「歴史の衝突」の時代に覚醒せよ

□拓殖大学総長・渡辺利夫

 年は改まったが鬱々として晴れない。歳のせいであろうが、そればかりでもない。中韓はもとより欧米のクオリティペーパーまでが安倍晋三首相を「歴史修正主義者」と難じて(てん)(ぜん)たるありさまである。物心ついた頃に戦争を体験し、その後70年を生きてきた人間としてはどうにもやりきれない。

 ≪大合唱の「歴史修正主義」≫

 歴史修正主義というが、歴史はむしろ恒常的に修正さるべきものであろう。つねに客観的で検証可能な歴史というものは存在しない。社会の支配的勢力がみずからの統治の正統性を訴えて歴史を編纂するというのはよくあることだ。中国の近現代史を貫くものが共産党の正統史観であり、韓国のそれは日本統治という「清算」すべき過去を抱えもつ史観に他ならない。日本史はそれほどあからさまではないが、イデオロギー時代の(ゆが)みはなお(ただ)されてはいない。

 残念なことに、ナチスドイツのホロコースト否認論者が自らを「歴史修正主義者」だと言い立てたために、この用語法は途方もなく否定的な歴史的記憶を呼び覚ます修辞となってしまった。中韓の政権ブレーンたちはそのことをよく知っているのであろう。安倍首相を名指しで歴史修正主義者だといい、戦前期日本のアジア侵略主義の再現者のごとくに言い募っている。

 首相の靖国参拝、河野談話にいたる経緯の政府検証、集団的自衛権行使容認に関する閣議決定、朝日新聞による従軍慰安婦についての吉田清治証言取り消しなどが相次いだ。日本の国際的孤立化を狙う中韓が、これら一連の動向を日本の「右翼化」「軍国主義化」の論拠とし強く反発している。過剰な平和主義、自衛の構えにさえ抑制的に過ぎたことへの自省を少し形に表しただけで、歴史修正主義者呼ばわりの大合唱である。

 ≪反日外交加速させた朝日報道≫

 東アジアの秩序を軍事的威圧をもって変更しようというのが中国であり、守勢に立たされているのが日本であることは自明である。日韓基本条約という国際条約により「完全かつ最終的に解決」したはずの過去を蒸し返して「歴史清算」を叫ぶ韓国が非理性的な存在であることもまた、自明である。自明の「理」を(わき)まえない強圧的な対日外交が彼らの戦略であれば、日本には中韓に抗する抑止力を強化するより他に選択肢はない。

 問われるべきは欧米メディアの安倍政権に対する反応である。欧米の有力紙が安倍首相を歴史修正主義者だと繰り返し批判している。自由と民主主義、法治と市場経済を価値信条とし、これを共有しているはずの欧米のメディアがどうしてそんなに条理にかなわぬことをいうのか。

 欧米のメディアに日本の戦前史のネガティブな記憶を甦らせたものは、歴史教科書問題、首相の靖国参拝、従軍慰安婦問題について、1980年代の前半期以降、主として朝日新聞が張ったキャンペーンであった。これに力を得た中韓が猛烈な反日外交に転じ、その結果、教科書検定基準における近隣諸国条項、首相の靖国参拝中断、河野談話、村山談話という著しい成果を手にすることができた。この成功体験が反日増悪の直接的な契機となった。日本政府は中韓の対日外交に「倫理的優越性」を与えてしまったのである。

 ≪再生する左翼リベラリズム≫

 欧米メディアもまた日本政府のこの対応を眺めて、道義は日本にではなく中韓にあり、という否定的な日本イメージへと次第に強く傾いていった。日本は戦勝国によって形成された第二次大戦後の国際秩序の変更を要求する危険な歴史修正主義の国だという論説が大手を振るうようになったのは、中韓の反日外交の展開と軌を一にしている。

 昨年12月4日付のニューヨーク・タイムズはその社説を「日本における歴史のごまかし」と題し、安倍首相は「国粋主義的な熱情を(あお)って歴史修正を要求する政治勢力に迎合する“火遊び”の危険を冒している」とまで主張するにいたった。

 左翼リベラリズムは少なくとも先進国においては日本に固有なものだと私はみていたのだが、どうやら愚かだったようである。冷戦崩壊後のこの秩序なき世界において、左翼リベラリズムは欧米の知識人の中で再生しつつあるかにみえる。

 今年は戦後70周年である。9月3日は中国の「抗日戦争勝利記念日」とされ、同日は「世界反ファシズム戦争と中国人民抗日戦争70周年」とすることが中露間で合意されている。日韓基本条約50周年でもある。

 冷戦後の世界を「文明の衝突」として描いたサミュエル・ハンチントンの予見力は確かなものであったが、今後の日本は「歴史の衝突」の時代をも生きていかざるをえまい。日本人の歴史意識のありようが徹底的に問われる時代がやってくる。新年である。このことに覚醒しようではないか。