日本、あれやこれや 富士山特集 33
平成19年 1月

 1日 富士山と桜 富士山
元旦や一系の天子富士の山」。元旦には家の床の間に富士山の絵を飾る家も多いと思われる。静かな元旦の朝を迎える度に日本人に生まれたことを感謝する。それは永遠に平和の続く天子の国、万世一系の日本の有難さは富士山と繋がるのである。
日本は美しい国である。そのシンボルが富士山、左右均整の取れ天空に聳え立つ容姿の秀麗さ、気候の瑞々しさが醸しだし「玲瓏玉の如し」の風情美。ヒマラヤやアルプスは峻厳、荘厳、雄大の形容は当たるが、富士山のもつ秀麗とか優美の趣は無いのである。
 2日 ナポリとの比較 世界には、ナポリを見て死ね、の言い伝えがあるが、日本人には、緑の乏しい地中海性のドライな風景は殺風景で耐えられない。西洋で唯一の火山、ベスビオが青い地中海を背景にして周囲を圧して孤立して立っているから雄大に見えるだけである。 火山なら、噴煙をあげている櫻島の鹿児島湾の港を、城山から眺めた風景のほうが遥かに素晴らしい。鹿児島の人々は、ここを東洋のナポリと自慢しているが遠慮深い。ナポリのほうが、「西洋の鹿児島湾」と逆宣伝したらいい。
 3日 富士山は人類の宝 世界の人々に是非とも一生に一度は、富士を見せてやりたい。「富士を見て死ね」と。 美しい日本を世界にもっと知らせるべきである。富士の持つ自然美の極致と平和日本のシンボルは合致する。
 4日 富士山 富士山は日本列島が西南日本から東北日本に方向を変える辺り、日本のほぼ中央に位置して、両方の山系にしっかりと足を踏んばって日本民族のために永遠の祈りを捧げているような姿ではないか。 日本人で富士山の姿を見たとき、いつも端然として襟を正し、言い知れぬ感動を覚えるのはこのためである。
 5日 敗戦時の富士

敗戦直後、疲れ果てて中国や南の国々から東京に帰ってきた復員兵士や引揚者が、通り過ぎた町々の荒廃を見て絶望の極にあり敗戦を涙した。

その時、駿河の空に忽然と浮かぶ富士山の英姿を貨物列車から仰いだ時、どれだけ感動したことか。忘れかけていた「国破れて山河あり、城春にして草木深し」の杜甫の詩を口ずさんだ。
 6日 富士は語る 富士山は語りかけた、「よくぞ帰ってきた。本来の日本列島は北海道、本州、四国、九州の四つの島国で成立したものだ、この日本の母なる大地は一片も失われていないのだ。資源や富は必ずこの国土や民族に隠されているのだ」と。 富士は更に語り続けた、「山のことは鳥に聞け、海のことは魚に聞け、日本のことはこの富士に聞け」と優しくさとし我々日本人に勇気と希望を与えてくれたのだ。
 7日 富士の教え ニーチェの言葉がある、苦難のときは「汝の足下(そっか)を掘れ、そこに泉がある」と。富士は日本人にこのことを教えたのである。資源は失った海外の地の中にあるのではない。日本中の国土の中、人間の中に隠されていると教えてくれたのだ。敗戦の将兵や引揚者は夫々列島各地に散って行き、開拓に、埋め立てに全力の死に物狂いで働いた。

忽ち、瑞穂の国の真価が発揮され、米は大豊作、埋立地は近代的な臨海工業地帯に生まれかわった。地域開発、国土開発の言葉も戦後生まれである。日本人は生来の勤勉と知恵で、忽ち世界第二の経済大国に生まれ変わった。かくして富士を仰ぐことで日本人は勇気百倍、資源小国で経済大国になれるシステムを開発して世界の貧しい発展途上国に夢と希望を与えたではないか。 

