徳永の「古事記」
謹賀新年、正月であり、今年の4月には満80歳となるので、日本人としての原始に戻りたい、触れてみたいと、60代に無心に勉強した古代史、わけても古事記を改めて読み直すこととした。
平成23年元旦 徳永圀典
平成23年1月
元旦 |
古事記は、正史である日本書紀には記述のない日本の古代 の姿が見られる。また、日本の源泉である天皇の正統性を確証しつつ律令国家の世界観が語られている。 |
2日 |
日本最古の歴史書・古事記は、和銅5年、712年だから今から1300年前に成立した。天武天皇の発案によるが、35年後の三代後、即ち、持統、文武の次ぎの元明天皇の代に至って太安万侶が完成させたのである。これは古事記序文に記載されている。 |
3日 |
古事記序文は後で原文や現代文を掲載するが、天武天皇は次ぎのような意味の言葉で語っておられる。 |
4日 |
「私が聞くところによると、伝えられて来た帝紀と本辞(天皇の系譜を綴った書)とは、既に真実と違い偽りを多く加えている。今その誤りを改めなければ本旨は滅びてしまうであろう。こうした歴史は、国家の在り方、天皇の政治の基礎となるものだから、偽りを削り真実を定めて後世に伝えようと思う」と。 |
5日 |
その命を受けて、記憶力に優れた役人・稗田阿礼が誦み習ったものを太安万侶が成書したのである。 |
6日 |
古事記は三巻ある、上つ巻、中つ巻、下つ巻である。 |
7日 |
「中つ巻」は 初代の神武天皇(神倭伊波毘古命)から15代応神天皇までである。時代は紀元前600年から310年の間のことで、言うなれば「神と人との物語」である。 |
8日 |
「下つ巻」は、16代仁徳天皇、西暦313年から33代推古天皇の628年までの記述で、「人の物語」である。 |
9日 |
ここで古事記序文の太安万侶の漢文調の格調高い文章を紹介しよう。最初は原文、そして徳永の口語訳を努力して掲載しようと思う。 |
10日 |
初めに太安万侶に就いて述べる。太安万侶の存在を疑う学者がいたが、戦後、墓碑が発見されて存在が確認された。 |
11日 |
太安万侶墓誌1979年(昭和54年)1月23日、奈良県奈良市此瀬町の茶畑から太安万侶の墓が発見された、火葬された骨や真珠が納められた木櫃と共に墓誌が出土したことが奈良県立橿原考古学研究所より発表された。)。 |
12日 |
墓誌の銘文は2行41字。内容は、左京の四条四坊に住んでいたこと、位階と勲等は従四位下勲五等だったこと、723年(養老7年)7月6日 (旧暦)に歿したことなどである。その墓誌銘全文引用は以下の通り。 |
13日 |
「左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳」 |
古事記序文の原文 |
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14日 | 臣安萬侶言さく。 夫混元既に凝りて、氣象未だ效はれず。名も無く爲も無し。 誰か其の形を知らむ。 然れども乾坤初めて分れしとき、參~造化の首と作り、陰陽斯に開けしとき、二靈群品の祖と爲る。 |
15日 |
所以に幽顯に出入して、日月、目を洗ふに彰 れ、海水に浮沈して~祇、身を滌ぐに呈はる。 故、太素は杳冥なれども、本ヘに因りて土を孕み、嶋を産みし時を識れり。 元始は綿 |
16日 |
寔に知る、鏡を懸け珠を吐きて百王相續ぎ、釼を喫ひ蛇を切りて、萬~蕃息せることを。 安の河に議りて天の下を平らげ、小濱に論ひて國土を清めき。 |
