41講 大化改新と蘇我氏の衰頽

激動の時代へ

権力をめぐる争い

聖徳太子は修史事業を最後の大きな仕事として推古天皇三十年年、622年、二月二十二日に崩御されました。天皇権の確立と集権国家の樹立を目指し、斬新な改革を進められたのですが、その志半ばにして崩じられたのです。然し、太子が理想とされた政治は実現されなかつたものの、少なくとも以後の政治は太子によってその大枠を決定づけられていたともいえます。

一方、推古天皇や聖徳太子を傀儡化して独裁体制を実現しようとした蘇我氏は、天皇権確立を目指す太子によってその目的を達することができないでいましたが太子崩御によって再び専権をふるうようになりました。とりわけ太子崩御の四年後に馬子が没し、その後を継いで大臣となった蝦夷(えみし)とその子・(いる)鹿()は、かって崇峻天皇を暗殺したころ以上に専横をはたらきはじめるのです。

太子が崩じられてから六年後、推古天皇も崩御せられ。遂に推古朝で要をなしていた三人の為政者がすべて亡くなり太子を中心に進められた改革はここに完全に終止符を打ちました。

馬子は天皇崩御後の諸豪族の反発を恐れて露骨な蘇我独裁な走らず、また太子の革新性のある政治が旧豪族の支配体制を打破するという点で新興勢力の蘇我氏の利害と一致する面もあったため、比較的に太子との協調を保ったのでした。しかし、その馬子もなく、ましてや太子も推古天皇もなくもいまや頭を抑える者がなくなった蝦夷と入鹿は、その権勢をほしいままにしたのです。そして、蘇我氏の専横が激しくなるほど、それに反発する気運が高まっていくのでした。こうして、時代は太子の目指した天皇権確立と集権国家樹立という方向へ動きながらも、そその過程において権力争奪を巡る幾つもの血なまぐさい事件を経験しなければならなかったのです。

 

田村皇子を皇位継承者に擁立した蘇我氏

推古天皇後の有力な皇位継承者候補としては、田村皇子(父は敏達天皇の皇子・押坂彦人(おしさかのひこひと)大兄(おおえの)皇子(おうじ)、母は敏達天皇の皇女・糠手(ぬかて)(ひめの)皇女(みこ))(やま)(しろの)大兄(おおえの)皇子(おうじ)(父は聖徳太子、母は蘇我馬子の(むすめ)刀自古郎女(とじこのいらつめ))の二人がいましたが、蝦夷・入鹿父子はこのうち田村皇子を擁立しようとしました。

蝦夷は(やま)(しろの)大兄(おおえの)皇子(おうじ)の叔父に当たり、それまでの蘇我氏であれば、蘇我の血をひく(やま)(しろの)大兄(おおえの)皇子(おうじ)を擁立したはずです。然し、蘇我氏は既に血縁的なつながりよりも傀儡化しやすいか否かによって天皇を立てようとしていたのです。(やま)(しろの)大兄(おおえの)皇子(おうじ)は天皇氏的自覚を強く抱いていた聖徳太子の一族であり、当然太子の政策を継承して蘇我氏の独裁を排除しようとすることが予想され、蝦夷・入鹿とすれば何としてもその関係を阻止したかったのです。

田村皇子は蘇我氏との血縁関係は全くなく、しかもその母が采女の腹であることから本来、皇位につけるはずがありませんでした。蘇我氏とすれば、その田村皇子を敢て皇位につかせることで恩をきせ、蘇我氏に頭の上がらなくなった天皇を自在に操ろうという目論見があったようです。また蘇我系の天皇でないことから、群臣に対するウケがよいという読みもあったでしょう。

いずれにせよ、推古天皇は崩ぜられる直前、二人の皇子を召して遺詔したのですが、どちらを皇位家継承者にするのか、その内容はどちらともとれる曖昧なものでした。そのこともあって、群臣も田村皇子派と山背大兄皇子派に分かれたのです。田村皇子派には蝦夷・入鹿のほか、大伴(おおともの)(くじら)采女摩(うねめま)()()高向(たかむくの)宇摩(うま)中臣(なかとみの)御家(みけ)難波(なにわの)()()と言った面々が加わり、対して山背大兄皇子派には蘇我境部摩(そがさかいべのま)理勢(りせ)許勢(こせの)(おお)麻呂(まろ)佐伯(さえきの)東人(あづまびと)紀塩手(きのしおて)らが顔を揃えました。ここに蘇我摩理勢が山背大兄皇子派の筆頭になったことから蘇我一族も二派に分かれてしまったのです。

 

 

註 蘇我蝦夷(えみし)

  ?--645年、大化元年、父の後を継いで大臣となり国政上の主導的地位につく。同族の境部摩理勢と結んだ山背大兄皇子の即位要求を斥けて舒明天皇を擁立した。入鹿が645年大極殿で暗殺されると自邸に火をかけて自殺。その際、国史や多くの宝物が焼失した。

 

  蘇我入鹿(いるか)

  ?--645年、大化元年、皇極天皇のとき、父蝦夷とともに国政を主導し、舒明天皇没後、即位を要求する山背大兄皇子を攻めて上宮王家を滅ぼした。

 

 

(やま)(しろの)大兄(おおえの)皇子(おうじ)

--643年、推古天皇の死後、蘇我蝦夷の擁立した田村皇子(舒明天皇)と皇位を争ったが志を得ず、643年、皇極二年、蘇我入鹿に襲われ一時生駒山ら逃れた。しかし、最後は斑鳩寺に帰って妻子とともに自殺した。

 

  采女(うねめ)

  後宮女官の一。天皇に近侍し主として食事のことに携わった。令制以前から存し、国造が貢していたが、大化の改新後は郡司が貢献。大同二年の

  807年一時廃止されたが、変遷しながら続き、名目的には江戸時代まで存続。 

  

  蘇我境部摩(そがさかいべのま)理勢(りせ)

  ?--628年、推古三十六年、飛鳥時代の朝廷に仕えた有力豪族。612年、堅塩媛の改葬のとき、蘇我一族を代表して誅を奏上。推古死後、皇位継承を巡って蘇我本宗家の蝦夷・入鹿が田村皇子(舒明天皇)を推したのに対して山背大兄皇子を推薦。本宗家の怒りにふれ殺害された。