徳永圀典の「日本歴史」月 武士と政治

平成19年 1月

 1日 肖像画 似せ絵と称される写実的な肖像画が盛んとなり、この分野の傑作が次々と生み出された。
(じん)護寺(ごじ)の「源頼朝像」は、単純化された線で人物の気品をよく表現していると定評がある。
  
また、頂相(ちょうそう)という禅僧の肖像画が発達し、大徳寺の大燈国師像や、妙智院の夢想国師像など高僧の人間性を巧みに写しとった作品が描かれた。
 2日 絵巻物 絵巻物にも合戦の様子や寺社の縁起、高僧の伝記などを題材に優れた作品が生まれた。

平治物語絵詞では火事や行列の場面が見事に描かれ、地獄草紙では恐ろしい地獄の様子が凄まじい迫力で表現されている。

 3日 武士と政治の動向
南北朝の騒乱と室町幕府

鎌倉幕府滅亡
鎌倉幕府の支配が揺らぎ始めると、北条氏は一層権力を集中しようとして却って御家人の反発を強めた。

14世紀初頭に即位した後醍醐天皇は、天皇親政による意欲的な政治を行う為に倒幕を企画した。 

 4日 後醍醐天皇 後醍醐天皇の計画は情報が漏れて二度も失敗し隠岐に流された。然し、皇子の護良(もりなが)親王や河内の豪族、楠木正成らは、近畿地方の新興武士を結集して粘り強く幕府と戦った。それまで不利だった倒幕勢力は一気に一変した。

幕府軍から御家人(ごけにん)の脱落が続き、足利尊氏が幕府に背き、京都の六波羅探題(ろくはらたんだい)を滅ぼした。続いて新田(にった)(よし)(さだ)も朝廷側につきた大軍を率いて鎌倉を攻め元弘3年、1333年鎌倉幕府は滅亡した。 

 5日 建武(けんむ)親政(しんせい)

後醍醐天皇は京都に戻ると、公家と武家を統一した天皇親政を目標とした院政、摂関で幕府を抑え、新しい政治を始めた。

幕府滅亡の翌年に年号を建武と改めたので「建武の中興」という。武家政権が滅び、公家政権が復活したので建武の中興と呼ぶ。
 6日 急激過ぎた親政

建武の親政は、公家を重んじた急激な改革で、武家の実力を生かす仕組みがなかった。

また倒幕をめぐる戦乱で奪われた領地を元の持ち主に返還し今後の土地所有権の変更はすべて後醍醐天皇自身が幕府の再興をしようと兵を挙げた為、建武の新政は僅か二年で崩壊することとなった。
 7日 南北朝の動乱

建武3年,1336年,足利尊氏は京都に新しい天皇を立て建武式目を定めた。幕府を京都に開くなど武家政治再興の方針を明らかにしたものである。

後醍醐天皇は吉野にのがれた、ここに二つの朝廷が並立することとなった。吉野方を南朝、京都方を北朝という。二つの朝廷は夫々が各地の武士に呼びかけ、約60年にわたり全国的に争いとなった。これを南北朝時代と呼ぶ。

 8日 室町幕府

尊氏は、暦応元年、1338年、北朝の天皇から征夷大将軍に任じられた。この足利氏の幕府は尊氏の孫の義満が京都の室町に邸宅を建て、そこで政治を行ったので室町幕府と呼ぶ。室町幕府は北朝に承認されていることを正統性の根拠にして南朝と対立した。

また地方の守護に国内荘園、公領の年貢の半分を取り立てる権限を与え、守護の力を高め全国の武士をまとめようとした。守護はこれを利用して次第に荘園・公領を自分の領地に組み入れ地元の武士を家来にした。国司の権限も吸収して夫々の国を支配する守護大名に成長した。 

 9日 南北朝合一

室町幕府三代目の将軍義満の頃には、南朝の勢力が衰え、南北朝の合一が実現、1392年戦乱はおさまった。義満は地方の有力守護をおさえ幕府の支配は安定した。この頃、幕府は朝廷の多くの権限を吸収、政権としての性格を確立した。然し、将軍が天皇から任命されるという原則は不変であった。

室町幕府は鎌倉幕府を見習った。将軍の補佐役として執権(しっけん)のかわりに管領(かんれい)を置いた。管領には足利一族の有力守護大名がついた。関東地方を治めるために鎌倉府を置いたが大きい権限を持ち次第に京都の幕府と対立するようになる。
10日 明との交易

14世紀後半、中国で建国された明は日本に倭寇の取り締まりを求めた。倭寇とはこの頃、朝鮮半島や中国大陸の沿岸に出没した海賊集団であり日本人の他に朝鮮人も多く含まれていた。義満は早速倭寇を禁止し明との

