安岡正篤先生語録集 そのC 平成251 

没頭する

 とにかく、人間は常に感激を以て時には食も忘れ、何かに没頭する、精進する。そうすると、外にどんな苦労があっても、それとは別に何となく心が楽しく、自然とくだらない浮世の煩いなど忘れることができます。そして生き生きと働いて行く事ができますから年などとりません。      (朝の論語)

.円満無碍の自分

 自分というのは善い言葉である。ある者が独()に存在すると同時にまた全体の部()として存在する。その円満無碍なる一致を表現して「自分」という。我々は自分を知り、自分を尽くせば善いのである。而るにそれを知らずして自分、自分と言いながら実は自己・自私を(ほしいまま)にしている。  (古典を読む) 

.生の衰退

 人間の生活も案外速く純真な生動性・変化性を失って平板で単調なものになり易い。単調になり、型に()まった機械的活動の繰り返しになる事は生の衰退で、やがて停止する。生を一つの線とすれば、それは無数の点から成っている。その点は決して大きさの無い、内容の無い点ではなく、内に無限の内容・組織を持っている。                     (易学入門)       

百にして百と化す

 「淮南子(えなんじ)」の中には、(えい)(きょ)(はく)(ぎょく)のことを()めて「行年(ぎょうねん)五十にして四十九の非を知る」と言うておる。さらに続けて「六十にして六十化す」と書いてある。要するに六十にして六十化すと言うことは、エビの如く常に生命的であり、新鮮であり、進化してやまぬと言うことであります。だから「七十にして七十化す」となれば、なお目出度い。「百にして百化する」ことが出来れば、こんな目出度いことはないのであります。         (干支の活学)

我に(かえ)

 「自ら反して(なお)くんば、千万人と雖も吾往かん」は何人も周知の語であろう。なかんずくその「自反(じはん)」なる語に最も注意を払わねばない。大勇(だいゆう)-真の道徳的勇気は決して功利的手段で養い得るものではない。いわゆる付け焼き刃の出来ないものである。それは常に「自反」によってのみ、即ち我が我に(かえ)ること、純正なる自覚によってのみ涵養することが出来る。     (儒教と老荘)

日本人の心

 戦後、日本人は素直を失って、流行に弱く、目に余るような阿諛(あゆ)迎合(げいごう)を恥とせず、(さわ)らぬ神に(たた)りなしで、なるべく面倒なことはそっとしておいて、滅多な口はきかぬがよいという風になって来たことは事実である。然し、これは断じて日本人の本来の性質ではない。日本人は古来、清く明るき心、さやけき心、(なお)き心を旨として、何毎によらず素直を愛して来たものである。是を是とし、非を非とする。良心の発露が(なお)である。          (醒睡記)

.一燈照隅あるのみ

日本の民衆生活とか、民衆文化というものが、みな異常性になっている現実であります。と言って、それでは一体どうすればいいのだ、誰か何とかしてくれぬか、などと言ってもこれは無理な話であります。従って、ぎりぎり決着のところ、その効果があろうが無かろうが、(たお)れて(のち)()むという覚悟で(いっ)(とう)(しょう)(ぐう)(ぎょう)ずる外はない。やがてそれが集まって(せん)(とう)(まん)(とう)になって、(あまね)く照らすということになれば、時間はかかるけれども、多少の突然変異は起ころうけれども何とかなる。                (活学第二編)

見識と信念は歴史から

 ますます変化の度を強めてきておりますこう言う時に、一番大切なことは、何と言っても見識・信念がないと眼前の現象に捕らえられて、どうしても困惑し勝ちであります。それでは、どうして見識や信念を養うかと言うと、やはり学ぶ外はない。何を学ぶかと言えば、結局歴史-歴史は人間が実践してきた経験的事実ですから-と歴史を痛ずる先覚者達の教訓に学ぶことが最も確かであります。                       (活学第三編)

.義気

 義気(ぎき)という言葉はどう言う事かと言えば、我々が理想に照らして我が良心に照らして、我ら如何に為すべきかと言う事を確かに判断して生きる事を言うのであります。而も、我々の義と言うものは、始終ぐらぐら移り変わりのあるものではいけない。一貫毅然たるものでなければならない。  (人物・学問)

