中国、あれやこれや その25
平成19年 1月

 1日 中国の本質を
考える
中国は、いかに日本と違う「国家」であるか。日本人といかに「中国人」は違うのかが主たるテーマである。 中国は黄河の中流・下流域の狭い所から起こって北方や南方に広がった国である。
 2日
中国文明の基礎
紀元前221年に、現在の中国中央地域で覇権を争い「七つの国」を統合した「(しん)」の制度である。
中国語では秦を「チン」と読む。インド人は中国を「チーナ」と読んだのが元になり英語の「チャイナ」、フランス語の「シーヌ」、ドイツ語の「ヒーナ」ができた日本語の「支那」も中国語で読めば「チーナ」で元は同じである。
 3日 中国文明の特徴 秦の時に文明の三つの要素が出揃った。 @皇帝A城郭都市B漢字である。
 4日 皇帝と黄帝 秦以前の諸国では、一番偉い人は「王」と呼ばれた。 秦の王だった始皇帝が最初の皇帝になったのであり、現在の中国人が、中華民族の祖と呼ぶ「黄帝」はその後に作られた神話上の神様である。
 5日 決まり文句「中国四千年」とは

または「中国五千年」とか言うのは、1911年、中国人が満州人の「(しん)王朝」に対して反乱を起こした辛亥(しんがい)革命のとき、革命派が、この年を黄帝即位紀元4609年としたことに由来する。

中国では、それまで、暦は皇帝に属するものであったから、清朝皇帝の年号しかなかった。革命派は清朝の年号を使うわけには行かぬし、かと言ってキリスト教の西暦紀元も使いたくなかったから、このような中国四千年というような神話を創作したのである。
 6日 幻想の産物 「黄帝即位紀元」とか「中華民族」とかも、紀元前660年の日本の「神武天皇即位」と「大和民族」に対抗した概念である。

日本よりも中国の方がずっとずっと古くなくては、話にならない、という当時のナショナリズムが産み出した幻想である。
(岡田英弘教授)
 

 7日 現代中国語の悩み

現代の中国では、「上下四千年」とか「上下五千年」と言い、決して「中国」を使わない。

それは、「中国」という言葉自体が19世紀に出来た言葉であるから流石に歴史には使えないのである。
 8日 中国人はどこから来たか

このように19世紀から、現在では「中華民族」ということになっているが、中国人はどこから来たのか。

秦が統一するずっと以前、最初に文明が生まれたのは河南省の洛陽盆地である。洛陽を中心として、四つの生活形態の異なる種族が分布していた。
 9日 四種族 1

(じゅう)と「(てき)

洛陽盆地から西、(せん)西(せい)(しょう)(かん)(しゅく)省の方面には「(じゅう)」と呼ばれる種族が遊牧して草原で羊を飼っていた。(じゅう)」とは「(じゅう)」と同じで羊毛の意味である。

北方の山西省方面には、「(てき)」と呼ばれる種族がおり、森林の中に住んで狩猟をして採れた毛皮や高麗人参を持って平原の農耕民の所にやって来て代りに農産物を手に入れていた。「(てき)」は交易の易と同じ意味で「行商人」を意味する。
10日

四種族2

()」と「(ばん)

平原の農耕民は東の河北省、山東省、安徽省の方面に住み農業と漁業で生活をたてており、これを「()」と言った。()とは「低」と同じで「低地人」の意味である。 洛陽盆地から南方の、河南省西部、(せん)西(せい)(しょう)南部、四川省東部の山地には焼畑農耕民が居住しており、これを彼らの言葉で人を意味する「蛮」と呼んだ。
11日 (ばん)()(じゅう)(てき)

