に基く。無明がある限り、老死があり、苦がある。般若心経に無明もなく、無明も尽きることもなく、老死もなく、老死も尽きることもなしとある。

19日

死後の世界、釈迦は何を語ったか
仏教に定命(じょうみょう)という言葉がある。人間の命は生まれた時点で定まっていて変えることが出来ないということ。理不尽なことだが、それが現実。だから、明日の事を思い悩まないで、今日出来ることは今日しておくがよいと云う事になる。

20日

釈迦に死後の世界のことを執拗に聞いた弟子がいた、名前は摩邏迦(まらか)、それで釈迦が言われた。毒矢で射られた男がいるとする、周囲の人々が慌てて医者を呼んだ。すると毒矢に射られた男が医者に向かい、「そんな治療をする前に、まず俺を射た男を捜してくれ。そして使った弓がどんな形で、材料で、毒の種類も調べて欲しい、その答えが出ないうちは治療しては困る」と。

21日

釈迦は摩邏迦(まらか)に、この男をどう思うと聞かれた。摩邏迦はその男は大バカだ、その間に毒が廻り死んでしまう。釈迦は、お前の死後の世界の質問も同じことだよと云われ絶句した。

22日

釈迦は、大事なのは毒の正体を知ることではない、まず毒矢を抜いて、苦しみを除去することだ。死後の世界の問題に拘る場合ではあるまい、大事なのは今の苦しみをどうやって克服すべきかと言うことだ。幾ら考えても分らないことは考えるのをやめなさい、と。

23日

お釈迦様は生前、決して死後の世界や霊魂の存在などという問題についてお話しにならなかったと云う。
色んな弟子が聞いたが一切お答えにならなかったという。これを釈迦の「無記」という。ノーコメントのことである。お釈迦様は死後の世界があるかどうかという議論を全くされなかったのだ。

24日

死後の世界があるのか無いのか、霊魂が実在するのかしないのか・・こんなことはお釈迦様でも分らない。分らないことは分らない。そんなことは考えず今の人生をしっかり考えようというのが仏教。死後の世界は死ねば分かるのだから、だから生きている間はひたすら今どうやって生きるべきかを考えなさいというわけである。

25日

釈迦は言われた人間の心の中に無明(むみょう)があるから生きている間、我々は苦から離れられない。人生は苦しみ悲しみの連続。でも死ねば我々の心から無明が消えるから、その無明が産み出した苦も無くなる。だから死んだ人の顔は穏やかな顔をしている。イヤらしい顔をしていた人でも一晩たつと「仏顔」になっている。

26日

病気で苦しんだ人も、色々な悩みで苦しんだ人も、死ねば痛みや苦しみから離れることが出来る。残された人も心配することはない、みんな浄土に渡っておられ、阿弥陀様が彼岸に導いておられると言われた。

27日

仏典に書かれた地獄は私たちの心に在るのだと思う。他人を嫉妬したりすれば心の中は炎で焼き尽くされるのが人間。その痛みは激しくて途絶えることはない。これが地獄の苦しみである。死ななくても我々は地獄に生きている。生きているということ自体が苦しみ、死んでからまで地獄に行く必要はない。

28日

お釈迦さんは「まだ体験していない死のことを考えたり煩うな、今、生きていることのほうを大事にせよ」と教えたのだ。日本では、葬式仏教と言われるくらい坊さんの仕事は葬式か法事くらいに思われている。

29日

本来、仏教の創始者・釈迦の教えは「生の教え」である。死後のことはそれほど重きを置いていなかった。今、生きている我々が生きている間に、どうやって幸福になるか、如何に生きるかということを研究して教えてくれるのが本来の仏教であろう。私は、仏教の経典は現存する人間の為のものであり、仏教は「生の哲学」なくてはならぬと確信している。

30日

お釈迦さんは、決して「葬式を派手にしろ」とか「墓は大きいほうがいい」なんて一言も言われていない。亡くなった方の供養も大事だが、それよりも生きている自分のことを大切にしなさい」というわけである。

31日

お釈迦さんの遺言がある。お釈迦さんは80歳で亡くなられた。その直前に弟子たちが、亡くなられたら、ご遺骸をどうしようと」相談していた。そんな時もお釈迦さんは、「そんなことは心配するな、お前達は自分の修行のことを考えておれ。私の葬儀については在家の信者たちが供養してくれるはずだから、それに任せておけ」と云われた。お釈迦さまは、「死んだあとは、お前達自身と仏法だけを頼りにせよ」と云われた。だが、その遺言は必ずしも守られていない。お釈迦さまは、ご自身の葬式なんてどうでもいいと思っていたのである。