精神の滅び

 忙しいと、どうしても心が亡くなると言うわけです。粗忽になる。ついうかうかと過ごしてしまうものですから失敗も多くなる。このように、この文字からも現代は恐ろしく多忙な時代でありますから、確かに人間いろいろ大切なものが抜けておる。特に精神の滅んでおる時代と言うことが出来るのであります。                                (運命を創る)

.忙中の苦心

 一番いかんのは、多忙ということだ。だから、忙の字を見ると、立心偏(りつしんべん)(?)に亡ぶと書いてある。心が亡ぶ、むなしというんだね。心が空しくなる。そこで我々は(つと)めて身心の清く健やかなることと余裕、その忙しい中に「忙中・閑有り」で、余裕を養うということが非常に必要である。私も忙中にいかにして自分の身心の(せい)(けん)を保ち、余裕を作るかということに苦労してきた。余裕がないとそれこそ健康も得られない、よい知恵も浮ばない。  (心に響く言葉)

.健康は無為

 本当の健康であれば無意識である。無為である、と同じように、愛民治国の政治が健全に行われている時、政治という感覚はない、無為である。民衆も治められていると思わない、支配されていると思わない。政治家も指導者気取りで宣伝や競争に憂き身をやつすことがない。民衆も無為にして化する。現代世界の諸国政治などは逆に有為の極である。        (東洋学発掘)

独の深意

 独という文字は絶対を意味する。自らに足りてなんら他に()たざることを独という。自分が徹底して自分によって生きる、これを独という。人間と言うものは案外自己によらずして他物(たぶつ)によって生きている。大抵の人間は金を頼りにして生きている。妻子を頼りにして生きている。地位を頼りにして生きている。世間の聞こえを考えて生きている。そこで地位をなくした(くび)になったと言うと、もうぺちゃんこになる、神経衰弱になる。      (人物・学問)

.静和

 人物・人間も、呼吸も同じことであって、人間もいろいろの人格内容・精神内容が深い統一・調和を保つようになるに従って、どこかしっとりと落ち着いてくる。柔らかい中に(しっか)りとしたものがあって静和(せいわ)になる。そう言う統一・調和が失われてくると鼻息が荒くなるように、人間そのものが荒くなる。ガサガサしてくる。                (知命と立命)

人間、省に尽きる

 三省(さんせい)の三は数を表す三ではなくて「たびたび」と言う意味です。省ということは本当に大事なことでありまして、人間、万事省の一事に尽きると言うて宜しい。省は「かえりみる」と同時に「はぶく」と読む。かえりみる事によって、余計なもの、道理に合わぬものがはっきりわかって、よくこれを省くことが出来るからである。人間はこれ()あることによって生理的にも、精神的にも、初めて生き、かつ進むことが出来る。政治もまた然り。    (論語の活学)

.静謐

 神のむすびが人となったのであるから、「人は神物」である。それが俗物になるからいけない。いかなる俗物も本来に帰すれば神物である。これを単なる物質と考えたり、論理の化物のようにしてしまったり、いろいろ汚染された俗物になるからいけない。造化・自然に帰れば、その特徴はどうか。「(すべから)静謐(せいひつ)(つかさど)るべし」とあるが、人間の肉体でも、生命が純真であれば、即ち健全であれば安静で、心臓の鼓動も静かである。       (幸田露伴と安岡正篤)

自然は即神道

 私は久しい以前から、心中深く、日本人の思想信仰は結局この神道に極まると信じている。日本の神道は「生」に徹したものであり、神と人とを一体とし、自然と人間とを渾融(こんゆう)し永遠の脈搏(みゃくはく)を保つところのものである。自然は即ち神道である。我々の存在・生活・精神を、非連続性の雑駁(ざっぱく)なものにしてしまわないで、これを永遠の本体に結ぶ時、始めて我々の全存在は真の自然となり、神道となる。                        (醒睡記)