日本人よ「歴史の真実を学べ!!」 シリーズその一 

この田母神氏論文は「WILL誌平成21年一月号」に掲載されたものである。
多くの人々に「歴史の真実」を伝えたいので転載し長く留めることとする。

                平成21年1月元旦       徳永圀典

「日本は侵略国家であったのか」  田母神俊雄氏

 1日 侵略とは言わない

 アメリカ合衆国軍隊は日米安全保障条約により日本国内に駐留している。

これをアメリカによる日本侵略とは言わない。二国間で合意された条約に基づいているからである。 我が国は戦前、中国大陸や朝鮮半島を侵略したと言われるが、実は日本軍の、これらの国に対する駐留も条約に基づいたものであることは意外に知られていない。 

日本は十九世紀の後半以降、朝鮮半島や中国大陸に軍を進めることになるが相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない。現在の中国政府から「日本の侵略」を執拗に追及されるが、我が国は、日清戦争、日露戦争などによって国際法上合法的に中国大陸に権益を得て、これを守るために条約等に基づいて軍を配置したのである。

 2日

これに対し、圧力をかけて条約を無理矢理締結させたのだから条約そのものが無効だという人もいるが、昔も今も多少の圧力を伴わない条約など存在したことがない。この日本軍に対し、蒋介石国民党は頻繁にテロ行為を繰り返す。邦人に対する大規模な暴行、惨殺事件も繰り返し発生する。

これは現在日本に存在する米軍の横田基地や横須賀基地などに自衛隊が攻撃を仕掛け、米国軍人及びその家族などを暴行、惨殺するようなものであり、とても許容できるものではない。これに対し日本政府は辛抱強く和平を追及するが、その都度蒋介石に裏切られるのである。
 3日 日本は、日中戦争に引きずり込まれた被害者

実は、蒋介石はコミンテルンに動かされていた。1936の第二次国共合作によりコミンテルンの手先である毛沢東共産党のゲリラが国民党内に多数入りこんでいた。コミンテルンの目的は日本軍と国民党を戦わせ、両者を疲弊させ、最終的に毛沢東共産党に中国大陸を支配させることであった。  

我が国は、国民党の度重なる挑発に遂に我慢しきれなくなって、1937年8月15日、日本の近衛文麿内閣は、「支那軍の暴民を膺懲(ようちょう)し以て南京政府の反省を促す為、今や断固たる措置をとる」という声明を発表した。
我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なのである。
 4日 盧溝橋の仕掛け人は中国共産党

1928年の張作霖列車爆破事件も関東軍の仕業であると長い間言われてきたが、近年では、ソ連情報機関の資料が発掘され、少なくとも日本軍がやったとは断定できなくなった。

(「マオ 誰も知らなかった毛沢東」、黄文雄の大東亜戦争肯定論、桜井よし子 日本よ歴史力を磨け)などによると、最近ではコミンテルンの仕業という説が極めて有力になってきている。

中戦争(にっちゅうせんそう)の開始直前の193777日の盧溝橋(ろこうきょう)事件についても、これまで日本の中国侵略の証みたいに言われてきた。しかし今では、東京裁判の最中に中国共産党の劉少奇が西側の記者との記者会見で、「盧溝橋の仕掛け人は中国共産党で、現地指揮官は、この俺だった」と証言していたことが分かっている。
(
岩間弘 大東亜解放戦争)
 5日 日本だけが侵略国家だと言われる筋合は無い

もし、日本が侵略国家であったというのならば、当時の列強と言われる国で侵略国家でなかった国はどこかと聞きたい。よその国がやったから日本もやっていいと言うことにはならないが、日本だけが侵略国家だと言われる筋合いもない。我が国は満州も朝鮮半島も台湾も日本本土と同じように開発しようとしとした。当時列強と言われる国の中で、植民地の内地化を図ろうとした国は日本のみである。 

我が国は他国との比較で言えば極めて穏健な植民地統治をしていたのである。

満州帝国は、成立当初の1932年1月には、三千万人の人口であったが、毎年百万人以上も人口が増え続け、1945年の終戦時には五千万人に増加していたのである。
 6日 満州は、日本によって活力ある工業国家に生まれ変わった。

満州の人口はなぜ爆発的に増えたのか。それは満州が豊かで,治安が良かったからである。
侵略と言われるような所に人が集るわけがない。農業以外には殆ど産業が無かった満州の荒野は、僅か十五年の間に日本政府によって活力ある工業国家に生まれ変わった。 

