寄稿、講演からの抜粋 巻頭言

これは私が旧ふそう銀行(現山陰合同銀行と合併)の代表取締役常務として勤務中の頃である。五七才から59才の時代。実は平成元年、五七才の頃は東京株式市場のダウ平均はまだ、三万円を越した程度でバブルは弾けていなかった。平成8年にダウは遂に三万八千円を越したのだ。これがピークであった。
私はこの時に色々な経済、社会の異常現象を意識している。米国のアメリカ銀行が日本の資金の支援を要請した事、あのゴールドサックスが住友銀行から五億ドルの資本注入を求めたのは昭和60年頃であったろうか。米国の金融機関が苦しんでいた頃だ。私は一応代表権を持つ役員としてダウ相場に振り回され株式含み益に一喜一憂する経営に不安を抱いていた。詳しくは「一銀行員の回顧」に記載している。現場の融資担当責任者が覇権的に融資を拡大する、私はトップに山陽道の各支店の融資を百億程度回収するように進言もしたものだ。当時はそんな事は耳に貸さない客観情勢なのであった。九十年代は悪い方から始まると感じていた事は講演で述べていた。ここ十年の経済も政治もロスが大きすぎる。
 関西に関係する寄稿は還暦と共に引退した直後に日本海新聞が採用して五日間連載して頂いたものだ。
鳥取に第二の人生を送るべく帰鳥した頃、総理府会計検査院鳥取事務所主催の講演を頼まれた。これを機に鳥取自治研修所の講師も数年務めさせて頂いた。それ以降県内各地で講演を頼まれたがこれもその一部である。