愚考・人事の要諦「徳川家康の人間の深さ」
平成19年1月
 

 1日 序めに かって、家康は狸爺、或いはズルイ人物と青少年時代には思っていた。そして豊臣秀吉ビイキであった。現在でも秀吉の成功に賛辞を惜しむものではない。そうだ、もう十数年前であったか、秀吉が死んでから、大阪城が落ちた(大阪夏の陣)のは、どれくらいの期間があったのか調べたことがある。そして、それ実に、なんと、17年後である。これは長い、長い期間である。

正確に記すと、秀吉の死去は慶長3年、1598年、そして大阪夏の陣は元和元年、1615年である。元和堰(げんなえん)()、即ち武を終わり平和到来の宣言である。
私は、これを知り、これは到底、秀吉没後から家康は豊臣家滅亡を企図したものではないと思った。家康にその意があれば、老齢の家康は事を急いだに違いなかろう。家康は秀頼を一大名にしたい気持ちが強かったと知るに及んだ史実を学ぶこととなった。 

 2日

徳川時代は、265年に亘り平和で、戦争の無い時代である。これは世界でも他に例を見ない歴史的事実である。日本は「平和愛好民族」だと確信してよいのである。 

そこで、私は家康の並々ならぬものを感じて、それなりに記録しておいたものがある。家康の人間性の深みについてである。断片的なものだが、綴ってみることとする。
 3日 大久保彦左衛門の回顧談

大久保彦左衛門の「三河物語」によると、家康がまだ松平姓を名乗っていた時代、彦左衛門が語る。この御家、第一に御武辺(ごぶへん)(武道に優れていた)、第二に、御内衆に御情(おなさけ)(家来に情け深かかった)、御ことばの御懇(おねんご)ろ(非常に言葉が丁寧であった)とある。

普通、自分の家来だと、「こいつ」とか「おまえ」とか、ぞんざいな言葉を、信長なんか使っている。

処が家康などは、大変に言葉が丁寧だったという。
 4日 言葉使い 家康の言葉使いは最期まで丁寧であった。家老の本多上野(こうずけ)なんかにでも自分が大御所になって執政をさせるようになてからもやっぱり「上野殿」ときちちんと「殿」をつけて云っている。

言葉使いというものが、人の心に相当に多く響くものだということを家康は知っていたのだ。若い時からの苦労が悟らせたものであろう。人間の達人なのである。 

 5日 御慈悲 大久保彦左衛門の「三河物語」に第三として更に言う、「御慈悲(おじひ)」のことである。この「御武辺」、「御情」そして「御慈悲」である。この「三つが続いている家柄」だと。権力に物質がついて回るのは堕落の源だと知っていた。 本多とか大久保は三河以来の譜代衆だが、重要ポストにつけているが、知行の禄高はせいぜい1万石までである。権力ある者に金まで渡していない、この要諦こそ統治の秘訣なのである。  
 6日 附家老 附家老を選定する時の家康、ちゃんと一国一城の主になれる器量の、紀州へ付けられた安藤帯刀(たてわき)か、あとから犬山城の城主となった成瀬正成だとか立派にあの時代の大々名になれる人間を選定している それが家康に頼まれて、陪臣(ばいしん)(外様大名の家来)になっている。これに家康の頼み方に人間的配慮があるのだ。成瀬を尾張、安藤を紀州につける時の逸話がある。
 7日 家康の逸話 家康は三回も御飯を食べさせている。つまり「お前は立派に大名になれるんだけれども、それを諦めて、ひとつ附家老になってうまく倅を育ててくれ」ということを頼むのに、今日、切り出そうか、今日はと思って呼び出すのだが言い出しかねた。 また翌る日も、あくる日も御飯を一緒に食べようと云うのだ。それでもまだ云えなくて、三辺目には、向こうから、これは何か、よくよく言い難いことがあるんだと気がついて、二人のほうから聞いてやったと言う。
 8日 はにかみやの家康 話をした家康は、自分の短刀を渡して、俺の替りに附家老になってくれるんだから、相手がもし国を乱すようなことをやった時には、遠慮なくこれで刺してくれと云った・・。 非常に家来を大切にした、はにかみやである。
 9日 人間観の深さ 当時、家康は私娼を禁じる、これはいいことである。それでも売春はなくならない。無くならないのなら対策が必要である。私娼をなくする為に、吉原遊郭を始めたのだが、この際の人使いの妙の逸話がある。 庄司甚内という、生まれつき女の世話が好きでたまらないという男。小田原から連れてきて「お前はここで遊女たちの(てて)になれといい特定の場所の赤線地区を作ってやって、良民の間への私娼の進出を食い止めようとしたのである。
10日 泥棒対策 江戸城下で中々の泥棒だった鳶澤甚内を連れてきて古道具屋をやらせる。そうすると泥棒が親分の鳶澤を訪ねて来る。「それじゃ、お前は古手買いしてくれ」、と言い当時の江戸で日常生活に不足していた古着集めをやらせる。大きな「免許」という焼印を押した許可証と袋を持たせて買いにいかせる。これを独りでは歩かせない。

