私の 大津(おおつの)皇子(みこ) 二上山の悲歌 

平成20年1月   

 1日 序めに 大津皇子、それは悲劇の皇子と同義語であり二上山を連想し私の胸から離れない。山頂の墓に刻まれている「大津皇子二上山墓」は古代の姉弟の悲劇を想起させ生々しい思いにかられるのだ。大津皇子にまつわる歌と歴史を考察する。
 2日 大津皇子の姉の歌

姉の大伯(おおくの)皇女(ひめみこ)の弟を哀傷する歌 

現身(うつつみ)の 人なる吾や 明日よりは (ふた)上山(がみやま)を いろせと吾が見む
                     
2-165 

諦めきれない思いを山に託し、山そのものを弟と思う歌、この山に登り大津皇子に思いをはせない人はいないのではなかろうか。

 3日 ()大津(おおつ)

大津皇子は、天武天皇(大海人(おおあまの)皇子(おうじ))の子息である。天武天皇の兄が、かの有名な中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(天智(てんじ)天皇(てんのう))である。

大津皇子の大津は琵琶湖畔にある大津ではない、出生された現在の博多は当時()大津(おおつ)」と呼ばれていたからである。

 4日 父・天武天皇の二人の后は姉妹

天武天皇は、兄の天智天皇が()我倉(がのくら)山田(やまだ)石川(いしかわ)麻呂(まろ)(むすめ)越智娘(おちのいらつめ)との間に生んだ大田(おおたの)皇女(ひめみこ)()と、う野讃(うののさら)(らの)皇女(ひめみこ)()の二人を妃にしていた。
即ち二人の姪が妻であった。

 5日 草壁(くさかべの)皇子(おうじ)との関係

天武天皇の正式の皇后となったのが妹のう野讃(うののさら)(らの)皇女(ひめみこ)、そして草壁(くさかべの)皇子(おうじ)を産んでいる。

天武天皇には、姉の大田(おおたの)皇女(ひめみこ)との間に大津皇子と姉の大伯(おおくの)皇女(ひめみこ)がある。

 6日 大津皇子の姉は牛窓生まれ

時代は、斉明女帝の七年、661年、百済を応援し新羅と戦う為、天武天皇は16日難波を出帆された。その時、大田皇女は懐妊中であり、18日岡山県は牛窓港沖で女児を出産した。
牛窓は、邑久(おく)郡であるから、大伯(おおくの)皇女(ひめみこ)と命名された。

 7日 大津皇子の語源

663年当時、九州の大宰府は博多湾岸にあったが、この港で、二番目の御子、大津皇子が産まれた。当時の博多は「()大津(おおつ)」と呼ばれていたから、土地の名を取り「大津皇子」と名づけられたのである。姉は三才、弟は一才である。

 8日 叔父は中大兄皇子

663年、日本軍は、朝鮮半島の(はく)村江(すきのえ)で大敗した。中大兄皇子(天智天皇)、二人の姉弟の伯父であるが、飛鳥に引き揚げた後、667年には要害の地、近江大津に遷都されている。

 9日 大友皇子

天智天皇と弟の天武天皇の間の経緯を知らねばなるまい。
天智天皇
は初め弟の大海人皇子を皇位継承者として皇太弟とした。しばらくして、天智天皇は皇位を子息の大友皇子に譲りたくなった。その布石として67115日に新しいポスト太政大臣を新設し、大友皇子を任命し皇太弟である大海人皇子を政権から排除するように務める。

10日 吉野隠棲の天武

これを知った大海人皇子は強い不満を抱いた。間もなく天智天皇は病床に伏す身となるが、枕元に弟・大海人皇子を呼び後事を託す旨を告げた。ここで天智天皇の真意を見抜いた大海人皇子はこれを固辞して出家し、妻(後の持統天皇)と子とともに吉野に隠棲し皇位への野心のないことを公にされた。

11日 壬申の乱勃発

67112月天智天皇が没した。天智天皇没後の政情不安の672624日、大海人皇子はわずかな従者と共に急遽東国に進発された。ここに壬申の乱が勃発したのである。昼夜兼行で伊賀を経て伊勢まで急行し 27日には美濃国不破に本営を置かれた。大友皇子が機先を制して軍兵の動員に手間取る間に、大海人皇子は東国の大兵力を結集し72日に総反撃を下命した。

12日 大友皇子自害

第二隊は大和方面に進出して大伴吹負らの軍と合流し、南大和の箸陵の戦いで大友皇子方を撃破した。大海人皇子の長子である高市(たけちの)皇子(みこ)率いる第一隊は近江に進撃し、大友皇子軍を打ち破りながら進軍し722日大友軍の最後の防衛ラインである瀬田川に至る。この日は大友皇子自ら出陣し、瀬田川を挟んで両軍最後の決戦が始まる。瀬田川を奪取された大友軍は総崩れとなり、大友もわずかに身を持って逃れたが翌日山崎で自害した。