この四種族はみな生活形態が異なり、言葉が違っていたが洛陽盆地で顔を合わせて盛んに物々交換の取引をしていた。

そのうちに次第に文化が成長して都市民になって行った。これらが中国人の先祖である。
12日 黄河流域最古の国
()
黄河流域で最古の国と言われる「夏」は東南方からやってきた「夷」で内陸の水路を遡って来て河南省の洛陽盆地に建国した。その夏に取って代わった「殷」は北方の森林地帯から侵入した狩猟民の(てき)でやはり河南省に国を建てた。 殷に代わった「周」は、西方の草原地帯から侵入した(じゅう)、即ち遊牧民で、洛陽に(せい)(しゅう)という都を築いた。その周に代わった秦も(じゅう)である。最期に、その秦と争った「楚」という国は(ばん)で、南方の湖北省に起こり、河南省、安徽省方面で活躍した。
13日 言葉と真実の乖離発生 漢字のせいで真実と言葉は乖離したという話である。秦の始皇帝が、紀元前221年にこれらの諸国を統一すると早速発生したのが言葉の問題だとされる。 漢字は古くからあったが、なにしろ、(ばん)()(じゅう)(てき)は夫々言葉が違うのだから、それを写す漢字も書体が違い、それを読む言葉もバラバラであった。
14日 始皇帝の漢字政策 始皇帝は、漢字の字体を一定にした三千三百字だけを選んで、読む音も各字一つに決めた。 これで漢字は統一されたが、注意を要するのは、それと同時に、一つ一つの漢字が意味するところと、それを表す音とが分離して関係が無くなったことである。
15日 始皇帝の焚書(ふんしょ) 諸国の言葉がバラバラだったから、読み方だって国によりみな違った。中国語と言えるような共通語は全くなかった。それを強引に統一したのだから、大混乱が起こった。 この為、始皇帝は民間の哲学書や歴史書を没収して焼き捨て、漢字を学びたい者は役人に弟子入りして秦の法令をテキストにして学ばせることとした。要するに、沢山あった漢字の読み方を、秦の読み方に統一したということである。これが「焚書」で紀元前213年の事件である。
16日 単なるラベルとなった漢字 これを秦以外の国の人から見れば、それまでと違い、各字の読み方は、子音―母音―子音という組み合わせだけに統一され、外国語で読むのと同じこととなったのである。

元は各地方で読まれて夫々の音に意味があった筈であるが、こうして漢字の音の意味する処が、字の元の意味と違うこととなった。これにより漢字の音は、意味を持つ言葉ではなく、その字は単なるラベルとなった。 

17日 字音統一の欠陥 漢文の古典を一字一字、声を出して読み上げても、それを聞く中国人はチンプンカンプンで、普通は意味が分からないと岡田英弘教授は言う。意味が分かるのは音を聞いて、たまたま元の漢字の組み合わせを思い浮かべられた時だけだという。

この欠陥は始皇帝の字音統一の副産物だが、同時に共通の話し言葉が無かった中国大陸の人々との間の、広いコミュニケーションにとっては利点となった。 

18日 毛沢東の悩み 毛沢東も、一度試みて挫折したが、仮に表意文字である漢字を廃止して、何かの表音文字に変更するとしよう。そうすると、それまで漢字の陰に隠れていた地方ごとの話し言葉が表面に出てきて、中国の言語が多様で統一がないこと、中国人という民族が存在しないことが明確になる。 言い換えれば、漢字の廃止と同時に中国が統一を保つ理由が無くなる。こうした事情で中国は秦の始皇帝の時のまま、つまり表面だけの統一を続けることになったのである。
19日 反切(はんせつ)、韻書

その後、三世紀になると「半切」と言うものができた。主として古い経典の字の読み方を伝えるために頭の子音が同じ字と、しっぽの母音と子音が同じ字の組み合わせで表す方法が確立した。