 8日 富士の教訓 富士山は教訓的な山である。黎明日本列島の一角に最初の朝日を捉えるのも富士、最期の夕日を送るのも富士である。夕暮れに里人が夕餉のまどいに入るのを見届けて、富士は安心して天空から姿を消し、列島は完全に夜となる。 富士は日本一早起きで、日本一遅寝で、日本人の生活を見守っている。日本人の喜びも悲しみも共に幾千年、富士は日本民族の守護神として、平和のシンボルとして多くの歌に読まれ日本人・日本歴史になくてはならい存在である。
 9日 世界の「日出ずる国」 日本列島は太陽が、太平洋の中央の日付変更線を越えて、最初に遭遇する先進国である。だから最高峰の富士山の山頂が朝日に輝いた時から地球の或る日の歴史が始まるのである。 その一時間後に北京が、九時間後にロンドン、十四時間後にニューヨークの夜が明けるのだ。日本は紛れも無く「太陽の先進国」であり、「日出ずる国」なのである。
10日 富士即日本 三十年ぶりに帰国した敗残兵の小野田さんも、富士山を見て初めて日本に帰ってきたという実感を抱いたという。富士は日本人の心の故郷、富士即日本だからである。 母国を離れて旅たつ甲板の人々を、海の彼方に最後まで見送ってくれるのも富士である。富士は高きがゆえに、水平線の彼方にいつまでも浮かんでいるからである。
11日 日本人の連想 日本人が日本という言葉を聞いて第一に連想するのは「富士」、第二が「桜」、第三が「朝日」である。 会社名もこれらが多い。相撲取りの股名(しこな)にも多い。
12日 富士の裾野 富士山は日本最高の3776米の高さである。実は高さの五十倍もの雄大な裾野を巡らしていることを想起したい。 人が高きを望み、頭角を現すためには、若いときに先ず土台を広くしっかりと築けとの教えでもある。
13日 洗練美の裏には 遠景の富士山の美に惹かれて登山した人々は天空の風雪と戦い続けて砂礫(されき)の剥き出た(はだ)の余りもの痛ましい姿に驚嘆する。富士の体内には尚、灼熱の溶岩をたたえている。間近かに見る富士のだならぬ実相を知る時、人は真に美 しいものとは内外の苦悩を忍び、試練に打ち勝った者のみが得る特権なのだと知るでありましよう。そこには洗練された気高い永遠の美の謎があったのだと感動します。そして一層、富士を尊敬し、親愛を覚えるのである。富士こそ日本の世界に誇る自然美であり日本人の心の象徴である。
14日

「桜賛歌」

「世の中にたえて桜のなかりせば、春()の心ものどけからまし」。これは日本人の桜への憧れを歌った在原業平(ありはらのなりひら)の作である。弥生の春、三月、長い冬からの解放感から人々は、身も心も浮き浮きしたものとなります。

花と言えば桜を意味し、桜は古代から日本人の最も愛し親しんだ花で「国花」にふさわしい。富士山とともに日本文化の神髄である。 

15日

美意識の神髄

桜が解れば日本人が分かると言われる程に、両者は微妙に結びついている。桜は日本人の、優しく繊細な心の文化と日本美、美意識の神髄である。植物としての特性が日本人の感性、行動によくマッチしているからである。

特性を四つに分類できる。
@集団性(同時性、一斉の見事さ)Aいさぎよさ(一度に咲き、一度に散る、刹那美)
Bはかなさ(花の命、花は桜木、人は武士)
C解放感(長い寒い冬からの目覚め、ウキウキ)、附随的に、なまめかしさ、あでやすさ。
 

16日 桜と集団性と
日本人
欧米人は、バラとかチューリップのように一つ一つ自己主張し絢爛豪華に咲く花を好む。個人、人権を重んじ個性美を愛する。対する日本人は、桜や萩のように、全体の美、総合の美を愛する。桜の花の一リン、一リンには意味が薄く個を集団の中に没して社会や国という集団、全体の中に生きがいを感じる。 桜の花弁一つだけでは頼りなく淋しい、これは日本人の国民性をよく表現している。一人ぼっちの日本人は頼りないが、群れをなすと俄かに活気づく。桜の下の宴会は人が変わったようにはしゃぐ。一人では借りてきた猫のようだが、集団国民性が桜の季節によく現れる。
17日 日本人の心とは 日本人の心とは、と聞かれたたら、本居宣長の歌、
敷島の大和心を人問わば、朝日に匂う、山桜花と答えればよいのである。