朝鮮半島も日本統治下の三十五年間で一千三百万の人口が二千五百万人と約二倍に増えている。
(朝鮮総督府統計年鑑)。

日本統治下の朝鮮も豊かで治安が良かった証拠である。
 7日 京城帝国大学台湾帝国大学は大阪大学より早い

戦後の日本に於いては、満州や朝鮮半島の平和な暮らしが、日本軍によって破壊されたかのように言われている。しかし、実際には日本政府と日本軍の努力によって、現地の人々はそれまでの圧政から解放され生活水準も格段に向上したのである。我が国は満州や朝鮮半島や台湾に学校を多く造り現地人の教育に力を入れた。道路、発電所、水道など生活のインフラも数多く残している。 

また1924年には朝鮮に京城帝国大学、1928年には台湾に台北帝国大学を設立した。日本政府は、明治維新以降九つの帝国大学を設立したが、京城帝国大学は六番目、台北帝国大学は七番目に造られた。その後八番目が1931年の大阪帝国大学、九番目が1929年の名古屋帝国大学という順である。
 8日 朝鮮名のままで日本帝国海軍の中将

なんと日本政府は大阪や名古屋よりも先に朝鮮や台湾に帝国大学を造っているのだ。
また日本政府は朝鮮人も中国人も陸軍士官学校への入校を認めた。
戦後マニラの軍事裁判で死刑になった朝鮮出身の洪思翊(ほんさいく)という陸軍中将がいる。この人は陸軍士官学校26期生で、硫黄島で勇名をはせた栗林忠道中将と同期生である。朝鮮名のままで帝国海軍の中将に栄進した人である。 

また、その一期後輩には(きむ)錫源(そくうおん)大佐がいる。日中戦争の時、中国で大隊長であった。
日本兵約一千名を率いて何百年も(いた)められ続けた(もと)宗主国の中国軍を蹴散(けち)らした。その軍功著しいことにより天皇陛下の金鵄勲章(きんしくんしょう)を頂いている。もちろん創氏改名などしていない。
 9日 中国では蒋介石も日本の陸軍士官学校を卒業し、新潟の高田の連隊で隊付き教育を受けている。一期後輩で蒋介石の参謀で何応欽(かおうきん)もいる。李王朝の最後の殿下である李垠(いうん)殿下も陸軍士官学校の二十九期の卒業生である。 李垠(いうん)殿 下は日本に対する人質のような形で十歳の時に日本に来られることになった。しかし、日本政府は殿下を王族として丁重に遇し、殿下は学習院で学んだあとに陸軍士官学校をご卒業になった。陸軍では陸軍中将に栄進されご活躍された。
10日

この李垠(いうん)殿下のお妃となられたのが日本の梨本宮方子(まさこ)()殿下である。この方は昭和天皇のお妃候補であった高貴なお方である。もし日本政府が李王朝を潰すつもりならこのような方を李垠(いうん)殿下のもとに嫁がせることはなかったであろう。

因みに宮内省はお二人のために1930年に新居を建設した。現在の赤坂プリンスホテル旧館である。また清朝最後の皇帝また満州帝国皇帝であった溥儀(ふぎ)殿下の弟君である溥傑(ふけつ)殿下のもとに嫁がれたのは、日本の華族・嵯峨家の嵯峨浩妃殿下である。
11日

これを当時の列強と言われる国々との比較で考えてみると日本の満州や朝鮮や台湾に対する思い入れは、列強の植民地統治とは全く違っていることに気がつくであろう。イギリスがインドを占領したがインド人のために教育を与えることは 

なかった。
インド人をイギリスの士官学校に入れることもなかった。もちろん、イギリスの王室からインドに嫁がせることなど考えられない。これはオランダ、フランス、アメリカなどの国々でも同じことである。
12日 清国に駐兵権を獲得した、侵略ではない。

第一次大戦後のパリ講和会議に於いて、日本が人種差別撤廃を条約に書き込むことを主張した際、イギリスやアメリカから一笑に付されたのである。 現在の世界を見れば当時日本が主張していた通りの世界にっている。
時間は遡るが、清国は1900年
 

の義和団事件の事後処理を迫られ1901年に我が国を含む十一ヵ国との間で、義和団最終議定書を締結した。その結果として我が国は清国に駐兵権を獲得し当初2600名の兵を置いた。(「盧溝橋事件の研究」秦郁彦) 
13日 中国も合意した条約による

また1915年には袁世凱(えんせいがい)政府との四ヵ月にわたる交渉の末、中国の言い分も入れて、いわゆる対華二十一箇条の要求について合意した。
これを日本の中国侵略の始まりとか言う人がいるが、この要求が、列強の植民地などは支配が一般的な当時の国際常識に照らして、それほどおかしなものとは思わない。中国も一度は完全に承諾し批准した。