4-5世紀には「韻書」が始ったがいずれも秦の始皇帝以来の読み方で人民の言葉とは無関係であった。21世紀の現代でも同じことで中国語いわゆる普通語は北京語系の言葉だけを意味する。本当に中国人が日常話している言葉とは関係ない。結局人々は、うんと狭い範囲に通じる言葉を話して同族だけで生活していることになる。
20日 本当の事がいえない中国語 現代中国では何十と言葉があるが、漢字で書ける言葉は二つしかない。北京語と広東語である。それ以外の言葉、例えば上海語でも福建語でも、客家(はっか)語でも漢字で書けないという。 これらの言葉だけの話し手は、言いたいことがあっても黙って我慢するしかないという。例外は北京語をマスターした人で、他人の言葉を使って発表することになる。中国語というものの実態は、こうした借り物の言語である。
21日 言葉と行動は無関係の中国人 問題は、そのような中国語の実態があるとして、その中国語で発表されたものを本当であると考えていいかということである。中国の社会は、動乱に次ぐ動乱であった為に、政治の場ではその時、その時の利害により、目まぐるしく離合集散が繰り返された。 だから中国人は、自分以外の誰をも頼りに出来ない。個人主義の傾向が強くなる。そうした環境で身を守り生き延びる術は、常に口先では言葉の辻褄を合わせながら、言葉と関係の無い行動を取るほかない。だから書かれた言葉に真実は無いと岡田教授は言われる。
22日 北京語 共通語である北京語の教材は、表意文字である漢字である。北京は歴史上、最も政治的な土地である。その言葉は文字の影響を強く受けてきた。 だから北京語を学習すればする程、一般の中国人は、話し言葉とは関係ない、文字の世界に引きずりこまれて行く結果になる。
23日 結果論の中国史 前述のように文字と真実の間の乖離現象が最も明らかに出るのが中国の歴史記述である。 歴代の中国の「正史」は、司馬遷の「史記」から中国共産党の歴史に至るまで、判断基準は全くの結果論で、成功したから正義、失敗したから不義というものなのである。
24日 中国語は建前だけ 1969年の「中国共産党規約」で「林彪同志は一貫して毛沢東思想の偉大な赤旗を高く掲げ、最も大きな忠誠心を抱き、最も確固として毛沢東同志のプロレタリア革命路線を実行し守ってきた。林彪同志は、毛沢東同志の親密な戦友であり継承者である」と持ち上げられた。その二年後、林彪が非業の最期を遂げその一派が尽く失脚すると林彪の評価は一転した。彼は大地主兼大資本家の家庭に生まれ 入党後もブルジョア世界観は改善されず、長征の時は、毛沢東の権力を奪おうとし抗日戦の時は、蒋介石を賞賛、戦後の国共内戦では、毛沢東の戦略に従わず朝鮮戦争では参戦に反対し、中ソ論争ではソ連修正主義と妥協しようとし、また文革では軍隊の指揮権を毛沢東に譲ることを拒否するなど、「林彪が党に背き国に背いたのには歴史的根源がある」ということになってしまう。このことがそして歴史となつて行くのである。 
25日 毛沢東の告白 1944年、延安で整風運動を進めていた毛沢東は、共産党中央委員会総会総書記の王明を訪問して、こう言った「整風運動の第一目的は、中国共産党の歴史を、僕個人として出来る限り書くことにある。我々が言いたいのは、思想関係で中国共産党は常に毛沢東によって

指導されてきたのだということ、この24年間に中国共産党及び中国革命が達成したものは全て毛沢東の指導の結果であるということ、そしてこれまでの各時期に党の様々な指導者たちが犯してきた数多い誤謬の全ては毛沢東により正されたということなのだ」 

26日 建前と本音の区別ない中国語 前述の経緯では王明が抗日民族統一戦線政策を成立させた歴史的事実が邪魔になる。「で、僕は一つの案を考えついた。つまり君の成績を僕に譲って欲しいのだ。同意してもらえるかね?」。これを拒否した王明はモ スクワで客死し、中国共産党史は毛沢東の筋書き通りに書き直されたのである。中国語には「建前」と「本音」の区別はない。中国語で発表されたものは立派な「建前」だけで、本当のことは決して言わないし、言えないのである。
27日 東アジア構想 東アジア構想を言い出したアセアンは国家ではない。戦略らしいものもない。アセアン自体がお互いに内政不干渉で彼らが考えている共同体なるものの中に、安全保障の概念が全く無い。そこへ中国が自国の存在感を誇示しようとして乗り出してき たのである。アセアンはつまり中国が脅威であるから日本に出てきて欲しいのである。それを「中国が東アジア共同体に非常に積極的である」「やはり中国は大国であり長期戦略を持っているようだ」と考え、中国に遅れてはいけない、と動くのは危険なのである。
28日 アセアンに自信もて日本 アセアンから見て、ここ30年の政府開発援助(ОDA)の五ないし六割は日本からである。日本の三乃至四割で、残りは欧米からであり中国からは全く無かったのである。

アセアンの一番の貿易相手はアメリカ、殆ど同じくらいが日本、次はEUで中国はずーと後である。 

29日 アセアンへの投資 アセアンへの投資も日本がトップ、続いてアメリカ・EU、台湾となる。 台湾のアセアン投資が香港を含む中国の対アセアン投資より遥かに多いのである。
30日 巧妙な中国 中国は次から次へ勝手なイニシャティブをしているに過ぎない。また韓国も現実問題として、まだアセアンまで手が届かないので、自国を「東北アジア経済の中心」と呼び「韓半島は中国と日本、大陸と海洋を連結する橋である」と呼んでいる。 「韓半島は中国と日本、大陸と海洋を連結する橋である」とか「韓半島は東北アジアの中心に位置している。」と自己主張しているだけに過ぎない。
31日 中国に真実なし 日本は先ず第一に、戦後60年間営々とつつみ重ねてきた努力に自信を持つべきである。

中国が何を言っても、耳をかしてはいいけない。中国の言うことに、真実はあったためしはないのである。