鳥取木鶏会 「安岡正篤先生の言葉」 平成2715 

育ち方で生涯が決まる

 人間の一生も子供の時に大体定まる。だから本当の教育学者・犯罪学者は特に時期を重視する。ハーバード大学のグリップという犯罪研究家は、特に児童少年犯罪の大家でありますが、彼の説は現代世界の少年児童の犯罪問題の参考にされております。このグリップ教授の説によりますと、大体、子供は56才くらいまでの育ち方、その心理によって将来の犯罪を予測することができる。この5-6才くらいまでの間に立派に育てられた子供は決して社会犯罪はやらない。だから現代社会から犯罪を絶滅しようと思ったら先ず5-6才位迄に児童教育を徹底しておかねばならない。

そこで、物を育て上げるという徳、即ち儒教的に言えば「仁」であります。これを子供に教えなければならない。だから子供の教育は最も実践的であり、主として道徳的でなければならない。即ち徳性を(やしなっ)て良い習慣をつつけなければならない。  易学のしおり

 

清く、明るくが根本的徳

 清く、明るいということが人間のあらゆる徳の最も根本的な徳です。そこに古代神道の非常なデリカシーがある。微妙な貴い点がある。清く、明きとか、さやけくとかいう言葉がそれである。従ってその時は、非常に静かです。静まっておるから、清く、明るく、静かということは、神道の眼目であります。子供を育てるのはそうでなければなりません。清く、明るく、健やかなるを貴ぶ、子供を不潔にして育てたりなんかしてはいかん。そうすると、大きくなって必ず不潔をやる。汚職だとか、涜職だとかいうようなことをやるのは、みんなこの頃からの悪縁である。 人生の五計

 

敬の有無が動物との違い

 愛するということをよく言う。愛というものは基本的なものであるには相違ないが、これはどの程度かにおいて植物にも、特に動物にあるわけです。愛というのはまだ人の人たる所以の究極的なものとは言えない。

それでは他にあるのかというと、それがいわゆる敬、敬う、敬するということであります。敬するという心はつまり、これから益々、人間の生というものが開けてゆく、進歩向上してゆく、その高きもの、尊きもの、大いなるものの感覚、知覚です。そういうものを我々が悟る時、我々の心に敬う、敬するという心が出てくる。だから人の人たる所以の一番大事なものは敬するということです。敬するということがありますと、これは相対的な、相待つ(reciprocal、レシプロカル、相互の、お互いの)なものですから、必ず今度は内に省みてそこに恥ずるという心が生ずる。だから、敬する、敬う心と、恥ずるという心とが、人の人たる所以のぎりぎり決着の問題です。だから、敬することを知らず、恥ずることを知らない者は人間ではない。       十八史略

父たる存在とは

 家庭で大事なのは父の敬である。そのためには、言葉とか鞭で子供に対して要求したり説教したりする前に、父自身が子供から敬の対象たるにふさわしい存在たることが肝腎です。父の存在そのものが、子供に本能的に敬意を抱かしめる、彼の本能を満足させる存在であること、それが父たるもののオーソリティであります。だから、父の存在、父の言動そのものが子供を知らず知らずに教化する。簡単に言えば、父の存在・父の姿・行動が本能的に真似するものでなければならぬ。

父たるものは子供の前で大胡坐(おおあぐら)をかいて、下品な言葉で怒鳴ったりするようなことが一番いけない。

              人生の五計

家庭は人間の基礎

 家庭というものは、全く人間生活の基礎であり、民族興亡のよるところでありますから、これを出来るだけ正しく、美しく、力強くしていかねばなりません。そのためには、なるべく家族水入らずの気安さ、小じんまりとした、手入れの行届いた住宅、決して贅沢でないが、気のきいた衣食、静かで考える余裕のある生活、みだりにならない社交などが必要であります。

家庭を失いますと、人は群衆の中に彷徨い入らねばなりません。群衆の世界は乱雑喧騒であり、憎悪や恐怖や革命破壊の横行する非人間世界になりやすい。人は群衆の中ではかえって孤独に襲われ、癒されることのない疲労を覚えがちなものです。これに反して、良い家庭ほど人を落ち着かせ、人を救うものはありません。

               孟子