しかし四年後の1919年、パリ講和会議に列席を許された中国が、アメリカの後押しで対華二十一箇条の要求に対する不満を述べることになる。

それでもイギリスやフフランスなどは日本の言い分を支持してくれたのである。

(日本史からも見た日本人・昭和編、渡部昇一)
14日 侵略にはほど遠い話

また我が国は蒋介石国民党との間でも合意を得ずして軍を進めたことはない。常に中国側の承認の下に軍を進めている。 1901年から置かれることになった北京ま日本軍は、三十六年後の盧溝橋事件の時でさえ五千六百名にしかなっていない
(秦郁彦、東京大学出版会)

この時、北京周辺には数十万の国民党軍が展開しており、形の上でも侵略にはほど遠い。

幣原喜重郎外務大臣に象徴される対中融和外交こそ我が国の基本方針であり、それは今も変わらない。
15日

さて、日本が中国大陸や朝鮮半島を侵略したために、遂に日米戦争に突入し三百万人もの犠牲者を出して敗戦を迎えることとなった、日本は取り返しのつかない過ちを犯したという人がいる。 しかし、これも今では日本を戦争に引きずり込むために、アメリカによって慎重に仕掛けられた罠であったたことが判明している。
実はアメリカもコミンテルンに動かされていた。ヴェノナファイルというアメリカの公式文書がある。米国国家安全保障局(NSA)のホームページに載っている。膨大であるが月刊「正論」平成18年五月号に青山学院大学の福井助教授が内容をかいつまんで紹介して

くれている。
ヴェノナファイルとは、コミンテルンとアメリカにいたエージェントとの交信記録をまとめたものである。アメリカは1940年から1948年までの八年間、これをモニターしていた。当時ソ連は一回限りの暗号書を使用していたためにアメリカではこれを解読出来なかった。そこでアメリカは、日米戦争の最中である1943年から解読作業を開始した。

そしてなんと三十七年かかってレーガン政権が出来る直前の1980年に至って解読作業を終えたというから驚きである。

16日

しかし、当時は冷戦の真っ只中であったためにアメリカはこれを機密文書とした。その後冷戦が終了し1995年に機密が解除され一般に公開されることになった。 
これらよれば、1933年に生まれたアメリカのフランクリン・ルーズベルト政権の中には三百人のコミンテルンのスパイがいたという。

その中で昇りつめたのは財務省ナンバー2のハリー・ホワイトであった。ハリー・ホワイトは日本に対する最後通牒ハル・ノートを書いた張本人であると言われている。彼はルーズベルト大統領の親友であるモーゲンソー財務長官を通じてルーズベルト大統領を動かし、我が国を日米戦争に追い込んでいく。

17日

当時、ルーズベルトは共産主義の恐ろしさを認識していなかった。彼はハリー・ホワイトらを通じてコミンテルンの工作を受け戦闘機百機かせなるフライングタイガースを派遣するなど、日本と戦う蒋介石を陰で強力に支援していた。真珠湾攻撃に先立つ一ヶ月半も前から中国大陸においてアメリカは日本に対し隠密に航空攻撃を開始していたのである。 

ルーズベルトは戦争をしないという公約で大統領になったため、日米戦争を開始するにはどうしても見かけ上日本に第一撃を引かせる必要があった。

日本はルーズベルトの仕掛けた罠にはまり真珠湾攻撃を決行することになる。

18日 戦わない者は支配される

さて、日米戦争は避けることができたであろうか。日本がアメリカの要求するハル・ノートを受け入れれば一時的にせよ日米戦争を避けることは出来たかもしれない。しかし、一時的に戦争を避けることが出来たとしても、当時の弱肉強食の国際情勢を考えれば、アメリカから第二第三の要求が出てきたであろうことは容易に想像がつく。結果として現在に生きる私たちは白人国家の植民地である日本で生活していた可能性が大である。 

文明の利器である自動車や洗濯機やパソコンなどは放つておけばいつかは誰かが造る。

しかし人類の歴史の中で、支配、被支配の関係は戦争によってのみ解決されてきた。

強者が自ら譲歩することなどあり得ない。

戦わない者は支配されることに甘んじなければならない。
19日

さて、大東亜戦争の後、多くのアジア、アフリカ諸国が白人国家の支配から解放されることになった。人種平等の世界が到来し国家間の問題も話しあいによって解決されるようになった。それは日露戦争、そして大東亜戦争を戦った日本の力によるものである。 