13日 壬申の乱に圧勝の父・天武

壬申の乱は大海人皇子の圧倒的勝利に終わった。大海人皇子の勝因は天智天皇の急進改革によって特権を奪われた貴族・地方豪族の不満を上手に吸収し、それを近江朝廷にぶつけた為である。

皇位継承争いを大規模な内乱としたのが勝因であると言える。壬申の乱に勝利し、実力で皇位に就いた大海人皇子(天武天皇)の権力は強大なものとなり、天皇の神格化・律令体制の整備とが急速に進んで行くのである。

14日 大海人(おおあまのおうじ)皇子(おうじ)

話を元に戻す。667年には、この幼少の姉弟は、母の大伯(おおくの)皇女(ひめみこ)を失っている。そして、672年に壬申(じんしん)(らん)があり、この二人の父の大海人(おおあまのおうじ)皇子(おうじ)は、天下を統一し12月に飛鳥(あすか)(きよ)御原宮(みはらのみや)で天武天皇となられた。

15日 神となる天武天皇

大海人皇子、即ち天武天皇は二人の子の父であるが兄の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(天智(てんじ)(てんのう))と戦い勝利したのである。 

大君は 神にしませば 赤駒の はらばふ田井を 都となしつ  巻19-4260   大伴御行

遂に、神となられたのが大海人皇子こと天武天皇である。

16日 二人の姉妹

大津皇子は、壬申の乱の時は十才、腹違いの兄である武市(たけちの)皇子(みこ)と共に吉野から来た大海人皇子軍に従った。父、大海人皇子の英雄的な行動は大津皇子の人格上への影響は大きかったに違いない。

飛鳥で父・天武天皇の即位の後、姉・大伯(おおくの)皇女(ひめみこ)は十三才で伊勢斎宮となり26才まで伊勢にいることとなる。

17日 天武・天智の皇子

天武天皇には、男の御子が十人いた、みな母親が違う。天武の兄の天智の皇子は二人いた、志貴皇子と川島皇子である。仲違いがあれば再び壬申の乱の二の舞である。

18日 六皇子の誓盟

そこで、諸皇子の忠誠を求めて六皇子の誓盟があった。
天武の皇子・草壁皇子を筆頭に、武市・大津・忍壁の諸皇子、それと兄・天智天皇の皇子・志貴と川島の六人である。
天武十年に草壁皇子は皇太子となられた。天武十二年には、大津皇子は「執政」(政を執らせる)とさせた。

19日 英雄の風格の大津皇子

大津皇子は小英雄の風格があり頭脳明晰、病弱で凡庸な草壁皇子より天武には大津に傾くものがあった。これは皇后の頭痛の種であった。

20日 文武両道の大津皇子

日本書紀と当時の漢詩集「懐風藻」には青年期の大津皇子を口を揃えて、優秀さと人柄を褒め称えている。
大津皇子は、男性的、頭脳良し、言語明晰の文武両道、よく剣を打ち、漢詩を良くし、豪放磊落も人望が高かったのである。

21日 石川郎女(いしかわのいらつめ)の出現

大津皇子二十才前後、石川郎女(いしかわのいらつめ)という女性が現われた。
   大津皇子、石川郎女に贈れる歌 

あしひきの 山の(しずく)(いも)待つと 吾立ち()れぬ山の雫に     
                        巻2-107
 
      
      石川郎女、(こた)へ奉れる歌
()を待つと君が濡れけむ 
 あしひきの
山の雫にならましものを 2-108 

山の雫とは、なんという卓抜な造語であるか。この贈答歌は、相愛の男女の濃艶な愛情を示して見事なものだ。

22日 草壁皇子の愛人でもあった・石川郎女(いしかわのいらつめ)

当時、反体制を監視する役割をしていた、津守連通(つもりのむらじとおる)はこの二人の間を暴露した。それに対して大津皇子の歌がある。 

大津皇子、(ひそか)(いら)(つめ)()ひし時、津守連通、其事を占へあらはすに、皇子の御作歌 

大船の 津守の(うら)に ()らむとは (まさ)しに知りて我が二人宿()                         巻2-109 

大津皇子は、二人宿()しと、堂々と豪胆に打ってでた。石川郎女は天武天皇の皇太子・草壁皇子の愛人であった。

23日 ハニートラップの陥穽?

