強靱な頭脳と精神こそ国難救う

文芸批評家、都留文科大学教授・新保祐司

産経2013.1.3  

 ■強靱な頭脳と精神こそ国難救う

 思い返せば、3年余の民主党政権下の日本に生きていることは、実に不愉快であった。「戦後民主主義」の日本に生活していることがそもそも不愉快なことであり、だから、「戦後レジームからの脱却」を強く願っている一人なのだが、この3年余の期間はその不愉快さも極まったかの感があった。

 ≪日本の「常識」の大道を行く≫

 不愉快さのよって来る原因は、数え上げればきりがないが、「事業仕分け」とか「近いうち」といった茶番劇もさることながら、根本的には人間の卑小さばかりを見せつけられ、人間の偉大さや高貴さを示す事象が実に稀(まれ)であったことである。日本人が日本に生きていることに誇りを感じさせることがなかった。そして、この民主党政権を選択したのが日本人自身であることを思えば、ほとんど国民の現状に絶望しそうになった。

 だが、待ちに待った総選挙で安倍晋三自民党が大勝したことで、何とか絶望しきることがなくてすんだ。これでうんざりすることも減っていくことを期待している。

 安倍政権に望むことは、あれこれ具体的な政策というよりも前に、日本の歴史と伝統に基づく日本人の考え方の「常識」という大道を歩むことである。憲法改正も安全保障も経済政策も教育問題も、すべて日本人の「常識」から発想すればいいのである。逆にいえば、この3年余りの間ずるずると続いた政権が、いかに非常識な考え方を振り回していたことか、ということである。亡国の悪夢を見ていたような気がする。

近代日本の代表的基督者、内村鑑三は、「武士道と基督教」の中で「我等は人生の大抵の問題は武士道を以て解決する、正直なる事、高潔なる事、寛大なる事、約束を守る事、借金せざる事、逃げる敵を遂わざる事、人の窮境に陥るを見て喜ばざる事、是等の事に就て基督教を煩わすの必要はない、我等は祖先伝来の武士道に依り是等の問題を解決して誤らないのである」と書いた。政治は「人生の大抵の問題」の領域を扱うものである。そして、日本人の「常識」とは、「祖先伝来の武士道」を基盤としたものに他ならない。

 ≪「祖先伝来の武士道」今再び≫

 「正直」「高潔」「寛大」といった徳が今日どのくらい失われてしまっているか、「約束を守る事」ということが「近いうち」という言葉をめぐる騒動でいかに蔑(ないがし)ろにされたか、ということを思えば、「祖先伝来の武士道」に依って生きることも容易ではないのである。「借金せざる事」という禁欲の欠如が国の財政悪化の根本にあるわけだし、「人の窮境に陥るを見て」喜ぶ卑劣な心理が、大方のメディアを成り立たせている。

安倍自民党の公約に「国土強靱(きょうじん)化」というのがあるが、確かに大震災への備えの必要やトンネル崩落事故などに露呈したインフラの老朽化は危機的な問題であり、それを解決していくために「国土」の「強靱化」は不可欠であろう。

 それにしても、「強靱」という表現はいい言葉である。強大や強盛をモットーとする国家と比べて、「強靱」という言葉には引き締まった語感がある。強大や強盛には張りぼて的な虚勢の悲喜劇が感じられるが、「強靱」には自らに厳しい節制がこめられている。

 昨年末の政権交代により、今年の日本は新たな門出のときを迎えるが、その重大な節目にあたって必要なのは、日本人の精神の「強靱化」である。尖閣諸島や竹島、あるいは北方四島といった領土問題や他の外交・安全保障の問題のような、「戦後民主主義」の安逸の中で眼をそらしてきた問題と堂々とぶつかる「強靱」な精神であり、本質的な議論を避けない「強靱」な思考力である。

 ≪小利口さではもはや通用せぬ≫

 昨年5月に桶谷秀昭氏との対談『歴史精神の再建』を上梓(じょうし)したが、その中で氏は新感覚派の横光利一が「今文壇で一番頭の悪いのが中野重治だ」といい、それに対して中野が「俺の頭は悪いかもしれないが、強い頭だ」とある小説に書いたということを語られた。

 「強い頭」、これこそ今後の日本人に必要なものである。教育改革の要諦も、ここにある。戦後の日本の教育は、「いい頭」に価値を置き、「強い頭」を持った人間を育成することを怠ってきた。自分で考えず、ただ回転の速い、整理能力の高い、要領のいい、といった頭を「いい頭」としてきた。

 しかし、こういう頭は、時代の風向きに敏感なだけの小利口な頭に過ぎない。戦後世界の中で小利口に立ちまわってきた日本も、もうそれでは通用しなくなった。いつの時代にもいる「新感覚派」的な小利口な人間たちが、日本をこんなありさまに引きずり落としてしまったのである。

 日本を再生させて内外の国難に取り組んでいけるのは「強い頭」に他ならない。「強い頭」とは、人間と世界の過酷な現実を直視する水平的な勇気を持つにとどまらず、その現実を貫く垂直的な希望を抱いているものだからである。(しんぽ ゆうじ)