生涯、雲水の境地を愛した西行法師は「願わくば花の下にて 春死なん その如月の 望月の頃」と桜の下で死にたい、これが日本人の共通願望であろう。 

18日 花といえば桜 古来から花と言えば桜のこととして多くの詩歌が詠まれてきている。万葉集には43、古今集には74の歌が掲載されている。百人一首の最優秀歌と言われる紀友則の歌、
久方の光のどけき春の日に しず心なく 花の散るらん」。
やわらかに春の日ざしを受けて、桜の花が独り静かに散ってゆく、どこの里にもある普通の春の平和な国土の風景、何のてらいもない、このごく単純な平和そのものの風景こそ、日本人の心の神髄である。
19日 桜の歌 「古の奈良の都の 八重桜 今日 九重に 匂いぬるかな」

百人一首より伊勢大輔
「花の色は うつりにけりな いたずらに 吾が身 世にふる ながめせし間に」
小野小町、人間や美人のはかなさ別れの辛さを桜に寄せている。
20日 桜の歌2 「桜の花 散り散りにしも 別れゆく 遠き一人と 君もなるらん」 「散る桜、残る(()でる)桜も 散る桜」
若くして死んでゆく人、残った人を慰めるのにこれほどぴったりの句はないのではないか。
21日

浅野()匠頭(くみのかみ)長矩(ながのり)の辞世歌

三十代で突然おとずれた死、赤穂藩主の歌、短い生涯を惜しんで余りある歌である。

「風誘う 花よりもなお 我はまた 春の名残りを いかにとはせん」。 

22日 同期の桜 桜の花の散り際のよさは軍人精神に最もよくマッチした歌。九段の桜、同期の桜、愛国の花としてどれほど詠まれたか計り知れない。陸軍の徽章は桜、海軍のそれは桜と(いかり)であった。

咲いた花なら散るのは覚悟、花の都の靖国神社、春の梢に咲いて会おう、桜ほど軍人の死恐れず死を称える勇気と慰めを与える花はない。 

23日 春の物憂さ 山里、都の春のものうい情景を歌うのに桜は欠かせない。
「都ぞ 春の にしきなりけり」(素性法師)

「花の雲 鐘は 上野か 浅草か」(芭蕉) 

24日 琴歌と桜音頭 「サクラ サクラ 弥生の空は 見渡す限り 霞か雲か匂いぞ()づる いざやいざや 見にゆかん」(琴歌) 「はあー 踊り踊るなら ちょいと ・・・」昭和十年前後、一世を風靡した東京音頭。
25日 武将の優しさ 源義家のような武将でさえ、やさしい心情を吐露した秀歌を忘れてはなるまい。 吹く風を な(こそ)(勿来(なこそ))の関と思えども 道もせに散る 山桜花」
26日 万葉集の桜の歌より 天降りつく天の香具山霞立つ春に至れば松風に.......(長歌) 0260 天降りつく神の香具山うち靡く春さり来れば桜花.......(長歌) 0260:
27日

西行の歌「山家集」 

「吉野山こずゑの花を見し日より 心は身にも添はずなりけり」
「花見ればそのいはれとはなけれども 心のうちぞ苦しかりける」
西行は山家集に1500首余を収めているが吉野の桜だけでも60首に余る。
「風越の峯のつづきに咲く花は いつ盛りともなくや散るらん」
28日 山家集2 「ならひありて風さそふとも山桜 尋ぬるわれを待ちつけて散れ」 「吉野山谷へたなびく白雲は峯の 桜の散るにやあるらん」
29日

山家集3

「もろともにわれをも具して散りぬ花 憂き世をいとふ心ある身ぞ」
「眺むとて花にもいたく馴れぬれば 散る別れこそ悲しかりけれ」
「いざ今年散れと桜を語らはん なかなかさらば風や惜しむと」
30日 大伴家持の桜歌 西行の450年前の万葉歌人、大伴旅人(665-531)は幼少時、青春時代を飛鳥で過し、しばしばこの地への望郷を詠んでいるが、万葉では吉野の桜は詠まれていない。平安以前は吉野山は山岳信仰の霊地として一般人は近づけなかったためである。 大伴旅人の子、家持は次の桜の歌を詠んでいる

「今日の為と思ひて標(し)めしあしひきの 峰(お)の上(え)の桜かく咲きにけり」
31日 散る桜 万葉の歌も散る桜がない訳ではないが咲く桜と並存している。
「春さらば挿頭にせむとわが思いし桜の花は散りにけるかも」
「阿保山の桜の花は今日もかも散り乱るらむ見る人なしに」。
「春雨はいたくな零りそ桜花 いまだ見なくに散らまく惜しも」

「今日の為と思ひて標めしあしひきの峰の上の桜かく咲きにけり」。