日並(ひなみしの)皇子(みこの)(みこと)石川(いしかわの)女郎(いらつめ)に贈り賜る御歌一首女郎、(あざな)大名児(おほなこ)といふ 

大名児(おほなこ)彼方(をちかた)野辺(のべ)に刈る草の束の間(つかのま)も吾忘れめや 巻2-11
日並
(ひなみしの)
皇子(みこの)(みこと)
とは皇太子。勘ぐれば石川郎女は、皇后・草壁側の、大津皇子失脚の手立てであったと思われる。

24日 大津皇子の骨相

骨相師・(ぎょう)(しん)(新羅の僧)は、大津皇子の骨相を観て「天皇になるべき人だ。もし天皇にならなければ、恐らく身を全うせざらん」と暗示を与えたと言われる。 

大津皇子は、この言葉から(そそのか)されて、大逆(たいぎゃく)志向に転じられたとも言われる。行心も皇后・草壁の回し者であったかもしれない。大津皇子は是非共消したいお方であったのであろう。

25日 姉・弟の最後

大津皇子24才、愈々重大な時に直面した、姉に会うために伊勢に向かった。 
大津皇子、(ひそか)に伊勢神宮に下りて上り来ませる時、大伯皇女御作歌 

わが背子(せこ)を 大和へ()ると さ夜ふけて(あかとき)(つゆ)にわが立ち濡れし                      巻2-105 

二人行けど 行きすぎがたき 秋山をいかにか君が ひとり越ゆらむ                  巻2-106

「さ夜ふけて 暁露に」など夜の深刻な時間の過ぎたであろう状況が彷彿としてくる。
「二人行けど」には今生(こんじょう)の名残りが予感されて痛ましい。現在の三重は松阪近くの斎宮跡あたりであろう。 
伊勢での姉の歌であるが、姉の弟を思いやる肉親の情愛が肌感覚で伝わってくる。

26日 告発された大津皇子

688102日、漢詩の仲間であった、天智の皇子・川島皇子により事の詳細が皇后・草壁側に告発された。そして688103日、大津皇子は訳語(おさ)()の家で処刑された。 

大津皇子、被死(つみな)はえましし時、磐余(いはれ)の池の(つつみ)にて(なみだ)を流して御作歌 

(もも)(つた)磐余(いはれ)の池に 鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ3-416 

大津皇子が死地に向かわれる途中、その景観に即して歌われた辞世である。磐余は、香具山の北東、桜井市内は池之内にかけての低地であったと云われる。「鴨の声」は大和の凡てを表す。 
死に直面して、このような悲惨な歌は少ないといわれる。

27日 大津皇子妃の歌

大津皇子は漢詩も残しておられる。「懐風藻」には、 

金鳥臨西舎 鼓声催短命 泉路無賓主 此夕離家向 

が残されている。裏切られた人間の孤独感に溢れている。

日本書紀によれば、残された大津皇子の妃・山辺皇女(天智天皇の御子)は、
「髪を(くだしみだし)して()(あし)にして、(はし)()きて(ともにし)ぬ。見る者皆歔欷(なげ)く」とある。

痛ましい状況が生々しく描かれ現場にいるような思いがする。

28日 弟・大津皇子を思う姉の歌

姉の大伯皇女は1116日、伊勢から帰る、 

神風(かむかぜ)の 伊勢の国にも あらましを 

なにしか()けむ 君もあらなくに  2-163

 見まく()り 吾がする君も あらなくに

  なにしか来けむ 馬渡るるに    2-164 

姉が弟を思う悔しく切ない歌、涙無くして読めぬ。

29日 二上山(ふたかみやま)に本葬

大津皇子の殯宮(あらきのみや)()は鄭重に行われた、恰も罪を憎んで人を憎まずの如く。そして大和二上山(ふたかみやま)の山頂雄岳の頂きに本葬されたのである。
現在は、「にじょうざん」と呼ばれている、そして大阪平野はおろか大和平野のどこからでも、この山は見える目だった山で、この山を見れば大津皇子を思いだし悲劇の皇子・大津への哀悼の意が先ず捧げられる山となっている。

30日 二上山は「吾がいろせ」 諦めて、あきらめきれない姉・大伯皇女、二上山そのものを弟と思うとのたまうのである。 
大津皇子の(しかばね)を葛城の二上山に(うつし)(はふ)りし時、大来(おおくの)皇女(ひめみこ)哀傷(いた)みて御作歌 

現身(うつそみ)の 人なる吾や 明日よりは

   二上山を いろせと吾が見む  2-165 

また、池の磯のほとりの馬酔木(あしび)の花を見れば、こみ上げる悔しさを歌われた。 

磯の上に ()ふる馬酔木(あしび)を ()()らめど
   見すべき君が 在りといはなくに 2-166

31日 律令国家建設の犠牲

天武天皇の皇后である大伯皇女の姉・う野讃(うののさら)(らの)皇女(ひめみこ)の系統で律令国家を作り上げようとする(うの)の素志からは、大津皇子は当然葬り去らなくてはならぬ存在かも知れない。大津皇子は将に律令国家建設上の犠牲となられたのである。

大津皇子の霊魂は、雄巣岳の山頂から、大和平野を見下ろして啜り泣いているに違いない。それは、この大和に来る人々が、先ず、二上山を真っ先に呼び止められるからである。完