二人一組でさせる。「古手買おう」と、なにぶん泥棒出身連中だから、その方面は顔が利く。江戸で一旗挙げようとか、こそこそ盗みを働くような奴はすぐあれは怪しいと眼につく。それで彼らから奉行に密告させる。すると関係ある石出帯刀という人物に牢奉行をさせる。さっさとその手で捕らえる、未遂の人間は鳶澤に預けて古着商人にさせる。 

11日 人間を知る妙味 昨日の話のようにも泥棒をして泥棒封じ、市民の間で足りなくて困っている古着商に仕立て替えさせる。泥棒と関係ある奴を牢役人にして、そちらからも押さえさせる。ただ押さえるだけでなく、適当にちゃんとみな粛清しながら生計の手段も与えてやる。実に人間というものをよく心得たやり方。 今は、人間をちっとも見ないで、規制や法律だけがノコノコと歩いている。売春を取り締まろうとして暴力団のヒモを殖やし、暴力を取り締まろうとして日本中の大学を警官不入の暴力団本部にしてしまう。売春も泥棒も暴力団も少しも減らない。
12日 家康の言葉の面白さ 家康が重臣である土井利勝に言った言葉が、また面白い。「それぞれ、人のいいところを用いて、悪いところは、あまりかまうな」である。寛容な言葉だ。

また、曰く「家老どものところへ常に出入りするような者には、ロクなのはいない。上役におべっかを使うような者は物の役に立たない」 

13日 謀反を起す人間は 「謀反や叛逆を起す人間は、だいたい、私利私欲の強い人間だから、欲深い人間に、やたらに国や軍隊を任せるな」。これはやはり苦労人の家康だ。 「余り能力のない人間でも、なんとかしてその家を潰さないように相続させてゆくのがよい政治だ」。非常に寛大である。家来はこういう主君に感激する。
14日 柳生但馬守宗矩(やぎゅうたじまのかみむねのり) 云うまでもなく徳川家の剣道指南役、父、石舟斉宗厳を開祖とする。徳川家御家流である。封禄は一万二千石、当時の武芸者の封禄ではない、単に剣技指南なら三百石程度。大名なみの封禄である。ここに家康の思想が見られる。

大名の大目付で政治家であろう。その上剣道を、それまでの乱暴な戦国武道から新しい武士階級の教養まで高めてゆく、平和教育に合致した道徳的境地にまで求めた。禅の理屈を定着させ、剣禅一致を狙った。 

15日 増封拒否の柳生 御家流の柳生宗矩は実に31年間加増を拒否している。気位では家康に負けていない。自分は将軍の師匠であり使用人ではないという気位。加増を31年間拒否とは大変なことである。 そうすると家康もこの人物は本物だとする。また、私は徳川家の一使用人ではない、私は乞われてなった将軍の御手直役なんだという誇りを貫いている。
16日 山岡荘八氏の言葉