もし日本があの時、大東亜戦争を戦わなければ現在のような人種平等の世界が来るのがあと百年、二百年遅れていたかもしれない。
20日 尊い命を捧げた日本人の先祖への感謝を

そういう意味で私たち日本の国のために戦った先人、そして国のために尊い命を捧げた英霊に対し感謝しなければならない。そのお陰で今日私たちは平和で豊かな生活を営むことが出来るのだ。

一方で、大東亜戦争を「あの愚劣な戦争」などという人がいる。戦争などしなくても今日の平和で豊かな社会が実現できたと思っているのであろう。

21日

当時の我が国の指導者はみんな馬鹿だと言わんばかりである。やらなくてもいい戦争をやって多くの日本国民の命を奪った、亡くなった人はみんな犬死にだった、と言っているようなものである。 

しかし、人類の歴史を振り返れば、ことはそう簡単ではないことが解る。現在に於いてさえ、一度決定された國際関係を覆すことは極めて困難である。
22日

日米安全保障条約に基づきアメリカに日本の首都圏にも立派な基地を保有している。
これを日本が返してくれと言ってもそう簡単には返ってこない。

ロシアとの関係でも北方四島は六十年以上不法占拠されたままである。
竹島も韓国の実効支配が続いている。
23日

東京裁判は、あの戦争の責任を全て日本に押し付けようとしたものである。
そして、そのマインドコントロールは戦後六十三年を経てもなお日本人を惑わせている。

日本の軍は強くなると必ず暴走しむ他国を侵略する、だから自衛隊は出来るだけ動きにくいようにしておこうというものである。
24日 こんな自衛隊でよいのか

自衛隊は領域の警備も出来ない、集団的自衛権も行使できない、武器の使用も極めて制約が多い、また攻撃的兵器の保有も禁止されている。
諸外国の軍と比べれば自衛隊は雁字搦めで身動きできない
 

ようになっている。 このマインドコントロールから解放されない限り、我が国を自らの力で守る体制がいつになっても完成しない。アメリカに守ってもらうしかない。
25日

アメリカに守ってもらえば日本のアメリカ化が加速する。日本の経済も、金融も、商慣行も、雇用も、司法もアメリカのシステムに近づいていく。 改革オンパレードが我が国の伝統文化が壊されていく。日本はいま文化大革命が進行中なのではないか。日本国民は二十年前と今とでは、どちらが心安らかに暮らしているのだろうか。 

日本は良い国に向っているのだろうか。
私は日米同盟を否定しているわけではない。アジア地域の安定のためには良好な日米関係が必須である。但し、日米関係は必要なときに助け合う良好な親子関係のようなものであることが望ましい。子供がいつまでも親に頼りきっているような関係は改善の必要があると思っている。
26日 普通でない日本国民

自分の国を自分で守る体制を整えることは、我が国に対する侵略を未然に抑止するとともに外交交渉の後ろ盾になる。 諸外国では、ごく普通に理解されているこのことが、我が国に於いては国民に理解が行き届かない。 

今なお、大東亜戦争で我が国の侵略がアジア諸国に耐え難い苦しみを与えたと思っている人が多い。しかし、私たちは多くのアジア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価していることを認識しておく必要がある。
27日 日本の評価は高い

タイで、ビルマで、インドで、シンガポールで、インドネシアで、大東亜戦争を戦った日本の評価は高いのだ。

そして日本軍に直接接していた人たちの多くは日本軍に高い評価を与え、日本軍を直接見ていない人達が日本軍の残虐行為を吹聴している場合が多いことも知っておかなければならない。
28日 素晴らしい国・
日本
日本軍の軍紀が他国に比較して如何に厳正であったか多くの外国人の証言もある。 我が国が侵略国家だったなどと言うのは正に濡れ衣である。 日本というのは古い歴史と優れた伝統を持つ素晴らしい国なのだ。 

私たちは日本人として我が国の歴史について誇りを持たなければならない。
人は特別な思想を注入されない限りは自分の生まれた故郷や自分の生まれた国を自然に愛するものである。

29日 事実の話

日本の場合は、歴史的事実を丹念に見ていくだけで、この国が実施してきたことが素晴らしいことであることが分かる。

嘘や捏造は全く必要がない。
30日

個別事象に目を向ければ悪行と言われるものもあろう。

それは現在の先進国の中でも暴行や殺人が起こるのと同じことである。
31日 輝かしい日本の歴史を

私たちは、輝かしい日本の歴史を取り戻さなくてはならない。

歴史を抹殺された国家は衰退の一途を辿るのみである。