貿易を開始した。勘合と呼ばれる合札の証明書を使用したので勘合(かんごう)貿易と呼ばれる。日本からは刀剣・銅・硫黄などの輸出、銅銭・絹織物などを輸入した。義満は明に服属した形をとったので死後それを嫌い中断した。
11日 都市・農村の変化 中世の農業、人々の工夫により様々な技術の改良により生産性が向上した。また手工業や商業もそれに伴い発達し新しい動きが起こった。農業では、二毛作や牛馬耕が広まった。二毛作により米の裏作に麦を作り生産性が高まった。 牛馬耕は牛や馬を使い人の労力を省き耕作の効率を上げた。田に水を引くのに水車の活用、枯草や牛馬の糞の肥料化などの工夫もなされた。稲の品種改良により土地の気候に合う栽培もされるようになった。
12日 手工業 原料の様々な商品作物の栽培が盛んになった。麻、桑、楮、漆えゴマ、藍、茶などである。16世紀になると朝鮮半島から伝わった綿の栽培も始まった。 手工業が各地で発達すると、京都の西陣織を初め、各地の特色を活かした織物、紙、陶器、刀剣、酒などの特産品が作られ始めた。鋤、鍬、などの農具や刀を作る鍛冶職人、鍋、鎌などの日用品を作る鋳物職人も現れた。
13日 商業の活発化 農業生産の向上や手工業の発達と共に生産品の売買をする商業も活発となった。交通の要衝や寺社の門前などで決まった日に市場が開かれる定期市が始まり、その回数も三回(三斎市)が六回(六斎市)へとなる。 取引には布や米より永楽(えいらく)通宝(つうほう)など中国から輸入したと銅銭(宋銭・明銭)が使用されるようになった。
14日 座の発生 朝廷や貴族、寺社に仕えていた職人や商人は「座」と呼ばれる同業者の組合を作り、営業税を納付する代わりに生産や販売を独占する権利が認められた。 このように産業が盛んになると、物資の輸送を管理する(とい)(まる)や、それが発展して商品の中継ぎをするようになった問屋、馬に荷物を乗せて運ぶ()(しゃく)、高利貸を営む土倉(どそう)や酒屋などが活躍をするようになった。
15日 農村の自治の発生 農業が発達し農民の暮らしが向上すると、近畿地方や周辺では、有力農民(名主・地侍)を指導者として村の纏まりができる。そこでは「(そう)」という自治の仕組みを整え農民自身が村を運営するようになった。 「惣掟」の一例要約、一、寄合に、二度呼びかけても出席しない者には罰金を支払わせる。一、森林の苗木を切った者には罰金を支払わせる。一、よそ者を保証人もないのに村内に住まわせてはならない。
(1489年、日枝神社文書)
16日 惣の発達 惣では、村の神社や寺で寄合を開き、祭のこと、林野の共同利用、用水路の管理等、村の運営の相談をした。また村の人々が守るべき規則である惣掟(村掟)を定めた。 更に発達してくると、年貢の納入を惣で請け負う()下請(げうけ)(村請)も広まった。領主の無闇な介入を締め出した農村の自治はこうして確かなものになって行く。
17日 (つち)一揆(いっき) 農民が力を伸ばして行くと、いくつもの惣が目的を同じくして結束した。 そして幕府に借金を帳消しにする法令である徳政令の発布や、武士の地元からの追放、関所を取り払うなどを求め、武器を取り立ち上がることもあった、これを土一揆という。
18日 座・中世の特産品 絹物座、軽物座、呉服座、塩座、相物座、伯楽座、魚座、油座、唐物座、米屋座、金物座。 織手座、干魚座、錦座、紺座、胡麻座、酒座、鍛冶座、鍋座、菓子座、飴座、ところてん座、木工座、材木座。
19日 都市の自治 産業が発達すれば交通も発達する。すると各地の商人や職人が集まって住む都市が形成される。有名な寺社の門前で、市が開かれたり、参詣のための宿屋ができて門前町が生まれる。海上交通の要衝である港にも商人が住みついて港町ができる。

大阪の堺、博多は明貿易の根拠地として繁栄すると共に有力商人の合議により町の政治が行われ自治都市としての性格を備えてくる。京都では裕福な商工業者である町衆が地域ごとに自治の仕組みを作っていた。 

20日 室町文化 北山文化とは足利義満の頃のことを指している。室町時代には、幕府が京都におかれ武家文化と貴族文化が混じり合い、これに禅宗の影響や勘定(かんごう)貿易により伝来した中国文化が加わり新たな文化が起こった。

三代将軍の足利義満が京都の北山に建てた金閣は、様々な文化が融合したこの時代の特徴をよく示している。また義満の保護を受けて観阿弥と世阿弥の父子は、平安時代から民間の娯楽として親しまれた猿楽、田楽を「能楽」として大成した。能や狂言は武家や庶民の間に浸透した。 

21日 東山文化 八代将軍の善政は東山に銀閣を建て、風雅な生活を送った。「わび」「さぴ」と呼ばれる落ち着いた雰囲気を持つ文化を「東山文化」という。建築では、畳や床の間、違い棚などを備えた書院造が発達し、禅宗寺院で枯山水と呼ばれる石を用いた庭園が造られた。茶の湯や生け花をこの頃生まれた。 

また宋・元の作品に学んで水墨画が描かれた。色彩を否定し墨一色で表現した水墨画、禅僧の雪舟は明ら渡り水墨の技法を学び帰国後、山口で筆を振るい、「山水長巻」「秋冬山水図」の力作で日本の山水画の確立者となった。後は水墨画に大和絵の技法取り入れた狩野派が画壇を支配して行く。