17日 |
是を以て、番仁岐命、初めて高千嶺に降りたまひ、神倭天皇、秋津嶋を經歴りたまふ。 化熊山を出で、天釼を高倉に獲、生尾徑を遮り、大烏吉野に導く。?を列ねて賊を攘ひ、歌を聞き仇を伏す。 |
18日 |
即ち夢に覺りて~祇を敬ひたまふ。 所以に賢后と稱ふ。烟を望みて黎元を撫でたまふ。 今に聖帝と傳ふ。 境を定め邦を開きて、近淡海に制めたまひ、姓を正し氏を撰び、遠飛鳥に勒めたまふ。 |
19日 |
歩驟各々異に、文質同じからずと雖も、古を稽て風猷を既に頽れるに繩し、今に照らして典ヘを絶えむとするに補はずといふことなし。 |
20日 |
飛鳥の清原 の大宮に大八洲を御しめしし天皇の御世に曁びて、濳龍元を體し、せん雷期に應ず。 |
21日 |
夢の歌を聞きて業を纂がむことを想ひ、夜の水に投りて基を承けむことを知りたまふ。 |
22日 |
然れども、天の時未だ臻らず、南山に蝉のごとく蛻けたまひし、人・事共に給はり、東國に虎のごとく歩みたまふ。 |
23日 |
皇輿忽ち駕して、山川を浚渡り、六師雷のごとく震ひ、三軍電のごとく逝く。 杖矛威を擧げ、猛士烟のごとく起り、絳旗兵を耀かして、凶徒瓦と解けつ。 未だ浹辰を移さずして氣?自ずから清まりぬ。 乃ち牛を放ち、馬を息え、ト悌して華夏に歸り、旌を卷き、戈を?め、?詠して都邑に停まりたまふ。 |
24日 | 歳大梁に次り、月は侠鍾に踵りて、清原の大宮にして、昇りて天位に即きたまふ。道は軒后に軼ぎ、コは周王に跨えたまふ。乾符を握りて六合をハべ、天統を得て八荒を包ねたまふ。 二氣の正しきに乘じ、五行の序を齊え、~理を設けて俗を奬め、英風を敷きて國を弘めたまふ。 重加ず智海浩瀚として潭く上古を探り、心鏡は?煌として明らかに先代を覩たまふ。 |
25日- 27日 |
是に天皇の詔りたまひしく、「朕聞かく『諸家の齎る帝紀及び本辭、既に正實に違ひ、多く虚僞を加ふ』と。 今の時に當りて其の失を改めざれば、未だ幾の年も經ずして其の旨滅びなむとす。斯れ乃ち邦家の 經緯にして、王化の鴻基なり。 故惟、帝紀を撰録し、舊辭を討覈して、僞を削り實を定めて後の葉に流えんと欲ふ」とのりたまひき。 時に舍人あり。 姓は稗田、名は阿禮、年は廿八。 人と爲り聰明く、目に度れば口に誦み、耳に拂るれば心に勒す。 即ち阿禮に勅語して、帝皇の日繼と先代の舊辭を誦み習はしめたまひき。 |
28日- 31日 |
焉に 舊辭の誤りを忤へるを惜しみ、先紀の謬錯れるを正さむとして、和銅四年九月十八日を以て、臣安萬侶に詔して稗田阿禮の誦める勅語の舊辭を撰録みて獻上らしむとのたまへれば、謹みて詔旨の隨に子細に採り?ひぬ。 然れども上古の時、言・ 意と並びに朴にして、文を敷き句を構うふること、字に於きては即ち難し。 已に訓に因りて述べたるものは、詞、心に逮ばず、全ら音を以て連ねたるものは、事の趣更に長し。是を以て、今、一句の中に音・訓を交へ用ひ、或は一事の内に全ら訓を以て録せり。 即ち、辭理の見え?きは注を以て明らかにし、意况の解り易きは更に注せず。 亦、姓の日下を玖沙訶と謂ひ、名の帶の字を多羅斯と謂ふ、此の如き類は本の隨に改めず。 大抵記す所は、天地の開闢け始めしときより、小治田 の御世に訖る。 故、天御中主の~より、日子波限建鵜草葺不合尊までを上卷とし、~倭伊波禮毘古天皇より品陀の御世までを 中卷とし、大雀皇帝より小治田の大宮までを下卷とし、并せて三卷を録して、謹みて獻上る。 臣安萬侶、誠惶誠恐、頓首頓首。 和銅五年正月二十八日、 |