現代だから、外国のことにどんなに詳しくてもちっともおかしくないのだけど、逆に向こうのことに詳しくて、日本のことに、うとくなっている人間が随分増えちゃった。いかに占領教育のせいだとしても、それでは困るんじゃないか。

例えば、明治維新の時に、真剣になり活動できた志士たち気持ち・・・信条というのは何であったかというと、これがまるきり分からなくなっている。
17日

志士たちの信条

彼らは、日本は神国だという信念を真っ先にだして行動している。これが殆どの志士たちの行動を規制している。処が神国ってなんのことだという、考えてみる価値もない迷信じみたことだと思っている。それ以上のことは何も分からないのですね。 どうして神国と考えたのか、なぜ神国と思い込まねばならなかったのか、なぜ神国の民草として行動したのか、ということになると、さっぱり分かっていない。それが分からないのですから、27年前(大東亜戦争のこと)の戦争にしたところで、多くの兵隊たちが、天皇陛下万歳となぜ言って死ななきゃならなかったのか。その意味さえ分からない。
18日 なぜ神国なのか1 そんなことを云って死んだ父や兄を寧ろ滑稽視しているようにさえ見える。これは日本人として、日本の歴史を幾らか知って行動しようとしている者にとって、とてつもない八幡の藪へひっぱり込まれたような戸惑いです。 断絶も断絶、日本人の歴史の中から、一番大切な日本人の精神(心)という背骨を抜いて教えこまれるのですから、簡単には埋めようが無い。せめて日本人が歩いてきた道、そして江戸時代にどういうふうにして文化が固まってき、どういうふうにしてそれが維新後に他から入ってきた新しいもの「西洋文明」と合流しなきゃならなかったか。
19日

なぜ神国なのか2

或いはその西洋文明にシャッポを脱がなきゃならなかったのならば、どういう点にシャッポを脱いで、どういう点にはシャッポを脱がなかさったのか、という一番肝心なところをみんな抜いてしまっている。 迎合なんてものじゃなくて、文化面では、文字通り無条件降伏です。それでは日本人としてはなはただ心細すぎるような気がするのです。
20日 世界稀有の大政治家 そこで、僕だけでは成るべくその影響を避けて、日本的なものを日本人的に解釈する自由を仕事の上で捨てたくないと思って努めているわけです。 そう思ってみると、大した人物ではないと思われていた家康が、戦国武将の中でも群を抜いた、福沢諭吉の言うような世界稀有の大政治家であったということがわかってくる。
21日 文明東漸史説の疑問 そうなると家康の人間開発の方法なり、政策決定の足取りなど、政略なり、みんな一々考え直してみなきゃならん。僕のような大衆の一人が、戦後の歴史家の研究をそのまま信じられないので、改めて考え直してみなくてはならない処に日本の最も大きな問題があるような気がするのです。 第二次大戦後、科学工業的に世の中はぐんぐん進歩して、従来の常識では、人口問題も政治問題も経済問題も割り切れなくなってきた。つまり世界は行き詰ったという自覚が普遍している時に、日本人だけは未だに文明東漸史的な古風の考え方で、学問のことは誰か西洋の親切なオジサンがひょっこり出てきて教えてくれるもののように思い込んでいる。
22日

西洋先進国では、という言葉がいまだに残っていますからね、これでは日本人が何のために黒船以来百年にわたり戦時体制で戦ってきたのか丸きり分からなくなってくる。

世界有数の平和愛好民族が、どうして好戦民族と言われるようにならねばならなかった?そうすると、その歴史が胆に入ってこそ始めてこれからの雑多な思想の取捨をする自由も生まれてくると思う。
23日

一番はっきり云えることは、明治維新の解明もまだサッパリ・・という感じです。家康の精神が15代将軍の慶喜中に生きていて大政奉還が出来たということも、天皇に軍服を着せるという大きな間違いのことも、あれでは藩閥政府は出来ても特異な国柄を生かした本当の日本は生ま

