用瀬アルプス物語
用瀬アルプス、多くの方は山好きの方でも聞かれたことは少なかろう、私が言い出してまだ4年しか経っていない鳥取の山だからだ。処が今や、地図に掲載され鳥取県唯一の百名山・大山に次ぎ電磁地図測量が平成28年国土地理院によりなされた。
平成26年、私が地元紙日本海新聞に「花の山・用瀬アルプス」等々を連続寄稿して脚光を浴び、行政も注目、続いて命名と事業企画を鳥取市長に私が申請したのが発端であった。
その鳥取市用瀬町(人口5千人)は私の生地、鳥取砂丘を造成した清流・千代川の上流に位置する。日曜夜番組ダーウィンは来たで全国的に有名になったモモンガの里・杉の町・智頭町に隣接、参勤交代の因幡街道にある。鳥取県は別名「星取県」、皇后陛下ご来臨の星澄む佐治天文台の佐治川と千代川の合流点・用瀬は戦前は市が盛え、無形文化財「流し雛の里」で高名、一日一万人が県内外から見学に来る流し雛行事、流し雛の館もあるツツジの花の町。
その用瀬町の背後に町を囲み、北から南へ、ツツジの花の愛宕山、城山(用瀬左衛門尉氏の景石城址)、三角山、おおなる山、最高峰の洗足山海抜743米が屹立する。鳥取自動車道第三用瀬トンネル、別府付近高架からみた頭巾山とも称するアルプスの盟主・霊峰三角山海抜508米の威容は北アルプス槍ヶ岳そっくり、山岳誌・山と渓谷に隠れ名山として紹介され、岳人誌に私の紹介記事も載り、縦走7時間コースで今や県内外から多くの登山者で賑わうようになった。用瀬アルプスは徳永が名付け親だと知れ渡った。
用瀬アルプスには、ツツジが群生、石楠花、イワウチワ等も見られる。子供の時は華奢で三角山には一度しか登っておらないが80歳を過ぎてから幾たび登山したであろうか、人生とはわからぬものだ。
北アルプスの槍ヶ岳そっくり、屹立した巨岩の三角山山頂には元女人禁制修験場の峰錫権現・猿田彦命を祀った重厚なお社がこれまた大巨岩の上に鎮座まします。猿田彦命の住む御栖が転訛し三角山、視界は抜群、眼下に町並みと千代川の清流が美しい、遥か日本海も眺望、春には眼下の愛宕山の全山ツツジが目を楽しませる。
東井神社の横手から登る一の谷公園もツツジの山だが、この公園から三角山へ直登するコースは愚生保有の山の稜線をツツジを楽しみながら進むが三角山直下の岩壁の威容は見応えがある。
こんなことから昨年、今年と鳥取市や鳥取県職OB会の要請を受け登山にかかわる講演をするはめになった、題して「山を想えば人恋し」。山とロマンに生きた北アルプスの先駆者・百瀬慎太郎の言葉、北アルプスは大沢小屋から拝借した私の好きな言葉だ。
単に登った山の自慢話を私はしない。講話の一例をあげる、日本山岳登山の開祖は飛鳥時代の実在・役行者・役小角、江戸時代光格天皇が役行者に追贈された神変大菩薩号の話、派生して神号とか大師号の話題に言及する。役行者の弟子であった前鬼と後鬼、奈良・和歌山の秘境・大峰奥駆道は太古の辻を下った宿坊・小仲坊の主・五鬼助義之氏と面識あるが、氏は後鬼の61代目末裔の話。男体山に触れれば中禅寺湖西岸の風景が当時の英国大使の故郷スコットランドの風景に似て懐旧の思いで別荘を建てた話。北アルプスのメッカ上高地は穂高神社の神垣内に由来。幕末に来神の英国人グルーム氏の六甲カントリー開発、カタカナ地名の多い理由解説、そして話題は世界の神戸ウオーターから灘の銘酒に発展、神戸支店時代に担当した灘の酒造メーカー、剣菱、沢の鶴、菊正宗、白鶴、黒松白鹿、日本盛、忠勇、私が新規開拓の世界長酒造などなど酒の話に飛ぶ。
雪が溶け、米寿記念に私の生年月日と標高が同じ648米のおおなる山頂に標識を寄贈したが、その前で仲間とコーラスを合唱、山々に歌声は高らかに木霊した、オペラ魔弾の射手「狩人の合唱」、夏の思い出、雪山讃歌である。
スポーツと無縁だった私が行友会・山岳会長を引き受けハイキングを奨励、住友登山バッジを手交したのも懐かしい。旧制・鳥取一中では肋膜炎を発症し一年休学、スポーツと無縁な青年時代を感慨無量に思いだす。
壮年時代から登山に魅せられ山は思索の場となった、米寿になっても日々登山をしつつ哲学する。昨年歩行は2243キロ、現段階ではまず元気、若い仲間から姿勢よく健脚と言われるが果たして何時まで?明日のことは分からぬ。
山頂標識と揮毫の山小屋看板は遺った!そして歌う
「山よ谷よ ご機嫌よろしゅう また来る時も笑っておくれ また来る時も 笑っておくれ」。
おおなる山 山頂標識寄贈
米寿記念
用瀬アルプス おおなる山
用瀬アルプス 六郎木小屋看板揮毫す
おおなる小尾