「大学」 その一 鳥取木鶏研究会例会 平成21年1月5日 徳永圀典記
経一章
「大学の道は、明徳を明らかにするに在り。民を親たにするに在り。至善に止まるに在り」
――君子の学の目的は第一に、天から授けられた徳性、即ち良心を立派に磨き上げること。第二に、独り己を磨き上げるのみならず、それを推し広めて、世の一般の人々をも、昨日よりは今日、今日よりは明日と、明徳を明らかにせしめることにある。第三は、二つの項目を、志向最善の地位に保たせる、それが大学の真の目的である。――大学の書はこれらの事を説明したものだから、この三項目を「大学の三綱領」と言う。この三綱領を実現する細目として「格物、致知、誠意、正心、終身、斉家、治国、平天下」をあげて、これらを「大学の八条目」という。
「明徳を明らかにす」
――人間には天から授けられた立派な徳性がある。明徳とも言う、峻徳ともいう。良心である。人としてはそれを明らかにすることが必要。明鏡も時には曇るように、良心も過剰の欲望や、偏頗な気質の為に、一時曇ることがある。これを明らかにすることが修養の第一である。
「民を親たにす」
――一般の人々を導いて、日々進歩せしめる。人間の修養は自分だけよくして、それで良いというものではない。「親民」までいかなければ、実は自己もまた完全には完成しないのだ゜という。
「至善に止まる」
――何事も至上至善を窮めつつ、その地から動かぬように努力するがよい。至上至善の地は、止らなければ、もはや至善ではなくなってしまう。
「止まるを知って后定まる有り、定まって后能く静かに、静かにして后能く安く、安くして后能く、慮り、慮りて后能く得」
――人間の最終、止るべき目標が決まってくると、その次には自分の方針も一定してくる。静かに熟慮して一番良いところを目標とせよということ。
「物に本末あり、事に終始あり。先後する所を知れば、則ち道に近し」
――何事にも始めと終わりがあり、いかなるものにも本と末とがある。人生に於いても、根本とすべきものと、そうでないものとがあり、何事をするにも、何から始めるか、最後は何にするかという、終始がある。その本末前後を誤らぬことが、成就への近道である。
「古の明徳を明らかにせんと欲する者は、先ずその国を治む。その国を治めんと欲する者は、先ずその家を斉う。その家を斉えんと欲する者は、先ずその身を修む。その身を修めんと欲する者は、先ずその心を正しくす。その心を正しくせんと欲する者は、先ずその意を誠にす。その意を誠にせんと欲する者は、先ずその知を致す。知を致すは物に格るに在り」
――人間の良知を完全に磨き上げようと思うなら、事物に直接に当って、その
中に流れている天理を調べるようにするがよい。宇宙間には、常にある道理が流れている。植物や動物の中に流れるものは物の性であり、人間のなかに流れているものは人の性である。だから、人の性を窮めること、即ち良知を極めようとするならば、先ず物の性を窮めること、即ち物に至ることが必要である。
「物格って后知至る。知至って后意誠なり。意誠にして后心正し。心正しくして后身修まる。身修って后家斉う。家斉いて后国治まる。国治って后天下平らかなり」
――天下の本は国にある。国の本は個人の修養から始まる、修身・斉家・治国・平天下の章である。
「天子より以て庶人に至るまで、壱是に皆身を脩むるを以て本と為す」
――上は天子から、下は庶民に至るまで、専ら身を修めることが根本である。
「其の本乱れて末治まる者は否ず。その厚うする所の者薄うしてその薄うする所の者厚きは、未だこれ有らざるなり」
――何事にも根本が乱れて、末の治まるものはない。その人自身も、家庭も、国家も、またその他どんな小さなことも、みなそうである。人の上に立つ者はその本を知らねばならぬ。
伝二章
「苟に日に新たに、日日に新たに、又た日に新たなり」
――昨日よりは今日、今日よりは明日と行いが新しくなるように修養に心掛けねばならぬ。殷の湯王はこの言葉を盤、洗面器に彫りつけて自戒の言葉とした。
「周は旧邦なりと雖も、其の命、維れ新たなり」
――周は既に滅びた国であるが、今また徳を積んだために新たな天命が下り再興することとなった。
「この故に君子は其の極を用いざる所なし」
―何事をするにも常に最善の道、最上の力を尽くさなければならぬ。