れなかった筈だということも、系統的に解明されていない。そこで慌てて西洋文明を移入した 日本が一々先進国の真似をして、そして、この前の大戦で失敗しなければならない運命を掴み取ったという経緯までが殆ど伏せられたままになっている。これをはっきりさせたい。 

24日

家康があったから慶喜があった。慶喜があったから明治維新、明治以降、つまり明治があったということ。そう思って考えてみると、今日第二次大戦が終わって、日本人の生活の上に押しかぶさって来ている最も重要なマイナス的な要素は何であったか。と考えてみると、これは人種問題だったという気がする。

白人に非ざれば人に非ず、この白人文化の中から何を取り、なにを捨てなきゃならなくなったかと言うことが、実は今日の問題の全てではないか。この過程の咀嚼が足りず、ここまで今言っていることは、みんな行き詰った西洋のつけ焼刃で、本当の生活実感がちくはぐだから、民主主義なんて云ってみても現実性がない、階級問題、労使問題だって、もともと単一民族だから、西洋式の国家にはなり得ないところがある。 

25日 日本人らしい日本人、最後の将軍・徳川慶喜 そこでもう一度、太陽を生命の母として来たどこまでも宇宙的なこの国に生まれ、この国に育った大和民族・・と言った線で日本人を見出してみたい。それが僕の人生の結論で家康もそこに立っているわけです。 最期の将軍慶喜が人物だったというのは、大政奉還に応じたところです。あそこまで徳川将軍が続けば、「俺は、いやしくも将軍様だ」と固執されがちである。人間というものは自分の最高の地位は容易に捨てきれないものです。
26日 大政奉還 慶喜にいつまでも頑張られたら日本はどうなったかわからない。これを考えると消極論的な評価かもしれないが、事態終結策の偉さである。 大政奉還した後を考えれば、当たり前のようだけど、現実的には中々できないことだ。日華事変でも、大東亜戦争でも、誰も戦争終結に持っていけなかった。戦争奉還ができなかったじゃありませんか。
27日

第二次大戦の時に比較して、幕府はまだ武力を充分持っていたのだから、いくらか動乱も起こりましたが、江戸の市街も焼かずにすんだ。

そして、とにかく新しく芽生えて育った勢力にさっと政治権力を渡していったということ、これは水戸の精神を活かしたことになるのですかに大変な決断であった。
28日 300年の平和 結論として、とにかく265年間も国の内外に平和が続いたというのは、今から考えれば大変素晴らしいことだと思う。 徳川将軍が政権を握っていたこの時代は、幕藩体制だとか、参勤交代制だとか、儒教の思想をもとにした士農工商の身分制度だとか、或いは偏狭な鎖国政策だとか、そういうようなもので人々を縛りつけたという非難はあろうが、曲りなりにも、どうやらこうやら265年間平和を続けさせた徳川将軍家である。
29日

敗戦後となり、日本人は本当に自由平等とか人権尊重とかいうことを体得したわけで、その点、歴史がずっと進歩したと思う。

然し、敗戦の結果でしようが、社会秩序というものが甚だしく混乱してきた。道徳も地に落ちた。
30日

そして醜悪極まる怪事件が続々起こる。現代日本の社会秩序は勿論、江戸時代のような武力で強制された、儒教的道徳秩序じゃないんですがそれにかかわる、いや、敗戦前のも

のにもかわる、新しい社会秩序が確立されねば駄目です。革命ごっこなどやめて、日本の社会を本当に平和にするように国家の政治に協力する必要がある。
31日 江戸時代を学び直せ

その新しい秩序というものがどういう秩序かということは、いまちょっと端的に申せないけど強力な平和的社会秩序、そういったものが出来てこなくてはなるまいと信じます。

そのためには、家庭教育、学校教育、社会教育の徹底的改善はもとより、出版、放送、映画、演劇など、いわゆるマスコミも、これに全面的に協力せねばなりません。その端緒にするためには、僕はここでもう一度江戸時代を学び直してみたいということなんです。