亡国の方法 

荀子・人妖の論 

礼儀不修。内外無別。男女淫乱。父子相疑。則上下乖離。寇難並至。(天論より)。礼儀修まらず、内外別無く、男女淫乱にして、父子相疑へば、則ち上下乖離し、寇難並び至る。 

荀子は天論篇の中に人妖を説いて、以上の六つをそのままにしておくと、必ず国は滅びると痛論しております。 

礼儀不修

「礼儀不修」。礼儀は礼と義にわけると、礼とは調和で、つまりは社会生活、国家生活における組織・秩序であり、その中にあって人間がいかになすべきかという思想・行動が義であります。 

従って礼儀修まらずとは私達の国家生活、或は社会生活の組織・秩序とそれに即した思想・行動がおさまらないということです。ちょうど現代の日本がこれにあてはまりましょう。 

内外無別

「内外無別」とは、内と外との区別のつかぬ、自分の心内と心外、家庭の内と家庭の外、国内と国外の区別がないということです。今日の日本は正にその通りですね。「兄弟内に(しょう)(せめ)げども、外その()を防ぐ」

と申しますが、その意味で幕末維新の日本人は偉かったと思います。アメリカは勿論のこと、イギリス、フランス、オランダ、ロシアに至るまで、それぞれ国内の佐幕派、勤皇派に働きかけて誘惑しました。 

然し、感心なことに両派とも外国に頼ることを厳として拒否しました。これは大変立派です。ヨーロッパの歴史を見ますと、外国の政策に乗ぜられておるか、或いはそれを悪用して事態が一層紛糾しておる、と言った例が殆どであります。これをよく実証しておるのがフランス革命です。ルイ十六世が宮殿を逃げ出したのが辛亥の年であり、これを捕えてギロチンにかけ、あの惨憺たる恐怖政治を始めたのが(みずのと)(うし)の年からでありますが、彼等は目的の為に手段を選ばず、外国勢力でも何でも利用しておる。利用するというよりは、寧ろ外国勢力によって操縦されております。 

男女淫乱

「男女淫乱」。男女関係が乱れるということは民族滅亡の一番の近道です。
処が、昨今日本もこれが非常に乱れまして、週間誌等は挙ってこの種の記事を面白おかしく書いておりますが、大変なことになったものであります。 

父子相疑

「父子相疑」。これは今日最も深刻にして根本的な問題であります。父子相疑とは何ぞや。母子相疑でなくて父子相疑と書いたところに荀子の見識があります。 

教育ママという言葉が表現するように終戦後子供の教育は専ら母親がこれにあたり、父親はその責任から解除されました。これが現在日本の一つの大きな失敗であります。 

敬と恥の原理

子供の教育について考えますと、父と母とは非常に違い、父の任務は子供の人格を決定する教育を担当することにあります。そこで父は子供の「敬」の対象にならなければなりません。子供は愛だけでは駄目であります。愛は犬や猫でも持っておりますが、特に人の子は生まれてもの心つく頃から「敬」することを知って、始めて「恥」づることを知ります。言い換えると人格というものが出来るのです。 

この敬―恥の原理から、道徳とか信仰等という世界が開けて、民族が進歩してゆくのであります。その国民道徳の基盤である父子―親子が相疑うようになる。おやじの言うことがどうも信用出来ぬ、あんなことで親父はいいのだろうか、等と子供が父に疑を持つ。また父も、どうせ時世が違うのだ、俺の言うことなど聞かないし、聞いても分かるまい。一体子供は何を考えているのだろうか、というわけで子供を疑うわけです。そうなると子供は父に背き離れます。 

上下乖離

それが上下乖離ということです。乖離ということはただ離れるだけではありません・ただ離れるだけですと、又結合することもできますが、これは再び元に戻すことが出来ないという決着の言葉です。今、日本は各方面に於いて「上下乖離」しております。その最たるものが政府即ち内閣に対する乖離であります。 

大阪弁で「頼みまっせ」、「頼りにしてまっせ」と言いますが、父親とか為政者というものは国民大衆から頼りにされ尊敬されなければいけません。これが行われぬということは、そもそも為政者の責任ですけれども、また為政者に対してそういう国民の反感を煽るような議論にも責任があります。これは言論機関にある者の第一に慎むべきことです。さて、上下が乖離するようになると最後は、 

寇難(こうなん)(へい)() 

寇難(こうなん)(へい)()」いろいろ寇難が並び起ってくる。「寇」は外敵。外国からの攻撃。「難」は国内の難しい問題です。つまり国の内外を問わず厄介な問題が並び起って来るわけです。これが荀子・人妖(にんよう)の名論と言われておるものであって、歴史的にも間違いのない原理・原則です。これを何とかしてもう少し常識的・良心的に健康に至ることを我々は覚悟しなければなりません。いかにすれば、良いかということは、これらの古典が十分に教えておりますから、問題はこれを今日の時世にいかに適用するかということであります。幸か不幸か今年は時局が一層悪化して、所謂危局になるということは免れ得ないと思います。その代わりこれを善処すれば、日本は一段と躍進するでしょう。その重大な岐路が本年でありまして、これは指導者、指導層の責任であります。政府でいうなら総理大臣を始め各省大臣、会社でいうならば社長を始め各重役、こういう人達は「揆」におる人ですから、この人達の責任としなければなりません。世の中が世の中だから、マスコミが騒ぎ立てるから、等というのは逃げ口上でありまして、今まではそれですみましたが、もうそういう逃げ口上、臆病な引っ込み思案、卑屈な回避は許されないのであります。 

いつも申しあげますように、日本ぐらい国際政治学上微妙な位置に存在する国はありません。西と北には共産主義国家の中共、ソ連、それに北朝鮮が並び、また海を隔て、東にはアメリカがあります。 

アメリカは現在一番の友好国でありますが、ついこり間までは大戦争をやった敵国です。 

ということは率直に言うて、日本がしっかりとしておって始めて友好国であるということで、一度弱体を暴露致しますと、どうなるか分かりません、恐らく世界のどこの国にもないような子君難、混乱、悲劇が始まることは明らかであります。 

我々は、どうしてもこれを避けなければなりません。勿論それには矢張りそれだけの国民的な自覚が必要であります。これは少なくとも心ある人々が意識し始めている問題でありまして、事業の経営なども今後は益々変化が激しくなって難しくなると思います。 

従って、皆さんは文字通り揆を一にして、大いに事業を確立し、堅実に発展するよう努力されることが肝腎であります。現在多くの人々がそういうお手本を待ち望んでおります。どこかによい手本がないかと皆考えている時でありますから、非常な共鳴力がありましょう。それ以外に今日の日本を救う道はないと信じます。 

安岡正篤先生の言葉