22日 今日に伝わる生活文化 能や狂言、茶の湯、和歌の上の句と(しも)の句を別々の人が作って纏めて行く連歌(れんが)は村の寄合で流行した民衆文化である。

お伽草子と呼ばれる絵本の浦島太郎、一寸法師などの物語が武家や民衆の人気を博した。 

23日 一日三食の習慣 戦乱を逃れた公家お僧侶は地方に文化を広めたのもこの時代の特色と言える。山口の大名、大内氏には雪舟がいた、各地の城下町が栄え、栃木の足利学校は学問の中心となった。各地の寺院では武家や庶民の子供の教育も始まったのである。 民衆はこのように地方への文化の広まりを受けて、室町時代には今日に直接伝わる文化や衣食住の生活習慣が発生したのである。村祭り、盆踊りなどの年中行事、一日三食の習慣、味噌や醤油の使用などすべてこの頃に始まっている。
24日 応仁の乱 室町幕府三代将軍足利義満の死後、幕府の権力は次第に守護大名に移行する。中でも大きい勢力を持つ細川氏と山名氏は幕府の実権を争った。八代将軍義政の時、将軍と管領の跡継ぎをめぐり細川勝元と山名持豊(宗全

)が対立、応仁元年、1467年、応仁の乱が始った。全国の武士が細川の東軍と、山名の西軍に分かれ、京都を主な戦場として11年間もの戦いが続いた。その結果、京都は荒れ果てて大半が焼け野原になってしまった。 

25日 下克上(げこくじょう)

応仁の乱を契機に幕府の権威は失墜、守護大名の権力も家臣に奪われるようになった。この時代、社会全体に身分の下の者が実力で上の者に打ち勝つ下克上(げこくじょう)の風潮が見られるようになった。民衆が団結して守護大名を倒し、自治を行うことも起き、

山城(やましろ)国(京都府)南部では、地侍を中心とした自治が八年間続き(山城一揆)、加賀国でも一向宗の信徒が一向(いっこう)一揆(いっき)を起こして百年近く自治を行った。応仁の乱以降、日本は戦国時代に突入し武将が互いに力を争う戦国の乱世となった。
26日 戦国大名 下克上の世に於いて幕府に頼らず独自の権力で一国の支配を行う新しい型の領主が現れた。これが戦国大名である。彼らは国内のすべての武士を家来に組み入れて強力な家臣団をつくり

他の大名との争いに備えた。更に荘園や公領を自分の領地として領国を統一し支配権を把握した。家臣の取り締まりや農民の支配の為に独自の分国法を定めた例もある。 

27日 城下町の発生 領国を豊かにする為に、大規模な治水工事を起こして耕地を拡大し農業を盛んにし鉱山開発、商工業の保護、交通制度の整備などにも注力した。 戦国大名は守りを固い山や丘に築城し、麓に屋敷を構え、その周囲に家臣団や商工業者を住まわせて城下町とした。そして城下町が領国の政治、経済、文化の中心となったのである。
28日 主な戦国大名 相模の北条氏、越前の朝倉氏、駿河と三河を支配した今川氏、越後の上杉氏、甲斐の武田氏、安芸を始め中国地方一帯から九州・四国まで勢力を及ぼした毛利氏などがある。 これら戦国大名の領国支配は村の指導者まで家臣に加え、また地元の生産向上に力を尽くしたことなどにより、新しい社会の基礎を作ることとなったのである。
29日 京にのぼる これらの戦国大名はやがて力を蓄え、その中から京都にのぼって行こうとする者が現れた。 形式上は武家の最高の地位である将軍や、その任命者である天皇の権威を借りて天下を統一しよういする者まで出てくるのである。
30日 東アジア1 足利義満が死亡すると、明との勘合貿易が中断され、再び倭寇の活動が盛んとなったが、その構成員は殆ど中国人であった。衰えた勘合貿易も再開し周防の山口氏が独占したが16世紀後半となると滅亡により停止した。だが明貿易は他の商人により続いた。 朝鮮半島では、李成桂が14世紀末に高麗を倒し李氏朝鮮を建国した。朝鮮も明と同様に日本に倭寇の禁止と通交を求めてきた。幕府が応じて日朝貿易が始った。15世紀の初頭には朝鮮が200隻の船と1万7千人の兵士をもって対馬を襲う事件が発生した。然し、これは倭寇を撃退するのが目的であり、貿易は一時中断したが再開した。
31日 東アジア2 朝鮮は15世紀中頃、対馬の宗氏と結び、宗氏を介さない通交は認めないこととした。然し、16世紀の初めに、朝鮮の港に定住した日本人が役人の扱いに反発して暴動が発生したが鎮圧される事件が起きた。この後朝鮮との貿易は不振を続けた。

沖縄では15世紀の前半、(しょう)()が三つの勢力を統一し琉球王国を作り上げた。首里(しゅり)を都とし日本や明と国交を締結した。遠く東南アジアへも船を出し、中継(なかつぎ)貿易に活躍し繁栄した。